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<ATTACニュースレター日本語版2002年第21号/転載歓迎>
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ATTACニュースレター「サンド・イン・ザ・ホイール」(週刊)
   2002年5月29日号(通巻第129号)
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          Sand in the wheel
 Weekly newsletter - n°130 - Wednesday 29 May 2002.
   BIG CORPRATIONS, SMALL DEMOCRACIES?
       (巨大な企業と小さな民主主義)
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attac‐jインフォメーション》

◆ジョゼ・ボベ(フランス農民連盟)来日決定!10月29日〜11月9日

 ⇒「ジョゼ・ボベを招く会」に参加希望の団体・個人はご連絡を。

◆京都:6月15日(土)午後6時/ウィングス京都(地下鉄「烏丸

 御池」(5)出口or「四条」(20)出口徒歩5分/「グローバル化のなか

 の遺伝子組換え作物―資源化・資本化・商品化される生命と知」☆

 講師:平川秀幸さん(京都女子大学教員、ATTAC京都代表)、第2部

 相談会

◆首都圏:6月29日(土)午後6時/東京都・渋谷区勤労福祉会館

 2階第1洋室(JRほか渋谷駅徒歩7分)/「学習:トービン税&例

 会:ATTAC運動の討論」

◆関西:7月13日(土)午後2時/スペースAK(地下鉄・南森町、

 JR東西線・大阪天満宮より徒歩5分)/「フランス農民連盟とラ

 ルザック農民の闘い」☆報告:上坂喜美さん+杉村昌昭さん

+++++++++++++++++++++++++++++++++

《緊急報告》

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5・19マドリード:EU・ラテンアメリカ・カリブ諸国首脳会談に

対して10万人がデモ

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 「大西洋横断社会フォーラム」(FST)が呼びかけたEU・LA・カ

リブ諸国首脳会談に反対する統一デモは、12時15分にカルロス5世広

場から出発した。ラテンアメリカの活動家やフォーラムに結集する多

様な人々は「ラテンアメリカを搾取するな」、「資本家と戦争のヨー

ロッパに反対」などのプラカードを掲げ、アメリカ大陸の何百万人も

の人々を貧困に追いやっている新自由主義政策に反対する声を上げた。

警官隊が富裕な資本主義のシンボルである銀行、大企業のオフィス、

ファーストフード・レストラン、ファッションの店などを警護した。

 デモ隊の先頭がすでにシベレスに進んでいた時に、まだ多くの人た

ちがアトーチャのカルロス5世広場を出ていなかった。FSTによって組

織されたデモ隊は、警察機動隊の15台の輸送車が監視する中、グラ

ンビア通りへ向かった。10万人を超える人々が参加した(警察は参加

者を1万人と予想していた)。「もう1つの世界は可能だ」の唱和の

中で、6月20日の労働組合のゼネスト(セビリアでのEU首脳会談の直

前)に向けたよびかけが響き渡っていた。

 コロンビアのグループは海賊船のデコレーションに、「コロンビア、

国家テロ・準軍事組織に反対」のスローガンを掲げていた。サンバ・

デ・ルアのメンバーたちはトレビダンテのリズムに乗り、トランペッ

トとタンバリンとアストゥリアス地方の風笛が曲を奏でた。グランビ

ア通りのテレフォニカ(通信会社)の近くでは小太鼓が鳴り響き、多

国籍企業を糾弾する口笛が一斉に吹かれた。

 解散地点のスペイン広場で、FSTは音響装置を設置して、「ラテンア

メリカの破壊に反対する14の理由」というタイトルの声明を読み上げ

た。デモ隊は3時に解散しはじめた。大きな混乱はなかった。警察は

「ブラック・ブロック」を警戒して、地下鉄の出口等をチェックして

いた。[ATTACマドリードのウェブ

http://www.attacmadrid.org/より、訳:米辻妙子]

《も く じ》

1- チリ:「経営者たち、乾杯しよう!」(Chile - "Let's toast the

businessmen)

 EUとチリ政府の間の広範囲にわたる「連合協定」が合意に達し、両

国の議会の承認を待って5月末までには調印される見通しである。こ

の連合協定が、労働者も乾杯できる内容であることを心から望む。も

しそうであったなら、この国の経済の過度の開放に対して批判的だっ

た(これからも批判的でありつづける)私たちも、乾杯に加わること

ができるのだが(1049語)。

2- サービス自由化への圧力が強まる:発展途上国は自国の人々のニー

ズを最優先するべきだ(Mounting Pressure to Liberalise

Services: Developing Countries Need to Put Their People's

Needs First)

 昨年11月にカタールのドーハで開催されたWTO第4回閣僚会議で採択

された「サービス貿易」に関する第15項は非現実的な内容である。こ

の項は、WTO加盟国がサービス貿易評議会(CTS)に提出する初期リクエ

ストと初期オファーの提出期限を定めている。それによると、リクエ

ストの期限は2002年6月30日、オファーの期限は2003年3月31日である

(2156語)。

3- ジローナ宣言:リオからヨハネスブルグへ(Girona Declaration

- From Rio to Johannesburg)

 3月18−20日、40人の進歩的活動家がスペインのジローナで開かれ

た戦略会議「リオ+10を越えて:企業主導のグローバリゼーション

のグリーンウォッシュに対する戦略」に集まった。92年にリオデジャ

ネイロで開かれた地球環境サミットは企業にとっての大きな勝利だっ

た。企業が環境と発展に関する大きな国際会議で一定の成果を得たの

は、これが初めてだった(1760語)。

4- メディアと民主主義(MEGACHIP : Democracy in Communication)

 イタリアおよび全世界における情報通信の現状は困ったものだ。情

報の多元性は外見上のものであり、実質を伴っていない。その傾向は

悪化する一方である。多くの人が毎日聞き、読み、見るものは、限ら

れた者たちによって何を知らせ、何を知らせないかが選ばれた情報で

ある。いわゆる第四権力(言論)は政治権力とあまりにも深く結びつ

き、私的な利害やメディアの所有主、その支配者にあまりにも深く依

存しているため、チェックと批判の機能をほぼ完全に失っている

(1189語)。

5- グローバリゼーションの隠された側面:地理的文化の観点から

(The Hidden Dimensions of Globalization: What is at Stake

Geoculturally)

