No.16
発行者:ジャパ・ベトナム事務局
発行日:1998年10月01日


ベトナム メコンデルタを訪ねて
水野 信利
 今回のベトナム行は、妹(故・石本暁美)がよく口にしていた「ベトナム大好き」という言葉にひかれてのものだった。妹が好きだったベトナムという国を一度はこの目で見ておきたい、そんな自分勝手な思いでの今回のベトナムツアーへの参加だった。
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 8月という季節は、ベトナムでは雨季、といっても一日中ずっと降るのではなく一日に一回か二回、それも一時間ばかり激しい雨足のスコールが通りすぎるというものであった。

 オートバイや車の喧騒にあふれるホーチミン市は別として、町を離れ、農村部に入ると赤土と緑の木々の鮮やかな対照が目に映える。

 安藤神父を中心にしたジャパ・ベトナムのツアー一行は7人。それに現地の案内を引き受けてくれた支援メンバーとレンタカーの運転手を含めて総勢10名。それぞれ訪問目的にしたがって朝早くから夜遅くまで忙しい日程を精力的にこなしていた。一方、私は部外者の参加という気楽さ、無責任さのまま、ただみんなの歩きまわるあとを追いかける毎日であった。

 メコンデルタの中心地カントー地区は、ホーチミン市の南西部、未整備状態の続く国道を南下。二つのメコン川支流をフェリーで渡る。支流といっても堂々たる大河。フェリーの内外での混雑の中で、エネルギッシュな人々の暮らしにふれながら、ベトナムの熱い空気を胸一杯吸い込む。

 カントー市は、川沿いの公園に立つホーチミンの大きな像と、その背後に広がるマーケットの光景が実に印象的だった。マーケットには種々の果実、農産物が山と積まれ、食べもの屋がそこここに開かれていた。そのにぎわいの中にある種の平穏さを嗅ぐ。活気の中に落ち着きのある街であった。泊めていただいたお宅に面する通りは、電器街。商店の内外に山積みされている電化製品、ソニーがありサンヨーがある。また大宇、金星、三星といった韓国の電化製品も大量に積まれていた。

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 このカントーから南へ30km。ソクチャン省フンヒエップで車を降りる。ここからは水路になるという。ここでこれから訪れる地区のナム神父の出迎えを受けた。ナム神父の手配によるモーター付ボートに乗り移る。フランス植民地時代に切り開かれたという運河の流れはゆったりとしていた。ボートはポンポンと音をはねながら水路を走る。水路は、この地帯を縦横に繋ぐ主要な交通路なのだ。農作物を積んだ舟、人を乗せた舟、多くの舟が行き交うが、操縦しているのは女性が多い。モーター付でない舟は櫓でこいでいる。日本の水郷の大型版である。運河に沿ってたてられている家には、レンガ造りがあり、ニッパヤシの葉でふいた家もある。床下が木に支えられ水際につきでた水上家屋もあった。

 運河のところどころに支流があり、そこには小さな橋がかかっている。一本の木を渡しそこに竹竿のようなかんたんな手すりがついている。あれがモンキーブリッジか。いかにも頼りなげに立っている。

渡るときは足元に注意しなければ大変にあぶないしろものだ。コンクリート製の橋もある。といっても幅は細く(1m位)両側の支柱に支えられていた。

 教会が見えてきたが、最初の目的地はその奥ということで通りすぎる。この運河に沿って作られた道路がアキミ(暁美)通りなんですよ。アンドウ(安藤)ブリッジもまもなく見ることができます。ナム神父の説明を受ける。ジャパ・ベトナムの援助で完成した道路や橋に、日本人の名前が付けられたのである。日本から遠く離れたベトナム、それもずっと南の奥地に作られた道路と橋、それに現地の人から名付けられた日本ゆかりの道路と橋があるということは、心にひびく話であった。  小さな舟着き場にボートをつけおりると川っぺりには青々とした木が茂り、道をへだてて教会があった。礼拝堂の横手のロビーへ案内された。そこには子どもも含めて20人ばかりの人々が集まっていた。歓迎のあいさつに一人のシスターが私たちの前に立った。

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 「この村を代表して皆様のご健康とお幸せをお祈りします。皆様をこの村にお迎えすることができてとてもうれしく思います。今回の訪問の結果、皆様がより多くの実りを手にすることができますよう希望いたします。  私たちは皆様に再びお会いできたこと、そして毎年訪れていただけることに深く心を動かされています。なぜなら、当地へいらっしゃるには、はるばる遠くから悪い道を長時間かけなくてはなりません。そのような苦難をのりこえていらっしゃったのですから…。私たちは心から感謝を申しあげるとともに、この訪問を長く記憶にとどめることを申しあげます。

