ポルトアルグレは燃えているか

第五回世界社会フォーラム通信

WSF2005社会運動からの呼びかけ
WSF2005反戦会議決議へ


土地占拠闘争から持続的農業の実践へ
MST土地占拠入植地をゆく


渡田正弘グローバリゼーションを問う広島ネットワーク

中南米の農民が主役のイベント

青空の下、、MSTの入植地へ
向かうWSF参加者 (撮影 渡田正弘)
一昨年来日したMSTの活動家シーロ・コヘアさんのお誘いを受け、1月30日早朝より、ビア・カンペシーナのグループに便乗し、ポルトアレグレ市内からバスで約2時間の場所にあるMSTの入植地を訪問した。到着後、入り口から砂地の道路を約1時間てくてくと歩きイベント会場へ向かったが、道路の両側は6〜7分穂の出た稲田が延々と広がっていた。山や丘など全然なく、まさに見渡す限り平野で、これがパンパと呼ばれる草原なのであろう。会場入り口で麦藁帽子をもらいボディー・チェックも受けた。会場そばにある遠浅の巨大湖(というより内海か)を利用して水や大地の恵みに感謝する儀式が行われた後、自然の木や枝で骨組みが作られ、収穫された農作物で飾られたステージでイベントが始まった。

MST入植地に現れた
チャベス・ベネズエラ大統領
参加者数は、約千人位か? よく分からずに参加したがどうやらブラジル・ベネズエラ両国政府とパラナ州政府、MSTのジョイント・イベントらしい。スピーカーはブラジル農業開発大臣、農地改革院理事長、GM大豆栽培に反対しているパラナ州知事、MSTのリーダーなど錚々たる人達。極めつけはベネズエラのチャベス大統領。だからボディー・チェックを受けたのだろう。彼は、アメリカのネオリベラルなグローバリゼーションに対してラテンアメリカの人々が団結して戦おうといった趣旨のスピーチをした。といってもスペイン語によるスピーチなので内容は類推であるが。先住民による先祖代々受け継いできた種子を贈呈する儀式も行われた。ベネズエラ、アルゼンチンなど中南米諸国からの参加者が多かったが、韓国のビア・カンペシーナのメンバーもいた。

土地占拠闘争から持続的農業の実践へ

MST入植地に植樹する筆者
スピーチの後は、WSF開催5年の節目に当たり、次のステップに向けた思いをこめて参加者で地元由来樹木の苗1千本を記念植樹した。私も植樹したので成長振りを見に何年後かに再訪したい。その後、またてくてくと歩いて1000人は入れそうな巨大テントで昼食をご馳走になり、入植地の組合長から現状を聞いた。この土地は、もともと大地主の8つの農場のうちの借金状態にあり生産されてなかった1農場である。占拠闘争を経て土地を獲得した後、闘争の第2段階目として定住した入植地である。現在、35家族170人が協同組合を作って生活し、農場規模は807ha(370haは共同農場)あり、一家族あたり最低17ha(土地の状態によって差があるが)の土地で小規模農業を行っている。日本人的感覚からすると、こんな広大な大農場が小規模農場なの?と思ってしまうほど尺度が全く違う。主要作物は一毛作で栽培する米で、用水は湖からポンプで引いてきている。工場でパック詰めされポルトアレグレ市内へ出荷している。パン工場もあり製品は同じくポルトアレグレ市内へ出荷しているとのこと。野菜は基本的に自家消費用で多品種を栽培している。食後にいただいたスイカがおいしかった。農法は基本的に家畜の糞を堆肥にした有機農法で、まさに自立した持続的農業を推進している入植地である。

土地改革の世界的モデルに

2003年に来日したブラジルMSTの
シーロ・コヘアさん
2003年10月5日/東京
Visit the MST's Portuguese website at www.mst.org.br.
小作人だった時は収穫米の半分を小作料として地主に取られていたが、今は自分達が主人で何事もみんなで決めて生産できるので幸せだと話してくれた。子供達は近くの公立の幼稚園や小学校に通っている。この実践的な取り組みは、大土地所有制が今なお残る多くの途上国農民に勇気を与えずにはおかないだろう。農民運動の枠を超えた社会的インパクトが世界から注目されている理由がうなずける。昨年にバルセロナで農地改革に関する世界フォーラムも開催されたようだが、土地と農民のあり方が今後ますます重要課題になるだろう。
(ポルトガル語通訳協力:下郷さとみさん)