 2001年9月11日がベルリンの壁崩壊と同様に世界を変えることにな

るのかどうかはまだ分からない。しかし、この事件がグローバル化の

非常に重要な側面を浮かび上がらせたことは間違いない。とくに、そ

の衝撃は多様な文化と社会の関係の世界規模での管理について、また、

グローバル化のチャンネルとしてのメディアの役割についての問題を

提起した。ごく少数の大規模なメディア企業集団によって主導される

文化の産業化は、文化的な関係の管理についての考え方をラディカル

に変えてしまうのだろうか?(3332語)。

6- 世界のATTACの会合(Meeting ATTAC worldwide)

■付録:アルゼンチンから日本へ

《 要 約 版 》

●チリ:「経営者たち、乾杯しよう!」

Chile - "Let's toast the businessmen"

 By Jacobo Schatan Weitzman

 EUとチリ政府の間の広範囲にわたる「連合協定」が合意に達し、両

国の議会の承認を待って5月末までには調印される見通しである。こ

の協定は双方に有益だと言う見方がある。この協定の下では、チリは

農業、農産業、漁業、そして工業製品とサービスや他の分野で、無制

限で広範な市場にアクセスできる事となる。

 EUにとっては、チリはラテンアメリカ全域に勢力を拡大し、これま

での米国による商業と政治の支配に対抗する足がかりとなるだろう。

 欧州委員会対外関係担当委員のクリス・パッテンは発言の中で、連

合協定はEUとチリ及びラテンアメリカ各国の関係を豊かなものにする

きっかけとなり、現在協議が行われているメルコルース(南米共同市

場)との障害を取り払うものとなる。また、今まで関係が希薄であっ

たヨーロッパとラテンアメリカとの関係をお互い深める時であり、こ

れがそのきっかけとなると言う。

 半世紀間ヨーロッパとラテンアメリカの関係が希薄であった理由が

二つ考えられる。一つは、30年代の大恐慌をきっかけにヨーロッパの

投資家がラテンアメリカの市場から50年もの間離れていったことが挙

げられ、二つ目はヨーロッパが米国の"裏庭"であるラテンアメリカに

入っていかなかったことである。その考えは20世紀を通して変わるこ

とがなかった。

 20世紀半ば、第二次世界大戦後には、米国はヨーロッパが戦争で壊

滅状態であった時、軍事、経済そして金融と西側で唯一の大国と見ら

れ、この"裏庭"と言う考えは強力になり、ラテンアメリカに対する介

入が進んでいった。

 90年代初めソ連が崩壊、米国が世界で唯一の超大国となった。時を

同じくしてヨーロッパではEUが通貨を統合、その基盤を固めかつての

ソ連の衛星国も加盟し、規模を拡大、政治、経済とかつての地位を取

り戻した。

 米国でジョージ・W・ブッシュが大統領に選ばれると、いろいろな

所で、欧州と北米の見方の違いが際立ってきた。EUがラテンアメリカ

を重視するようになるのは当然であった。

 チリ政府も企業もEUとのこの協定の締結を歓迎した。

 しかし、この協定は、もし労働条件の向上や環境保護についての基

準が含まれるなら、より重要なものになるだろう。例えば、果実の栽

培は最近15年間、急成長を遂げてきたが、この協定によりさらに飛躍

的な成長が可能になるだろう。

 しかし、収益の増加がそれに携わる全ての人々に利益をもたらすか

と言えばそうはいかないようである。ほとんどの労働者、特に女性は

不安定な季節労働者で、さまざまな悪条件のもと働かなければならな

い。果実栽培だけでなく、サケ漁に携わる人も同様に悪条件下で働い

ている。

 ゆえにこの協定は労働条件や環境に配慮したものにしなければなら

ず、ビジネスマンだけに利益があるものであってはならない。

 EUへの輸出の増加が多くの雇用を創出する一方で労働条件を適切な

ものにさせなければいけない。さもなければ貧富の差を激しくするだ

けで、貧困を根絶する事は出来ない。

 ヨーロッパや他の工業国が加盟するOECDは多国籍企業が親会社、子

会社ともに自主的に、労働者、環境および社会的規制を遵守し、地元

の供給業者と受託業者が同様の取り決めを守るように指示した。

 この連合協定が、労働者も乾杯できる内容であることを心から望む。

もしそうであったなら、この国の経済の過度の開放に対して批判的だ

った(これからも批判的でありつづける)私たちも、乾杯に加わるこ

とができるのだが。

●サービス自由化への圧力が強まる:発展途上国は自国の人々のニ

 ーズを最優先するべきだ

Mounting Pressure to Liberalise Services: Developing

Countries Need to Put Their People's Needs First

 By Rosalina Muroyi

 昨年11月にカタールのドーハで開催されたWTO第4回閣僚会議で採択

された「サービス貿易」に関する第15項は非現実的な内容である。こ

の項は、WTO加盟国がサービス貿易評議会(CTS)に提出する初期リクエ

ストと初期オファーの提出期限を定めている。

 それによると、リクエストの期限は2002年6月30日、オファーの期

限は2003年3月31日である(2156語)。[詳しくは外務省のウェブ:

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/wto/schedule.htmlを参照され

たい]

