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初代研修生ナラヤンさんが語る〜私たちの模索〜
AHIニュース No.210 2003.12.1より
2003年のAHIのスタディツアーは、ネパールを訪れました。訪問地のひとつは、50年前に設立されたネパール西部パルパ郡の山の上にある、「タンセン病院」。
ここは、1976年にAHIの現理事長である川原さんが、3ヶ月間医療協力をしたところです。
ツアーのメンバーは、そこで1980年のAHIの第一期国際研修への参加者であるナラヤンさんに会いました。今回、彼にその頃と今のタンセンの様子や、村の人たちと共に働きながら考えたことを書いてもらいました。
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ナラヤン・プラサッド・マハルジャンさん
1952年生まれ。1980年8月20日〜11月30日のAHI第一期国際研修参加者。現在はトリブバン大学講師として組織運営、人材育成運営を教えている。川原理事長への手紙はいつも「おとっちゃん、おかっちゃん」との書き出しで始まる。
写真:今年のスタディーツアー参加者とタンセン病院を回る |
私とタンセン病院とAHI
私がこの病院に勤めたのは1967年です。はじめはレントゲン技師として働き、1975年に地域保健部に保健ワーカーとして移りました。
AHIに行ったのは、そこで働きだして数年たった頃です。私はその時27歳。3ヶ月の研修期間は、前半はフィリピンで、後半は日本で行われました。内容は「村の人たち自身による健康を守る活動=地域保健」についてでした。長い間家を空けるので、妻は実家で私の帰りを待っていました。
AHIから戻った私は、地域開発コーディネーターの立場につきました。保健活動に合わせて、それとは一見結びつきにくい保健以外の活動をまとめていく責任をまかされるようになったのです。
村の人たちと
1970年代の初め、タンセン病院では山の中の村々に医療助手(医師はないが治療について知識のある人)を送っていました。彼、彼女らの手に負えない場合だけ、病院に患者を送るようにしていました。これは患者の負担を軽くしましたし、同時に病院が効率よい治療をするためにもよいものでした。また医者、看護師などによるチームでの巡回診療も行っていました。
しかし、私が保健ワーカーに移った頃には、新しい道が模索されていました。今までの巡回診療ではなく、村の人たち自身が健康を守ることができるようにし、それを支援するのが私たち保健ワーカーの役目であると考えたのです。
そして、私たちは郡内の12カ所の村や地区で、保健ボランティアのトレーニングを始めました。この活動によって、予防接種率が大変高くなって病気が減るなど、村の人たちの健康への関心を高めるのに大きな成果を生みました。
そのうち、私たちは「保健」ワーカーであるのに、家畜の健康や、安全な飲み水の確保や、農業、そして教育などについても、村の人たちと一緒に考えるようになりました。なぜなら、これら一見保健とは結びつきにくいこと全てが、村の人たちの健康や生活と切っても切れないことだったからです。
あれから20年
状況は変わりました。今、タンセン病院に来る人たちの多くが、すでに他の病院で診てもらってから来るのです。現在、郡外の遠く離れたところの医療機関に行ったことがある人は、パルパ郡の住民の6割にのぼります。人々は、医療助手ではなく医者に診てもらいたいと、より専門的な医療を求めるようになったのです。
そして20年以上続いたタンセン病院の地域保健部による活動も、現在は他の部門に吸収され、規模も縮小されました。その理由は、活動資金提供者とのコミュニケーションの不足から来る支援の終了と、保健ワーカーも村の保健ボランティアも、そして村の人たちも、以前ほど地域での保健活動に熱意をもって取り組まなくなったからと言えるかもしれません。ただ、今でもその活動は病院の中で、例えば母子保健のクリニックや保健所の運営や活動の訓練などで、確かに受け継がれています。
主役はだれ?
(Outsiders could help, But insiders
must do the job.)