これまでの交流がもうひとつの世界へつながる
ATTAC−TobinTax−AnotherWorld
WSF2005閉会へ

【1月31日】秋本です。相当な暑さの中を朝から夜まで動き回っていて、また顔を出さなければならないセミナーがあちことにあって、全く、メールを出す余裕がありませんでした。報告すべきことはたくさんありますが、印象などを簡単に報告します。

WB&IMF: Bad governance and alternativesでは、ATTACイタリアのメストラムさんは、「WBやIMFなどは数々の貧困を作り出してきたのであり、もはや解決能力はない。WBもIMFも人権や平和について語るが、私たちは信用できない」と述べ、ATTACフランスのジャック・ニコノフ代表は「債務は帳消しすべきである。我々はワシントン・コンセンサスに対して、ポルトアレグレ・コンセンサスを作るべきだ」と述べました。またIGNISのジョンさんは「国連のMDG(ミレニアム開発目標)計画では多額の資金が予定されているが、実際にNGOはMDGを支援できるのだろうか」と問いかけて、「MDGは貧困削減といいながら、結局は貧困の更なる拡大につながる。新自由主義のもとで計画される開発計画は貧困解消にはならない」と述べました。

またジェンダーと開発問題を調査しているフォーカス・オン・ザ・グローバル・サウスのシャマルさんは「IMF、WB、ADBなどの国際機関は男女間のパワーバランスをより不均衡にしている。マイクロクレジット計画やインドの農村社会に押し付けられた構造調整計画で、女性が自立できない構造が作り出され、特にリプロダクティブ・ライトが剥奪されている」と述べました。またアントニオさん(所属団体不明)は、「WBやIMFは様々ななメカニズムを採用しているが、新自由主義の推進という同じ目的を扱っている」と述べ、「フィリピンでは、多額の金が投入されても本当に人々のためのガバナンスになっていない。日本のJAICAは政治の腐敗を作り出すことにしか役立っていない」と語りました。(他のスピーカーは省略)。

通貨取引税のセミナーは2回開かれ、事前の打ち合わせ、またランチセッションも含めて、かなり時間をとって討論が行われました。またATTAC総会の中でもCTTキャンペーンについて討議され、具体的な行動(帰国後に報告予定)が提起されました。

 私の個人的な感想を言えば、メールでしかやりとりをしてこなかった人たちと直接、顔を合わせることができて、とてもよかったと思っています。またATTACはセミナーと総会を開くことによって、各国ATTACが本格的に債務帳消しとCTT導入の運動を進めていくことを確認しました。またシラクが述べている国際税について、ATTACフランスのニコノフ代表は「我々はこの中身についてきちんと分析しなければならず、批判すべきところはきちんと批判していかなければならない」と語っていました。

 ATTAC Japanの取り組みについては、とても注目されました。特にできたばかりのニュースレターを紹介したり、また議員とのつながりができたことは、日本でも本格的にキャンペーンが始まった、ということで好印象でした。またATTACブラジルは、会員に金融関係者などがそろっており、私たちが予想していた以上に、CTT運動をしていました。ATTACでは、今後、特にブラジル、フィンランド、イタリア、ベルギー、アイルランド、ドイツ、フランス、チリ、そしてジャパンが連携をとりながら、CTT運動を進めていくことが確認されました。

昨日30日は、2つの大きなイベントがありました。日韓ジョイントデモです。炎天下の中を「戦争反対、占領をやめろ、WTO/FTA反対・・」などとコールをしながら、集会とデモを行いました。

ブラジルMSTのシーロ・コヘアさん
2003年10月5日/東京
 また29日のビア・カンペシーナのセミナーの入り口で、国労闘う闘争団の署名を集めていたら、2003年9月に来日したシーロ・コヘアさんに会いました。シーロさんは、MSTの入植地を訪問しないか、と提案してくださり、30日にMSTの入植地に行ってきました。訪問した入植地には、ベネズエラのビア・カンペシーナとともに、チャベス大統領が見学に来ていました。またシーロさんは、行く先々で私たちを「僕が2003年に日本に行ったとき、コーディネートしてくれたグループだ」と紹介してくれました。