 2000年から始まったサービス貿易に関する一般協定(GATS)交渉に

途上国の参加は限られていたため、途上国がこの期限を守るのは無理

である。途上国が消極的であるのにはいくつかの理由がある。まず、

先進国と対等に競争できる分野がない。既に自由化されている部門に

ついて、費用対効果の分析が行われていない。そして一番重要なのは、

各国内の事情を分析するための能力と資源不足である。キューバ、ド

ミニカ共和国、ハイチ、インド、ケニヤ、パキスタン、ペルー、ベネ

ズエラ、ジンバブエの10の途上国は、ドーハ会議の前に、サービス貿

易の分野についての適切なアセスメントを要求した。しかし、ドーハ

会議は第15項を修正なしで採択した。

 途上国が2002年6月30日の期限をどうするか予想も出来ない一方で、

漏洩されたEC案では、途上国の譲歩を最大に引き出すことが明示され

ていた。漏洩されたEC案は

http://www.gatswatch.org/requests-offer.htmlからダウンロードで

きる。これらの要求は、途上国の犠牲の上に利益を確保しようとする

企業がけん引役となっている。

 EUはとくに、水、電力、電信電話、新聞、銀行と基本分野でのサー

ビスの市場開放を求めている。さらに、国外からの投資に関しても、

規制の撤廃は無理でもその緩和を求めている。

 EUの要求に断定的な判断を下すのは焦りすぎかもしれないが、EUの

交渉戦術は途上国に対しても明らかである。彼らはいつも、途上国側

に不満をぶつけさせ、議論し、民主的に交渉をしている意識をもたせ

る。途上国に平等なパートナーであると思わせる。そして途上国側に

自信をもたせると、彼らの前に吊るしておいた人参を隠すのである。

 途上国はパラグラフが自国の利益に見合わないのになぜ受け入れる

のか?ドーハ草案では45のパラグラフがだされた。これらすべて、5

日間の内に(実際は6日を要したが)141カ国のうちでコンセンサ

スを採らなければならない。このほかに、「実施問題」、「TRIPsと

保健」、「補助金協定27.4条の延長問題」についての詳細な文書が提

出されていた。閣僚会議は形式だけのもので、技術的な交渉は事前に

なされている。通常は、草案は閣僚に提示され、微調整が行われるの

だが、ドーハの場合は違った。途上国は、草案に不満であった。しか

し、理事会の議長であるハービンソンはそれらを無視した。途上国は

ドーハでの闘いに勝利する事が出来なかった。

 ゆえに途上国はEUの提言に慎重になる必要がある。GATSはいろいろ

な問題でその明確性を欠き、途上国がEUのような巨大な貿易相手に対

するにも国民の基本的な権利を守れない。典型例はGATSの第一項にあ

る政府の基本的なサービスの除外規定である。同項に、それは商業ベー

スでもなく、企業競争がないサービスのことであると規定されてある。

教育や保健のような基本的なサービスは大抵の国で、民間も行ってい

る。ゆえに公共のサービスは協定にそっているはずである。

 水のサービスも同様に、かつては政府の事業であったが、今では民

間に委ねられている。途上国ではいまだに、水や電気などは一般の人

に行き渡るように政府の下でおこなわれている。しかし、GATSのなか

では、それらは商業品としてあつかわれる。政府がこれらのサービス

を行って一般企業の邪魔になってはいけないのである。もしサービス

を提供する企業に競争力がなければ、必然的に競争力のある企業がサー

ビスを提供する。貧しい人はそのサービスを受けられないのである。

<水道サービスの規制緩和>

 漏洩した29のドキュメントでEUは上水と下水部門の開放を加盟国に

求めている。リストにあるアフリカの2つの国、エジプトと南アフリ

カを見ると、EUはこれらの国に水の採取、浄化、配給サービス等の開

放をせまる。エジプトは環境部門について、まだコミットメント(自

由化の公約)を行っておらず、南アフリカの場合、いくつかの付帯的

な部門についてコミットメントが行われているが、水道サービスの完

全な開放は行われていない。これらの国々はEUの要求に応じなければ

いけないのか?南アフリカにあるNGOの最近の調査によると、1千万

人がお金を払えないために水の供給を止められている。貧困がそれら

の根底にあるのだ。

 南アフリカは基本サービスとして最低限の水と電気を無料で配給す

る政策を導入する。人道を無視して市場を開放するのか?EUの企業は

そのような条件で政府が大部分を握る市場に参入する準備は出来てい

るのか?大企業が参入すれば、初めは加入者を増やすために安価で供

給するだろう。しかし、そのうち大幅な値上げを実施するのである。

アルゼンチンでVivendi Waterがやったように。水のような基本サー

ビスの自由化はもはや途上国だけの問題でもない。先進国であるカナ

ダでも同様に低所得者達がお金を払えないような状況であり、市場開

放に否定的である。

<金融サービスの自由化と外国直接投資の促進>

 対外直接投資(FDI)に関して途上国は注意を払わなければならな

い。先進国は長期にわたりこれを推して来た。2002年3月メキシコの

モントレーで開催された「国連開発のための金融国際会議」でもそれ

が支持されている。対外直接投資は雇用、技術提供等があれば途上国

の助けになるだろう。

 EUは金融サービスでの市場アクセスを推進する。例えばエジプトに

対して保険業に関し次の事を求める。保険の補助的業務の市場開放、

保険関連部門に関する経済ニーズ・テストの廃止、全ての関連部門の

規制撤廃と100パーセント外国資本の受け入れ。EUはとくに、金融サー

ビスに関する外国企業への差別規定の撤廃と障壁の撤廃を求めている。

これは、GATSの6.4条(「各国政府はその領土内におけるサービスの

提供に関して、国内の政策上の目的を実現するために新しい規制を導

入できる」)に反している。

 金融サービスの自由化は確かに多大な可能性を秘めているかもしれ

ないが、途上国はアルゼンチンの現状を教訓に規制緩和の圧力に対抗

しなければならない。アルゼンチンの金融危機の要因には、国外の銀

行が中小企業に対して貸し渋りをし、企業が倒産、それらの銀行はア