この20年で、私たち保健ワーカーや、保健ボランティアの活動を通して、各地域で家畜や水道、教育など、生活に関する様々な知識や、技術を持つ人が多く育ちました。その知識や技術を生かし、管理する村の人たちのグループも作られています。
こうした活動によって、貧しく取り残された人たちの暮らしも良くなりました。例えば識字教育を通して、村の女性たちは「権利と責任」、そして「自分たちの持つ力」に気づくようになりました。
しかし、一方で感じるのは、村人のリーダーや住民グループの力が、私たちが期待したほどにはまだ強くなっていないということです。私は、地域の中での保健活動をするためには、住民が考え、行動する力を持つべきだと強く感じています。
私たちがどんなに素晴らしい計画を立てても、もし村の人たち自身が動かなければ、それは失敗です。私たち外部者は手助けはできます。しかし実行するのは村の人たちなのです。
外部者として関わる私たちは、このような考えを持たなければなりません。そして、保健ワーカーは「自分たちで」という気持ちのある村のリーダーを発掘し、励ましながら活動を進めていくことが大切だと思います。
ナマステ(さようなら)。
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写真:2003年8月、朝早くから病院の前で待つ患者たち |
この記事はナラヤンさんの原稿をもとに、事務局がまとめました。
「AHIはいいにおい」
〜研修生はスラムの自治会長さん〜
スラムの住民運動のリーダーが来日してAHIの研修を受けました。スリランカのプレマシリさん(六一歳)とH・Aさん(四五歳)=もっと長い名前ですが、本人はエイチ・エーと名乗ります。いずれもコロンボ近郊のスラムの自治会長さんです。AHIは二十六年間の活動で、延べ六百余人の研修生を送り出していますが、二人の様に課題を決めて、自弁で研修を申し込んできた例は極めて珍しく、魅力あふれる二人を、職員は新鮮な驚きをもって受け入れたのです。
●自らの意思で
スリランカから「AHIで学びたいというスラムのリーダーがいる」と連絡が入ったのは三月でした。カナダで「ハビタット」(国連の都市化と居住の問題に取り組む機関)が開くフォーラムからの帰途、日本での研修を希望しているというのです。
来日のための航空運賃は通常、AHIと研修生の所属する組織で折半です。「航空券や必要な経費はすべて自分たちで寄付を集めた」「リサイクルや住民組織について知りたい」。スラムの住民組織の人たちが、お金の工面までして、研修の課題を決めて、自らの意思で門をたたく。実現したらこりゃすごい。六月二七日から始まる二週間の研修に向けて、受け入れ準備の職員にも力が入りました。
●汗の結晶
スリランカは一九八四年から政府や住宅公社が住民の住宅つくりを支援する政策を採り入れます。 合意が出来たスラム自治会から順に行政が後押しし、住宅建設が進みます。プレマシリさんは住民から選ばれて自治会長となります。現住地のスラムで各戸敷地六十平方b(約一八坪)が割り振られ、各自が資金や資材を調達。レンガ一つひとつ積み重ね、何年もかけてマイホームがつくられていきます。手作りは「家」だけではありません。道路、電気、水道など生活に必要な施設も、自治会で一戸一戸意見を聞いて、取りまとめます。これらを実現するために、行政の指導を受けて自分たちで設計するのです。そして建設していきます。すべては自分たちが汗して、気の遠くなるような時間と労力をかけ、一つひとつ工夫して作っていくのです。
敷地は法律で家として認められる最低面積の半分にも満たないのです。が、自治会の働きかけなどが奏功して九二年には法律が変わり、「家」として登録できるようになりました。スラムの住人も住民票登録が可能になったのです。
●変わっていきます
プレマシリさんは、粗末な板囲いの掘っ立て小屋で生まれ、育ちました。ここでは不法居住が当たり前のことでした。「周りの人もみすぼらしい身なりで汚い言葉を遣っていました」。時間の感覚でさえあいまいになります。プレマシリさんは言います。「貧しいというのは、将来が考えられないということなのです」 しかし法律で認められた自分の家に住むようになると、もっときれいにしたいと思います。近所の人たちも、花を植えます。汚れたままの服や汚い言葉を恥じるようになり、子どもを学校に送るようになりました。かつての不法居住地域から、大学生も誕生し、先生をしている人もいます。「家が、私たちの振る舞いや生活までも変えていきます」 |
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●おなかを押さえて
他の自治会長の相談を受けるうちに、プレマシリさんはネットワークの必要性を痛感し、自治会連合を作りあげました。H・Aさんはその仲間で、次世代のリーダーとして期待されています。啓発のために、路上演劇集団を作り、ゲリラ上演もしています。
高い意識と行動力は、自らの「まちづくり」活動の中から自ら培かって、得たものでした。
八〇年代半ば、住宅政策を推進するために「まちづくり行動計画」が作られ、住民ワークショップが課題別にいくつも行われました。住民代表の他に、住宅公社や地元自治体の職員、地元選出議員、時には市長も参加しました。
プレマシリさんはこのワークショップに没頭していきます。スラムの住民を軽んじる行政の職員が、ここでは、真剣に彼の意見に耳を傾け、それをすぐに実行に移します。バス代を節約するために、早朝から歩いて会場へ。時には空腹でお腹がならないように、おなかを押さえながら、参加しました。
●認められて