 特に今回、代表の中に暁美さんのお兄さんの水野さんがお見えになっています。暁美さんはジャパ・ベトナムからこの村への初めてのメッセンジャーでした。

一人でこの村にいらっしゃった暁美さんは、ベトナムのすげ笠を荷につけておいででした。 質素な服装でしたので、私たちは最初ベトナムの人と思い違いしたほどです。愛情に満ちた微笑を浮かべ、輝く目、思いやりに富んだ態度、だれにでもにこやかで、会った人はだれでも彼女が好きになりました。暁美さんがもたらした贈り物で、この村に、セメント、鉄、石で舗装された道路ができました。これはこの地区で最初の舗装道路でした。

 その後、暁美さんが病気でお亡くなりになったことを知りました。暁美さんをいたみ、その家族と悲しみをわかち、その想い出を残し、ジャパ・ベトナムの援助を記憶するものとして、この道路を『アキミ通り』と名付けました…

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 ご存知のように、この地区の生活水準はとても低く、マーケットも病院も電気もなく、日々の生活の品々にも不足する生活を送っております。小学校が一つありますが、子どもたちにとって困難なのは交通です。通学路は水路とモンキーブリッジです。また住民は汚染された水を使わざるをえないため、すぐ病気になります。

 しかし、ジャパ・ベトナムの援助により、この地区に井戸が掘られ、コンクリート造りの橋がかけられ、道も新しくなりました。おかげさまで生活がずいぶん良くなりました。

 あなた方の援助で現在までにすでに井戸53、橋13(そのうち3つは長さ30m、幅1.4m、10は長さ18m、幅1.2m)、コンクリート舗装道路(長さ1000m、幅1.2m)、砂利の舗装道路(長さ600m、幅1.2m)小さいクリニック(私たちはそこで薬をもらい、宗教上の区別なしに見てもらえます)ができました。

ジャパ・ベトナムの援助に負うところは非常に大きいものがあります。私たちはジャパ・ベトナムがNGOであり、あなた方自身十分なお金をもっていらっしゃらないことを存じております。その義捐金は他の人々からの寄付によっていることも知っております。私たちはそのことを決して忘れません。

 このお返しとして私たちは、ベストを尽くし、よりよき生活をめざして一所懸命働きます。私たちの状況をご理解の上、貧困から抜け出すよう努める私たちに援助をお願いいたします。

 皆様方の幸せと今回のよき旅を心よりお祈りいたします。

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1998年8月6日
カントーにて
トゥクサ・スアンホアの住民より
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アキミ通り
 私たちは水路のほとりの道に出た。コンクリートの細い道が、運河に沿ってずっと続いていた。何の変哲もない道路だ。ナム神父が一枚の掲示板を示した。そこには“AKIMI DUONG”(暁美通り)と記されてあった。そこから道に沿ってしばらく歩いた。沼沢地が埋め立てられ、サトウキビの畑となっていた。そこを左に折れて少し行くと橋があった。これがアンドウ・ブリッジですと教えられ、私たちはアンドウ神父を中心に写真をとった。道を戻り運河沿いの家をたずねた。ところどころにポンプが設置されていた。ポンプ工事の現場にも案内された。近くの子どもたちが集まってきた。大人たちが集まってきた。80mほど掘り下げれば水が出てくるのですと教えられ、工事のぬかるみの中で、進行中の作業をながめながら、一本の道、一本の橋、そして一つのポンプが、この村の生活にとけこんでいるのを感じた。

 教会に戻った。案内された部屋の中に、暁美の写真がかざられていた。その前には、三本の線香が供えられてあった。久しぶりに見る妹の写真の前に立つと、目の奥底が、ジーンとしてきた。

 「たいそうなことをしたわけでもないのに、みんながたいへん喜んでくれ、私の方が気恥ずかしかった」といった妹の言葉をふと思い出した。私は心の中でつぶやいた。こんなに大切にしてもらってよかったな。ほんのささやかなことでこんなに喜んでもらって…。

日本からのささやかな贈り物を、村の人たちは自分たちの力で道や橋に作りかえた。一つの小さな行動が、遠くベトナムの奥地で、目に見えるかたちで実を結んだ。そして思わぬ物語が生まれた。日本とベトナムをつなぐささやかな記念碑として…。

おわり


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