26日のマーチに登場したMST
 私には、2003年9月末、シーロさんが来日したとき、シーロさんを三里塚や山谷に案内し、とても大変だった記憶がありますが、交流がこんなふうに広がり、役立っているんだな、と思い、感無量でした。このとき、ご協力してくださった皆さん、ごくろうさまでした。

では、他にもたくさん、報告すべきことがありますが、帰国後、報告いたします。










1月26日

世界の%マークがあつまる−−オープニングマーチ
WSFはPossibilityの運動


秋本です。

昨日26日、午後からオープニングマーチと開会式が行われました。ATTAC Japanも大阪組を含めて全員がそろい、マーチに参加しました。

 私たちは午後3時半頃からマーチの出発点である市場に行きました。まだ大して集まっておらず、%旗を挙げて日陰で待機していると、%を見た海外のattacの人たちが寄ってきました。attacフランス、ドイツ、アルゼンチン、チリ、ブラジル、ケベック、イタリア・・・など。昨年はムンバイで開催されたので、南米の人たちとは2年ぶりの再会でした。

2002年WSFに参加したATTACアルゼンチン
 とりわけattacアルゼンチンの仲間たちには格別な思いがありました。2002年、私たちが初めてWSFに参加したとき、金融危機に直面した厳しい状況の中で、attacアルゼンチンの仲間たち約100人がバスでブエノスアイレスからやって来ました。そしてattac総会では、立ち上がったアルゼンチンの仲間たちに全員が総立ちになって拍手を送るということがありました。ここ2005年のポルトアレグレにも、また同じ顔ぶれと、あのときに見た同じ旗がありました。マーチはいつ出発したのか分からないうちに始まり、attacインターナショナルの隊列は、attacフランス名誉会長のベルナール・カッセンも登場してマーチを行いました。

 マーチ参加者は2〜3万人がいたように思います。マーチの終点で開会式が行われ、ミュジーシャンの文化大臣がスピーチをしたそうですが、私たちは間に合わず聞くことができませんでした。

 マーチの途中でいろんな人から声をかけられたり、インタビューを受けたりしました。「WSFについてどう思いますか。これは成功だと思いますか」という質問に対して、私は「何かがある、何かが始まっている、と思う人が世界中から10万人も集まってくるという現象は、どのような形であれ、新しい世界に向かって世の中が動いていくことを示していると思う。しかも米国に反対する人がこんなにいることは、やはりここに可能性を感じられるのではないか。WSFは宣言を出さないことをひとつの方針にしている。これはWSF運動が何かを考える上で重要な要因である。つまり『決定をしない』ことは自分で考えなければならないことを意味している。それはプロセスが重要だという意味でもある。例えば、あるグループがWSFでセミナーを開催するとする。そしてそれはもしかしたら、結果として、参加者は少なかったかもしれない。しかし、それを開催するに至る過程で、そのグループは考えて、学習し、行動し、討論を重ねてきているはずである。そのプロセスこそが成果であり、次の運動を作り出すバネになる。ここにWSF運動のもつ意味がある」と答えました。WSFが成功か、失敗か、という論議は不毛であると思います。そういう質問をすること自体が「可能性」への視点が欠けているのではないかと私は考えました。

今日(27日)からセミナーやワークショップなど、様々なイベントが開催されます。




1月25日

権利が侵害されていることを誰もが認識していた
フェミニストダイアローグ3日目

秋本です。

フェミニスト・ダイアログ(FD)の3日目を報告します。
午前中は昨日に引き続き昼過ぎまでワークショップをやり、その後、全体会議に移り、まとめの討論が行われました。

私の出たワークショップでは、セネガルの女性がムスリム社会におけるファンダメンタリズムの問題を指摘しました。「ファンダメンタリズムというのは宗教ではない。社会を操作する(manupulate)ために権力を掌握するための政策である。