ルゼンチンを破壊して、さっさと撤退したということがある。規制の

ない資本が起こした教訓である。EUは途上国に同じことをもとめてい

る。

 途上国はドーハの会議でこれらの圧力に屈した。ゆえに、これ以上

のサービスの自由化を求められた時、例え基本的なサービスであった

としてもプレッシャーに勝てる可能性は低い。ゆえに途上国は、質的、

量的に満足行くアセスメントを行った上でGATSのコミットメントしな

ければいけない。ドーハで再確認された交渉ガイドラインにはアセス

メントの強制が含まれていない。途上国はガイドラインの全ての部分

で実行可能なようにしなければいけない。途上国政府はまず国民の人

間的なニーズと、そして発展のニーズを優先しなければならない。ゆ

えに、情報を開示して部門間を越えての話し合いをした上で、これか

らのサービスのコミットメントをしなければいけない。 

●ジローナ宣言:リオからヨハネスブルグへ

Girona Declaration - From Rio to Johannesburg

 3月18−20日、40人の進歩的活動家がスペインのジローナで開かれた

戦略会議「リオ+10を越えて:企業主導のグローバリゼーションの

グリーンウォッシュに対する戦略」に集まった。

 1992年のリオデジャネイロで開催された地球サミットの勝利者は企

業だった。企業は一定の成果を得た。各国政府の前向きなコミットメ

ントにかかわらず、企業とそのロビーグループは自分達のビジネス利

益と衝突するものに対抗することに成功した。

 リオから10年、企業は国際社会や環境会議に影響力を得た。以前は

自国政府を通していたが、リオのロビーグループは自分達の力で国際

社会の舞台に現れた。企業は利害関係者として認められ社会や環境等

の協定に影響力を行使する。政府の自己満足も企業の政治介入に歯止

めをかけられない要因となっている。

 この10年は企業主導のグローバル化が勢いづき、不安定と混乱が一

般化した。新自由主義政府の後押しを受けて、企業やロビーグループ

は経済活動や生活の全分野における規制緩和、市場化、そして自由化

に力を注いできた。

<グローバル化と企業の「グリーンウォッシュ」>

 世論の圧力をうけ、社会および環境のサステナビリティ(持続可能

性)重視へと方向転換をする企業も出てきた。それらは自分達がコミ

ュニティーや環境にインパクトを与えているのを認めるようになり、

幾分前向きな解決をとる動きも出てきた。しかしながら、それは限定

的なものであり、主要経済部門における中核的な企業経営のやり方は

完全に持続不可能なものであり、大きな改善はなされていない。

 その結果、企業の環境重視は単なる「グリーンウォッシュ」――実

質を伴わない、見せかけだけの環境保護――にすぎない。このような

グリーンウォッシュは世論を欺くのに使われ、規制を求める世論の圧

力から逃げる手段として使われる。企業はイメージアップのためにあ

らゆる努力をし、基本的な社会や環境の基準を遵守する事に対して実

質的な拒否権を行使。変える必要がでてくると、彼らのやり方で、彼

らのペースで行う。

<合意の形成>

 企業の環境や社会問題に対する取り組みは、特に「持続可能な発展

のための世界サミット」(WSSD)が差し迫っている今、単なるイメー

ジ・トレーニングではなく、より系統的な「グリーンウォッシュ」、

あるいは「合意の取り付け」を目指している。企業はもっと緻密な戦

略で政策結果や論争に影響力を与える。

 強力な利潤目的の組織としての「正統性の危機」に直面して、多く

の企業はその資金力と宣伝力を通じて、NGOとつながりを持ち始めた。

企業はNGOとの対話を深め、批判を受け入れているように見せかけ、

イメージアップをはかる。対話やパートナーという道具を巧みに使い

NGOの批判を吸収するのである。

<「グリーンウォッシュ」から「ブルーウォッシュ」へ>

 世界の環境、社会、人権問題に関する政策決定機関である国連はた

びたび政治的影響力やイメージアップを図りたい企業やロビーグルー

プの標的となる。国連のリーダーシップはこの傾向を助長している。

その典型が「グローバル協約」である。これは、自主的な協約で企業

を監視する事もなければ、強制力もない。企業はこれを利用し、企業

責任を示しゆえに、基本的な社会、環境基準を強制されないようにす

る。

<「持続可能な発展」の民営化>

 ヨハネスバーグサミットの準備段階で企業の国連に対する影響力は

明らかである。たとえば、議長のペーパー(報告書)に「ドーハ閣僚

会議における発展アジェンダ」が頻繁に言及されているが、これは

WTOが人々のニーズや環境を貿易に従属させているという事実を覆い

隠している。企業と政府とNGOのパートナーシップは、10年前に政府

が行った約束の実施を民間に委ねるものである。そこには強い新自由

主義バイアスがかかっている。

<企業のアカウンタビリティ(説明責任)の取り込み>

 企業は、拘束的な規制に向かう流れをあらかじめ排除するために、

あの手この手を使い企業責任を狭義なものにしようとしている。「持

続可能な発展を目指す企業アクション」(BASD)等の企業グループは企

業規制と言う言葉を「企業にやさしい規制」(Corporate-Friendly

regulation)と再定義する。またBASDは「持続可能な発展のための世

界ビジネス評議会(WBCSD)、国際商工会議所(ICC)、「鉱業と持続可能

な発展」(MMSD)などのロビーグループと同様に、WWSDの結論を技術的、

自主的取り組みを重視したものにしようとしている。批判派との対話

を通して、それを自分達の言葉に取り込みながら、ビジネスとNGOの

境界をあいまいにし、抜本的改革の圧力をかわすのである。NGOの従

順さと楽観主義は、この目的に貢献しているようなものである。

<自然の私物化>

 気候変動に関する条約とイニシアチブ、バイオセーフティーと水は

リオのプロセスで勝利的成功と歓迎された。現実は深い新自由主義と

企業の偏見が明白なものだった。リオのプロセスを通して企業は自然

の商品化、民営化に勤める。空気、水、遺伝子の組み合わせ全てが取

引材料となった。

 大気について、京都議定書は市場原理ソリューション(「解決案」)

