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「自分にはまだ何かできることがあるはず」
1976年、49歳の一人の日本人医師がネパールの小さな町外れの病院へ、ボランティアとして働くために旅立ちました。
病院での3ヶ月間、彼は病院内唯一の外科医として、早朝から深夜まで手術室に釘付けでした。彼は、手術室に運ばれてくる何人もの人々が、病状がとてもひどくなってから病院に来ることを、不思議に思っていました。
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1970年のタンセン病院
出典:Friends of Tansen January 2003
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そんなある日、26歳の女性が夫と数人の家族と一緒に、二日間かけて病院までやって来ました。彼女の右膝には7センチほどの腫瘍があり、少し血が滴っていました。ひと目でそれは非常に進行した皮膚ガンと分かりました。
検査の結果、骨までガンが達していることが分かり、すぐに「あなたの右脚を切断しなければならない。そうしなければあなたの命までも失うことになってしまいます」と告げました。
ところが、彼女は少し考えて「切らないでください」と言ったのです。そして続けてこう言いました。「私が死ぬのは悲しいことです。しかし私が死ねば、私の夫は次の妻をもらうことができます。そしてその健康な新しい妻は子どもたちの面倒も見て、夫を助けて働くことができます。でも、私が脚を切って何もすることができなくなったら、貧しい我が家は全滅するかもしれません。私にはそんなことはできません」
自分の命よりも家族を大切に思う彼女のこの言葉に、彼は大きな衝撃を覚えました。そして、そういった何百人もの患者さんたちとの出会いが、彼の人生を大きく変えました。
日本に戻った彼、川原啓美は、病院で患者を待つのではなく、アジアの村の中で保健、そして生活の改善について村の人と一緒になって考える人を増やしていけば、より多くの人びとが健康に過ごせるのではないかと考え、ここ「アジア保健研修所(AHI)」をつくろうと決心しました。

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