私はムスリムであり、毎日お祈りもしている。コーランには女性はベールをかぶらなければならない、とか、女性は家にいなければならない、とかそんなことは書いていない。権力者はファンダメンタリズムという世俗社会戦略(secularstrategy)を使っている」と述べると、モロッコの女性が「ファンダメンタリズムには宗教的なものと文化的なものがある。権力者は明らかにビジョンを持って、宗教的な運動を利用して、彼らが確立したい社会を作ろうとしている」と語りました。またモーリシャスから参加した女性は「モーリシャスには、インド、中国、アフリカ、ヨーロッパなど、様々なエスニシティーを持った人がいる。今まで、彼らは皆、自分はモーリシャス人だ、と言っていた。ところが最近、自分はAsianであるとか、Aflicanであるとか、自分のエスニシティーを強調し、宗教的な儀式に従う人が増えてきており、分化が生じている。そして女性はそれに従わされている」と報告し、「私たちは女性を取り戻さなければならない」と訴えました。

 次に、では、私たちはどのような戦略を持って運動を展開していくべきか、という討論になったとき、米国の女性が「ゲリラガールズ」の行動を報告しました。「ゲリラガールズは、『女性である』、『女性がここにいる』という強烈なフェミニストのメッセージを持って活動している。女性のイメージをアートにしてポスターやインスタレーションをあちこちのストリートに置いて訴えている。これはかなりの注目性がある」と報告しました。(注:「ゲリラガールズ」は米国のフェミニストたちのパフォーマンス集団です。)

 全体会では各ワークショップで行われた議論について、全体で討論が行われました。

 3日間のFDに参加して思ったことは、新自由主義、グローバリゼーション、戦争、原理主義の問題を指摘し、その中で女性、ゲイやレズビアンの権利、さらには、先住民女性、またパレスチナやイラクの女性たちの権利が剥奪され、さらに、マイノリティの人たちの権利が侵害されていることを誰もが認識していたことでした。またこのFDにセクシャル・マイノリティの人たちが数多く参加していたことは、FDの多様性を物語っていました。

 午後、世界的な野宿者運動のネットワークが主催する第3回NON-VOX FORUM(「持たざる者」)があるというので、行ってみましたが、会場が見つからず、断念しました。

 夜は、attacブラジル、attacフィンランド、attacイタリア、フィンランドのNIDGの仲間たちと、そしてニューヨークのTAX Justice Networkのジャーナリストとともに、夕食をとりながらトービン税セミナーの打ち合わせをしました。

 また本日、ATTAC Japanの第2陣の後発組がポルトアレグレに到着しました。



1月24日

世界の女性たちのダイアローグ
『LOVEのために』で当選した革新市長


秋本です。25日の朝です。

昨日は、開催まで2日を迎え、街全体がフォーラムに包まれつつあります。WSF参加者に配布される帆布バックと登録カードをぶらさげた人や、この機に乗じて儲けようという白タクやテキヤの数も増えてきました。行きが5リアルだったタクシーが帰りはかなり遠回りをされ、12リアルも請求されるというぼったくりにも会いました。こちらが地図を広げて思いっきり英語で文句を言っても、意に介せず、ポルトガル語でまくしたてるという態度はなかなかなものです。

 フェミニスト・ダイアログ(FD)の2日目は初日より参加者が増え、300人ぐらいになりました。オープニングにアフリカのスリナムと、インドから来た女性たちが自分たちの活動の歌を披露し、再開しました。 女性のアイデンティティを求め、共通の敵に対して戦略的アライアンスを作ろうという宣言のもとで討議が始まりました。司会の昨日の討論の報告に続いて、3名のフェミニストからフェミニスト運動の目標とジレンマについて問題提起がありました。戦時下における女性への性暴力犯罪を追及する民衆法廷に関わっているノルウェーのワヒダさんは、ファンダメンタリズムは今始まったわけではないと語り、グローバリゼーションと国家の結びつきを指摘しました。またジュアナさんは「女性の運動をトランスナショナルにしなければならない、女性の運動を強化する方法を考えよう、私のパースペクティブ、そしてあなたのパースペクティブ、それを全部出し合って、リンケージさせよう、私たちはインスピレーションを持ち、エネルギーと勇気を作り出していこう。コンフリクト(意見の対立)は私たちの運動である」とフェミニストたちを勇気付けました。