だらけだと言われる。それはプロトコル自体の限られた環境保全を壊

すだけでなく、新市場を作り出し企業力を強めるのに使われる。バイ

オテクノロジーは世界の食料、健康問題の解決策として宣伝され、一

般の人々に広がる心配をよそに、厳格なテスト、ラベリング、責任に

関する規定のないまま国連の機関によって活発によって促進されてい

る。あらゆる問題で企業の利益が法律に祭り上げられ、社会・環境・

福祉は巧みな言葉で脇に押しのけられている。

<経済の民主的規制の要求>

 リオ+10サミットはこの10年の企業主導のグローバル化をアセス

メントし、方向をかえる機会である。グローバル経済が規制緩和を進

める中、国際的な企業に対する規制は急務であり、経済を民主的にコ

ントロールする最初のステップである。変化のペースとその方向性を

企業に任せてはならない。参加型民主主義とコミュニティー・エンパ

ワメント(地域社会の力を強化すること)の基本的概念こそが国際的

な意思決定の構造とプロセスの中心になければならない。この目的を

達成するために、私達は WWSDの企業による乗っ取りに反対し、グロー

バル経済、国民経済、ローカル経済への民主的な規制をめざさなけれ

ばならないのである。

●メディアと民主主義

MEGACHIP: Democracy in Communication

 By Giulietto Chiesaほか

◎「水滴が集まって川となる」

 イタリアおよび全世界における情報通信の現状は困ったものだ。情

報の多元性は外見上のものであり、実質を伴っていない。その傾向は

悪化する一方である。多くの人が毎日聞き、読み、見るものは、限ら

れた者たちによって何を知らせ、何を知らせないかが選ばれた情報で

ある。いわゆる第四権力(言論)は政治権力とあまりにも深く結びつ

き、私的な利害やメディアの所有主、その支配者にあまりにも深く依

存しているため、チェックと批判の機能をほぼ完全に失っている。

 テレビやメディアが完全な独占状態にあり、巨大な利害対立によっ

て汚染されているイタリアの現状は特殊である。しかし、他の国も、

それほどひどくはないという程度である。大部分の情報は、ごく一部

の巨大企業によって支配されている。たとえば、アメリカンオンライ

ン社、タイムワーナー社、ヴィヴェンディー・インターナショナル社、

スカイニュース社、ベルテルスマン社(ドイツ)などのコングロマリッ

トである。

 グローバル化社会、いわゆる情報化社会は、巨大な「夢を作り出す

工場」の手中にある。この工場は集団的な愚行を作り出す。そして、

米国のグローバル化政策の手助けをする。もしグローバル化がすでに

全面的に開花している分野があるとするなら、それは情報の分野であ

る。

 間違った知識、偏見、通説は制度化されて再生するこのような分野

で作り出され、社会の枠組みで形成された支配的現実がおしつけられ

る。同じように情報を操るものはその状況から逃げ出せず、代弁者と

なる。これらのコングロマリットの基準はマーケットだ。情報、マス

・カルチャー、エンターテイメントは必需品である。そしてそれらは

市場の要求に合うようにオーナーや製作者に利用される。メディアは

人々に必要な情報を独自の判断で選び出し、定義し現実を形作る。ロ

ボットを作り出し、思考を麻痺させるのである。この現実の定義と選

択は無批判で行われ、それが、本当の知識として具体化される。そし

て、作品やニュースの正当性を証明するものとして、メディアに利用

される。

 情報はこのように、トートロジー(同じことの繰り返し)となって

いる。社会の現実を再生し、それがまた現実を再生産する。戦争にお

ける情報を考えてみると、ニュースの構成(神聖化されたステレオタ

イプにもとづく仮説)そのものが、「戦争は当然」、「避けられない」

という共通の感情を作り出す。そこで、副次的なことだが、メディア

が作り出すものと現実につながりができるのである。

 イタリアにおけるこのロジックの極端かつ惨めな表現がインフォテー

メント(エンターテイメントとインフォメーション)と軽いニュース

の効果的な活用である。新聞やテレビではますます自己言及が増え、

内輪話が画面や一面を飾るようになり、人々の問題、社会、世界、文

化、国民の価値観はほったらかしである。

 公共領域の崩壊と意識の低下はメディアによって強制される。無害

で軽いエンターテイメントの特徴は経験と認識と言うレベルで個人と

一般の境界線をあいまいにする。集合的、または個々の責任、権利ま

たは義務は、偽の感情と共に涙の海の中に引きずり込まれる。それは、

一般が欲しがるものによって維持される。しかし、メディアはなぜ一

般が欲しがるのか、どのように、どんな欲求があるのか、説明する事

はない。

 多くの人は常に「バックグラウンド・ノイズ」にさらされている。

このノイズは、民主的な正当性に欠けるものでありながら、人々の生

活に多大な影響を及ぼす。多くの人たちはコミュニケーションが社会

にある情報やその集合的な文化を決めるだけでなく、感情や倫理観を

も形成する事に気づいていない。

 民主主義にとって有害か? 民主主義にとっては有害どころの話で

はない-メディアを支配する企業にとって、民主主義など眼中にない

のだ。

 市民の教育にとって有害か? 有害どころか、最悪である。テレビ

視聴者の精神的安定にとって有害か? 有害どころではない。「ホモ

・ビデンス」([テレビを]見る人)というのは、社会生活の最も重要

な要素について異なる性質を持った人類学上の変種である。このこと

に無関心でいることは、長い目で見れば、あらゆる社会的な制度を廃

止すると決定するよりも、もっと無責任なこととなるだろう。

 カウンター・インフォメーション(「対抗的情報」)は、これまで

と同様に、現在でも、批判的な精神を作り出すのに重要な道具である。

メディアからの情報と違う情報を受けることによって、民主主義への

参加と世論が作られていく。

●グローバリゼーションの隠された側面:地理的文化の観点から

The Hidden Dimensions of Globalization: What is at Stake

Geoculturally

 By Jean Tardif

 協力:Joelle Farchy, Gerd Junne, George Ross and other

members of the Forum's scientific committee

<文化的差異を超えて、「世界文化評議会」へ?>

 2001年9月11日がベルリンの壁崩壊と同様に世界を変えることにな

るのかどうかはまだ分からない。しかし、この事件がグローバル化の

非常に重要な側面を浮かび上がらせたことは間違いない。とくに、そ

の衝撃は多様な文化と社会の関係の世界規模での管理について、また、

グローバル化のチャンネルとしてのメディアの役割についての問題を

提起した。ごく少数の大規模なメディア企業集団によって主導される

文化の産業化は、文化的な関係の管理についての考え方をラディカル

に変えてしまうのだろうか?このような関係が、文化間の対等な対話

(資源の面で対等でないとしても、尊厳という面では対等である)に

つながるための条件とは何なのだろうか?

3つの主要な問題>

 1648年のウエストファリア条約以来、国家の領域と言ったものが主

権国家間関係の基礎となっている。現代の地球力学では国家間を超え

たモデルがあるが、全てのものがグローバル化した、また、するわけ

ではない。しかしグローバル化は現代の活動の構造的プロセスを作り

出し、領土と安全保障の関係を再考させるものである。

 米国同時多発テロ事件によって多くのことを学んだが、それは社会

と文化関係のうえで国家間システムが機能しないことを露呈させた。

社会文化の現実はもはや国民国家のボーダーと一致するものではない。

それは、米国のテロ事件に対する文化間の違い、ヨーロッパ統合と国

家アイデンティティーを結びつける難しさ、世界中のアイデンティテ

ィーのための闘争をみれば明らかである。

 グローバル化は私達に基本的な政治問題に対して新しい対応策を迫

る。民主主義の要求はボーダレスなのだ。国家プロジェクトは終わり

でなく、いまだに社会を形成するのに適しておりまた国民の責任を果

たすのにふさわしい。この国家プロジェクトは国家の役割と同様に再

定義され、国家を超えて違うレベルで政策プロジェクトに関連付ける

必要がある。これは安全保障、経済と同じことが文化についても言え

る。グローバル化は脱西洋の時代をもたらした-それは「幾何学的に

可変的」な方法によってのみ編成できる。

<グローバル化が社会と文化の関係に及ぼす影響>

 国内的には、最近の出来事(特にヨーロッパで見られるもの)は、

ほとんどの国でないにしろ多くの国はそれぞれの国民の中で多文化主

義政策かまたはほかの国家アイデンティティーの変化をもたらす統合

方法で、新しい関係構築の方法を考えなければならないことを物語っ

ている。これらは重要な問題ではあるが、国内の主権に関わる問題で

あり、このフォーラムで中心的に取り上げる文化的多元主義の議論の

範囲外である。

 サミュエル・ハンチントンは、国家の利害はアイデンティティーの

機能の一部と言う。それらの文化的側面は進化をつづける。アイデン

ティティーを求める事、またそれを認識する事は歴史の中でつづいて

おり、国家プロジェクトだけに限定できない。かわりに、地球力学の

一部をなす。文化と国境は必ずしも一致するものでない。ゆえに現代

のリアル・ポリティックスはVacla Havelが言う所の文化領域の複雑

な現実を扱わなければならない。

 このグローバル化時代にアイデンティティーと文化多元主義の根底

にあるものを明らかにすることが出来るか?リアリズムは多様な帰属

方法に関わる弁証法的現実を認めることを求める。さまざまなアイデ

ンティティーの基礎は常にその範疇を変えている。日本、デンマーク、

中国と言った国家文化、からアラブ世界と言った文化領域、「フラン

ス語圏」やスペイン語、ポルトガル語と言った言語文化からハリウッ

ドと言うような世界文化。それぞれの定義は地球力学の現実変化を示

している。ヨーロッパの国の人々はそれぞれ違った中心的価値観をも

つだろう。そして街、国、EUや言語レベル、権利の行使や責任と周り

の状況によって変化する。

<社会と文化の関係の戦略性>

 社会や文化にとって(国家の場合と同様に)、その言葉や価値観、

世界観が他の人々と共有され、他の人々によっても担われるというこ

とは大切である。これらのことを地理的文化に関わる重要な問題とし

て理解するならば、文化と社会の関係は、地域的安全保障や地域的経

済の問題と同じぐらいの戦略的重要性があることがわかる。したがっ

て、文化の問題(アイデンティティーの問題から切り離して議論でき

る)がグローバル化の結果について等の現代の戦略的議論に欠けてい

るのは奇妙なことである。

 唯一の例外があるとすれば米国だろう--米国はその世界観をその世

界戦略の核心にあるものとして認識してきた。米国人は世界にイメー

ジ、アイデアや価値観を浸透させ企業をサポートするのに成功してき

た。自分達を売り込むのに一番良い方法は欲望と夢を創造する事だと

いうことを彼らは知っている。私達は米国人たちが米国文化の商品を

売り、それを権力の道具として使うことを責めるわけではない。しか

し、貿易だけではなく、米国のリーダーたちがその戦略的ビジョンの

中で文化的価値に中心を置いていることを見逃すべきではない。文化

に政治的側面が含まれているのである。

 米国における同時多発テロに対する米国人の反応は、米国を新帝国

主義システムに進ませかねないと懸念する声がある。危険は特定の国

ではなくシステムである。私達はときおりグローバリゼーションが世

界経済圏にもたらす均一化について危惧する。言葉や文化の拡散は、

その固有の価値とは関係なく、それらを促進する力によって行われる。

社会と文化の関係がJeremy Rifkinが言う「文化資本主義」の目的と

要求にだけ依存するということが受け入れられるだろうか?