 さらに、WSF国際評議会のメンバーで、ブラジル組織委員会のリナさんからは、ラテンアメリカ社会運動の概観があり、チリの社会運動がダイナミックに展開されていること、そして、ウルグアイでは中絶を認める法案が可決されたことなどが報告されました。さらに、彼女はWSFプロセスを紹介し、社会運動アライアンスの重要性を指摘し、私たちは違いを認め合い、民主的空間を作っていこうという提起がありました。 次に参加者は小グループに分けられ、討論が行われました。私たちが直面しているジレンマは何なのか、私たちが関わるべき抵抗は何なのか、私たちは私たちの内部においても、また他の運動とどのような相互の関係を作るべきなのか、について、各ワークショップで徹底的な討論が行われました。

 私が参加したワークショップで興味深かったのは、フィリピンとインドの女性の津波被害の話でした。インドの女性は「被害者救援では、女性の権利、セクシャリティへの権利などが全く無視され、地域コミュニティの中でも抑圧されている。レズビアンの女性には救援物資が回されず、また避難所などにも入れてもらえない・・・こういうときにこそ本音が出てきて、試されているのだ」と指摘しました。 昼食をはさんでワークショップが行われ、5時過ぎから全体会議に移り、それぞれ報告がありました。

 25日は最終日です。

 ポルトガル語通訳として同行をお願いした下郷さん(昨年、MSF活動家が来日したとき、通訳をお願いしました)が夕方、到着し、彼女の友人、モニカさんとともに夕食をとりました。
 モニカさんは国立リオ・グランド・スル大学教育学部の教員で、CUT(ナショナルセンター)の組合員です。彼女はストリート・チルドレンの自立プロジェクトをやっていて、WSFに参加し、ワークショップを開いてきたそうです。モニカさんは、合衆国に反対する勢力が世界中からブラジルのポルトアレグレに集まってきてくれていることを誇りに思うと話されていました。そして、WSFの開催場所として、なぜポルトアレグレが選ばれたという話をし、ATTACのベルナール・カッセンと、リオ・グランド・スル州のオリビエ・デュトロ元知事が親しかったこと、そしてポルトアレグレ市の参加型予算の意味についても説明してくれました。

 また最近のルラの政策を批判しており、「ブラジルではPT(労働者党)を離れて、新しい政党を作る動きもある。そのなかで、注目されるのは、ブラジル東部のフォルタレーザ市である。最近、女性の市長が当選した。彼女は今のPTを批判しているが、離党はしていない。しかし、彼女の選挙運動は変わっていた。選挙のスローガンは『Loveのために』だった」と語りました。この新しい市長もポルトアレグレにやってくるそうです。なかなか興味深い話が聞けました。機会があれば、いろいろと話を聞いてみたいと思っています。


1月23日
「お〜い、70代をわすれるな」−−フェミニストダイアローグ
世界社会フォーラム直前につどう世界の女性たち


秋本です。ポルトアレグレから報告します。(1/23記)
ホテルのダイヤルアップ環境の中で報告しなければならないのは、結構つらいものがありますが、WSF情報を会員の皆さんと共有したいと思います。

 私は昨日(現地1月22日)米国ロサンゼルス経由でポルトアレグレに到着しました。
 ロサンゼルスでは、聞いていたとおり、トランジット乗客に対しても両手の人差し指と、目の光彩の撮影がありました。私は昨年の9月、レバノンのベイルートで行われた国際反戦会議に参加していて、パスポートにレバノン入国の記録があるので、かなり不安でいたところ、案の定でした。係官がパソコンをにらみながら、通してくれず、「向こうで座っていなさい」と言われ、別なところに連れて行かれました。そして、2箇所で同じように指紋をとられ、そして写真を撮られました。結局、どうも機械の認識ミスのようで、機械への私の指の載せ方が不適切だったことが原因のようでした。しかし、機械の認知能力がこの程度では、そして、指紋を取られるときも、係官は指を載せる箇所を、いちいちふき取らないので、前の人の指紋が残っているというずさんなやり方で、入国者を審査して判断してしまう、というのは恐ろしいことだと思いました。おそらく、こうした手荒な審査で怪しまれた人または入国できなかった人はかなりいるのではないかと思います。
 しかし、面白いことに、ブラジルの入国審査では、米国籍者だけは別なカウンタに回り、写真をとられます。ルラもなかなかやるね、と関心しました。