<想像力の産業>

 文化と社会の関係が主要に国家によって調整されるのではないとい

うことを認めなければならない。それが市場のルールと、利益追求と、

世界の夢を製造する少数の巨大なスタジオで作り出される均一化され

た商品に委ねられていいのだろうか? 文化のグローバル化のチャン

ネルとなるメディアが文化多元主義についての問題の中心となる。科

学技術の進歩は継続的に地球レベルで文化交流を生み出す。今までに

ないスピードと規模で。この中では他文化を豊かにする可能性が秘め

られている。しかし文化交流の不均衡が大きすぎる所ではその可能性

をそいでしまう。多様性を搾取の資源として利用しグローバル化する

ハイパーカルチャーにより支配を求め文化のマーケット化と利益のた

めの文化を造りだす世界規模の少数のグループによってコントロール

されるマーケットにより促進される文化的ダーウィニズムの脅威を無

視することは出来ない。

 文化の産業化は世界的規模の企業の経済的な取引と慣行を神聖化す

る。AT&T社の社長によると、そのような企業は偏在的でなければなら

ず、世界中でクライアントにアクセスでき、適切なインフラと商品の

提供をできなければならない。対外直接投資と市場のアクセスは国の

規制を無視した戦略を維持することを正当化する。

 企業の文化的利害がWTOで市場開放を最優先課題とし、商取引のルー

ルが文化市場に当てはめられている事は驚く事ではない。その結果EU

内においてでも文化の多様性を守る闘争が企業の垂直的統合やコンセ

ントレーションを起こさせる。

 メディアに見られるような寡占の構造は、エレクトロニクスを含む

あらゆる経済部門で問題だが、とくに文化の領域では、受け入れられ

ない。メディアは一般商品を作らないが、思想、価値観、世界のビジ

ョンを常にダイレクトに地球上のあらゆる所に送る。ゆえに、P.

Flichyが「文化産業」ではなく「想像力の産業」と呼んでいるのは、

文化がデジタルビットやエンターテイメント商品に変えられないと言

う事をよく表している。映画やテレビは他の経済部門と何ら変わらな

いと言う声もあるが、それは違うだろう。それらは人々の生活スタイ

ルを形成し、あたらしいスタイルと行動を生み出す。そして、社会的

価値観を再確認させたり、信用を失わせたりする。

 文化的アイデンティティーは現在、地理的制約から自由になったメ

ディアによって、また、文化商品やサービスによって、その多くが作

り出されている。だからこそ、文化の交換における極端な不平等は受

け入れられないのである。鉄鋼や自動車について自国産業を保護する

ための措置が取られるのに、文化について最小限の相互主義を保証す

るための措置が取られないのだろうか?

 コロンビア大学での707家族に行った17年に及ぶ調査によると、テ

レビは若者や大人の攻撃性の成長に重大な影響をあたえている。

<文化的差異を超えて、多元的文化へ>

 大企業が文化市場の開放に躍起になっているなか、いくつかのグルー

プは文化の保護について支持を受け、国を説得し、WTOにおいての文

化商品やサービスの自由化を阻止するのに成功した。文化の多様性を

守るのは、今日、広く受け入れられている目標であり、EUでも国家間

の立場の違いはあるが、議論されている。

 文化的多様性の擁護と国家の文化政策を結びつける議論は、国境を

越えた文化的交流を効果的に進める機会によって支持されない限り一

国の政策だけでは無力であるという事実を無視している。文化多様性

の将来はトランスナショナルレベルによって決まるだろう。政府が文

化の多様性を守る無力なユネスコ宣言をサポートする一方で、文化の

自由化を進めるWTO策を受け入れると言う矛盾した対応を止めること

が重要である。地理的文化の問題は地政学、地理経済学と同レベルに

扱わなければならない。

 擁護しなければならない最も重要なものは何か? 文化商品の例外

的ステータスか、政府とメディア製作者との関係の現状の維持か、真

の多元主義を促進するための効果的条件か?ここで分かりやすくさせ

るため、多様性と多元性をはっきりとさせる必要があるだろう。多様

性とは人類を含め、すべての生き物が生きる前提であり、自然によっ

て与えられたものである。物理的生態系は進化するものであるが、人

間の生態系は選択の産物である。文化的多元性は、具体的な形をもっ

てものではなく、グローバルな公共財でもない。それは、個別の、ま

たは集合的な選択の結果であり、均一化を拒む意思である。したがっ

て、文化多元性の擁護とは、過去の、あるいは非現実的な状態を擁護

することではなく、多様な文化表現を形成し交換する可能性も含め、

外的強制力のない十分な自治、または限られた範囲の条件の下での道

理にかなった権利の拡張を擁護することである。

<地理と文化の関係、グローバル・ガバナンス(統治)、民主主義

 にとっての重要問題>

 これらの要求の現実的結果は何か?文化多元主義の地勢文化の事柄

はどのようにグローバルガバナンスなかで受け入れられる場所を確保

するか?文化間の相互作用の中でメディアが役割を与えられているが、

どのように市場においての功利主義原理とアイデンティティーの原理

を調和させるか?文化領域の中でどのように違うアクターが役割を調

和するか?国家を超えて問題を取り上げる時、どのように準備し決定

の正当化を示すか?

 グローバルガバナンスは単なるウエストファリアの国家システムの

延長ではない。それは理想主義世界政府や議会でなされるものではな

い。また、国家の規制で起きるものでもない。ガバメントと同義語で

はない、ガバナンスという言葉は、国家だけが唯一のアクターではな

くなったので、相互の責任のうえで異なった関係アクターを結びつけ

る技術と定義できるだろう。このようなガバナンスは地政学と地域経

済学という問題を考えなければならない、一方で社会と文化の関係を

分割線と言うのではなく、貿易やパワーと言うものにだけ限定されな

い、本当の対話と責任交換の場として見なければならない。

 最近では政府首脳間の国際的な会議に大きなデモが伴うようになっ

ているが、これは国家を超えたレベルでの意思決定の非民主主義的な

欠陥を反映している。国家を超えたレベルでの意思決定が正統性を持

つやり方で、当該の人々の参加が保証されたやり方で行われなければ

ならない。そのためにインターネットが活用されるべきであり、「文

化的多元性のためのフォーラム」を呼びかけているPlanetagoraはそ

のためのイニシアチブの1つである。

 これらの議論を行うため、一つの提案がある。貿易と異文化間の交

流にかかわる問題を考える機関として、WTOの外に、新しい、創造的

な機関を作れないだろうか? ここでは市場の原理とアイデンティティー

の異なるロジックの調和を図るための5つの基本的な方法(慎重に管

理された市場開放、複合的な機関、責任、予想される問題への対処の

ための原理、相互主義)から導かれる方策について検討される。この

具体化のために、複合的な基金の創設も考えられる。これは多様な参

加者による共同の決定・共同の運営の原則にもとづくフォーラムの積

み重ねを経て、究極的には「世界文化評議会」のような機関に発展す

ることができる。

 このフォーラムの討論の結果は、いくつかの重要な国際会議にも提

出される:2002年 10月フランス語圏55カ国のサミット、2003年にジ

ュネーブで開催される「情報社会サミット」、2004年バルセロナでの

「世界文化フォーラム」などである。

 文化の多元性への挑戦はヨーロッパの統合と同じぐらい重要な問題

である。それは1極支配の世界ではなく、人類の生態系の現実と一致

する多元的編成の中で共存するという問題である。私達は異なる社会

と文化(その尊厳において対等である)の間でのバランスのとれた交

換を保証し、それぞれの価値や慣習を批判的かつ誠実に反映させるこ

とができ、世界の条件の変化に適応できる方法を探る必要がある。共

生のためには、壁を作ることでも、貿易を拡大することでも不十分で

ある。文化的な安全は、物理的・経済的安全と同じぐらい重要である。

私たちは、近代の条件や人類の条件に適合する多様な方法として、多

様なアイデンティティーに敬意を払う方法を探らなければならないの

だ。

■付録

アルゼンチンから日本へ

Michel Lasserre

ATTACニュースレター・フランス語版より)

 突然の経済危機に見舞われたアルゼンチンの状況は、現実を直視す

ることを避けるもののみを驚かせる。なぜなら現在の金融のメカニズ

ムは信用の創造と金利のやり取りに基づいておりペソのドル機軸化を

通して債務の累積により破滅に至った。対外債務は国内総生産の50

%を超え、経済状況は恒常的な信用創造の拡大と金利の上昇の圧力に

耐えられなくなった。歴史の教訓は金融バブルは株式であれ債務であ

れ、ある線を越えるとはじけると言うことであり、"近視眼的拡大思

"の経済学者は経済がバブルの限界を超えてもしばし気づかない。

アルゼンチンの経済破綻がアルゼンチン国民にとって破滅であっても

国際社会に対する影響は異なる。比較的国内生産高が小さい国の経済

破綻は国際経済にとっては影響は軽微である。

 当然、債務のバブルは比較的小国、発展途上国の場合、影響は小さ

い。対外債務のバブル化のアルゼンチンと違って金持ちの国の場合に

は事情は異なるが結果的には悲惨な状況に至ることには変わりがない。

日本においては国内生産高のなんと140%に至る公的債務がのしか

かっている。これは実に世界の生産高の18%に達する数字である。

日本では長期公的債務が国の税収の15倍に達する。日本では90年

代以来不況に突入しており日経平均株化はピークの4万円から現在は

1万円あたりまで吹き飛んでいる。

 しかしながら日本人の貯蓄残高は膨大であり全世界の約3分の1の

預金を持っている計算となる。問題は貯蓄超過であり家計消費が一向

にここ9ヶ月ほど振るわない点である。失業率は歴史的5%を超え現

在、日本経済はIMFによればここ10年間に3度目の最大級の不況

にあえいでいる。企業の倒産は前例のないペースで発生しており、生

き残っている企業においても超過債務の状態であるが国、銀行の債権

放棄によって生き延び、また中国などへの生産拠点のシフトが頻繁に

起こっている。ここ1年ほど輸出は低調である。金融、財政の観点か

らすれば、また巨額の財政債務を考慮すれば、3年来続いているデフ

レは、金融機関に多額の不良債権を生み出し、公的資金注入無しには

銀行の倒産もあったであろう。

 しかしながら日本はIMFの餌食にもならず国際投機の対象にもな

らず、この危機は全然、自由主義政治の影響はなく、むしろ反対に自

由資本主義に反対の強度な規制に日本は守られておりケインズ主義が

もてはやされている。経済を再起動させるために信用創造を拡大し公

定歩合は限りなく0%に近づけたが、銀行は豊富な家計の預金をあづ

かりながらもゼロ金利でさえ全く運用先を見つけることができない。

 一方では国債が積みあがり大部分が公的債務の帳消しに回されてい

る。いくつもの経済再生プランが発表され、大型公共事業がこの公的

債務バブルを資金源に行われたが目覚しい効果は得られなかった。現

在、日本は飽和状態にあり全国コンクリートだらけで住民は更なるダ

ムの建設に反対している。Charybde en Scylla に陥る危険から、ケ

インズ政策は現在、西欧で20年来行われている自由主義政策に置き

換わろうとしている。

 日本の巨額債務バブルから立ち直るための現実的金融、財政政策と

言っても所詮、関係者は結局、信用供給拡大を通して資金を流通させ

る以外に方法はなく、個人と企業の意志は反映されず結局は国が公的

債務を極限にまで増大させるだけだ。金融財政政策もいわゆる"流動

性のわな"にはまり経済学者でさえ現実的脱出方法がわからない。金

融市場が日本の国債に対して信用を持つ限り国債を買い続けるであろ

うが(現在まではなんとか発行国債を消化しているが)国の債務がつ

みあがるにつれて国債購入者が動揺すればたちまち市場はバブルを予

想し状況は悲惨なものになるであろう。

 ここで日本はアルゼンチンと同様の様相を呈することになるであろ

う。債務のスパイラル化に伴って資金の出し手がいなくなるわけだ。

日本経済は現状維持のため資金を必要とするが、資金不足で不景気は

増大し市場は不安定になりひいては世界経済システムにまで影響を及

ぼす。企業の倒産は増大し、それとともに不良債権も増え、失業、消

費不振−−不景気の悪循環は日本経済の金融システムを根幹から揺さ

ぶる。

 国際金融経済の観点から日本の経済危機が何かの奇跡によって国

際経済に悪影響をおよばさないことは予想しにくい。

[訳:林 昌宏]