 サンパウロでポルトアレグレ行きの飛行機を待っていたら、ATTACノルウェーでGATSを担当しているマートさんに会いました。彼女とは、昨年のWTO戦略バンコク会議で会いました。オスロからは7名が参加し、昨年ムンバイのATTACセミナーでスピーチしてくれた福祉国家を目指すキャンペーンのアスビョルン・ワヒルさんも参加するとのことでした。

 昨日は会場に行きました。26日からなので、会場設営として、あちこちでテント作りが行われていました。 私が早目にポルトアレグレに向かったのは、23〜25日に予定されたフェミニスト・ダイアログ(FD)の会議に参加するためでした。参加しようと思ったのは、次のような理由からです。この会議は昨年WSFムンバイで第1回目が開かれましたが、ひとつは、それに参加したATTACオーストリアのATTAC欧州フェミニストで活動する女性の報告を読んだからです。彼女によれば、「この会議は参加者が思っていることをばらばらに報告し合い、まとまりがなく、そのやりとりがおもしろかった。ポルトアレグレで第2回目が開かれるから、関心のある人は参加してみては」という情報をもらったことと、このFDの中心メンバーであるカリブ諸国の女性が「2005年は北京女性会議から10年にあたる。でも女性の権利向上を掲げている国連ミレニアム開発目標(MDG)を我々女性は信用できるのか。新自由主義を否定しないMDGなんて、到底、信用に値しない」という論文を読んだからでした。

 本日、1月23日、ポルトアレグレで開催された第2回フェミニスト会議には、200名近い女性が参加していました。自己紹介によれば、ラテンアメリカから半数以上、アフリカから約15名、ヨーロッパから10名弱(東欧のマセドニアからも参加申し込みがあったが、来ていないようでした)、北米から10名強、アジアから20名、中東から3名参加していました。そして、面白いことに、司会は年齢別の自己紹介をしようという提案をして、年齢別に立ち上がりました。60歳代の人は3人、50歳代および40歳代はそれぞれ約50人、30歳代は約40人、20歳代は約20人、10代は数人でした。そして、次に移ろうとしたら、後ろの方から「お〜い、70歳代を忘れるな」と叫ぶ声がありました。残念ながら70歳代は彼女ひとりでしたが、とても楽しい自己紹介でした。

 次に司会から、この会議のプロセスについて説明がありました。最初に2003年第3回WSFの場で関心のある女性たちが集まって会議をし、その後、何回かの会議を経ながら、ムンバイで第1回が開催されたことなどが報告されました。そして、この会議がWSFに先んじて開催するのは、WSFにフェミニストの立場を提案していくこと、WSFにフェミニストのスペースを確保させることであると報告されました。さらに、「このFD会議には多様性がある、事実、我々は意見で一致したことがない」と報告されると、ブーイングが起こり、あわてて司会は「それは対立のことを言っているのではない。我々は物事について違った考え方をするが(think differently)、それは認め合うということだ」と説明されました。

 次にマキシーンさん(国、所属はメモの取り忘れで、分かりません)から問題提起がありました。彼女は、今日、新自由主義、原理主義、戦争の3つの要因が女性に影響を及ぼしている、と分析し、それらが特に女性の体に与える脅威について説明しました。次に彼女の問題提起を受けて、司会は、皆さんの周りに座っている人とマキシーンさんの問題提起について話し合ったほしい、そして、後で報告してくれ、と呼びかけました。それぞれがグループになって20分ほど討論をした後で、コーヒーブレイクの後、再開しました。口火を切ったのは、南アの女性でした。「南アではHIVエイズが深刻である。政府に武器を買う金があるなら、HIV対策にまわせ。HIVエイズで最も被害を受けているのは女性だ」と語ると圧倒的な拍手を受け、またザンビアから来た女性は「戦争による影響を受けない国はない」と語り、参加者全員が共感したようでした。さらに、何人かの女性から父兄主義とともに「カトリック原理主義」が社会に蔓延していることが指摘されました。

 明日もまたこの続きがあります。