二人は定職を持てず、ながく日雇い暮らしでした。無職のままでは住民からも行政からも信頼されません。
やがて二十年近いひたむきな活動が認められ、プレマシリさんは土地埋立開発公社や環境省の住民の組織化を進める契約社員に。H・Aさんはコロンボ市役所から委託された清掃会社で働くようになります。ゴミ回収で町中の家を訪問して、暮らし向きを知ることが出来ます。
ハビタットからの招待はかれこれ十数年前にさかのぼります。航空券代も滞在費も自前です。公費出張の公務員と違って、プレマシリさんたちには無理でした。
ところが、彼らの活動を見守ってきたコロンボのある社長さんが、必要経費を出してくれることになり今年、念願の渡航が実現したのです。
ゴミの回収作業を通して、H・Aさんは、増え続けるゴミが気になり始めます。何とかしなければ。アジアの先進国である日本のリサイクルの現状を見たいと考える様になりました。

料理は苦手、でも掃除洗濯は得意なプレマシリさん

料理をしているHAさん |
●一緒に
「かつて不法居住者だった私が憧れの日本にこられたなんて夢のようです」とプレマシリさん。二人は研修中、AHIの職員と一緒に買い出しをし、H・Aさんが手早く食事を作ります。どれもおいしくて、残業の職員もご相伴に預かり、家族団らんの様な時間を過ごしたのです。CAPのワークショップなどで、多くの学者さんや偉い人たちと同席してきましたが、お寺などで雑魚寝をする自分たちと違い、その人たちはホテルで泊まり、ごちそうを食べます。「AHIには対等な関係があり、自分の家のようにくつろぐことができました」。
プレマシリさんは帰国の日が迫ってくると、感慨深げに何度も言うのです。「AHIはいいにおいがする」 |
●研修を終えて
(研修での訪問先:日進市内の市役所、公民館、NPO他、県内のリサイクル団体、廃品回収の収集場など)堤智子さん(スリランカ滞在青年海外協力隊シニア隊員)が、その後の二人の様子を伝えてきました。
プレマシリさんは、市の開発会議やスラム自治会役員の研修などで講師を務め、日本人の勤勉さや、日本とカナダのゴミ行政、日本の役所の住民と一緒にやっていこうという姿勢について、熱弁をふるっています。H・Aさんは、職場でことあるごとに日本での写真を取り出して、ゴミ分別の重要性を説いています。
二人のアドバイスで、コロンボ市内の主な学校に「紙」「プラスティック」「金属」の分別収集用のゴミ箱が設置されました。H・Aさんの会社、コロンボ市、学校の三者を自治会連合が巻き込んだ合同プロジェクトが始まったのです。 |
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住民組織づくりと地域での環境活動の研修プログラム
今年(2006年)6月末から7月にかけてAHIに滞在して研修の機会を得られたことは
特筆すべきことでした。ありがとうございました。
私達は、25年以上スリランカで住民運動に携わってきたリーダーとして、AHIで研修を受けることが出来たことを大変感謝しています。同時に私たち自身の経験を日本の人たちに伝える機会が与えられたことも非常に幸せなことでした。
AHIでは、ゴミやリサイクル、ホームレスの人びとの問題などについてどのような取り組みがなされているのかを学びました。さらにそれに取り組んでいる市民グループや住民組織の人たちからも話を聴き、それを通して、学びました。また大学生の人たちに私たちの経験を話し、やりとりすることもしました。
特にいくつかの大学での学生とのやりとりは、大変貴重なものでした。彼らはとても一所懸命で、また率直であり、創造的でした。スリランカではこうした経験はなかなか持てないように思います。 |
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彼らから私たちも学ぶことが出来、感謝しています。さまざまなところを訪れ、人びととのやりとり。技術が発達し物質的に発展した日本社会でも再度、自然に親しもうとしたり、伝統的な価値や、人の内面的な価値感、節度ある親密感などにももう一度目を向け、それらを守ろうとする努力がなされていることを、こうしたことを通して知ることが出来ました。それは私たちにとって、たいへん重要なことです。私たちにも、人と人とのつながりが、開発や、地域の課題に取り組む時に最も重要な要素であると考えているからです。
また今回のAHIでの研修が、私たちの意向を尊重したものであり、私たちの経験を他の人たちに伝える機会にもなりました。これも特別な意味を持つと思っています。こうしたAHIの姿勢は、様々な援助機関の基本となるべきである、と考えています。
AHIからつつましやかに、また恩着せがましいところもなく受け入れられた、と感じました。人と人とのつながりを大切にするAHIの姿勢は、私たちのように貧しい者に力を与えるものであると感じました。
そのことを私たちは頭でなく五感で感じました。そういう匂いがしたのです。
以前、私たちのところで支援をして下さっていた穂坂光彦さんが、AHIの創設からの関係者であると知って大変嬉しく思いました。穂坂さんは、私たちにとって先生であり、指針を示してくれる人です。
今回のAHIでの研修を可能にしてくれた堤智子さんにも特に感謝の気持ちを伝えたいと思います。堤さんは、1992年以来JICA関係者として私たちを支援してくれています。
日本で学んだことを帰国後、様々な人たちに伝えることは、私たちの責任だと感じていました。地元の人たち、行政の人たち、他の団体の人たちなどです。日本で大学生と接する機会を得たので、帰国後も大学生とやりとりをする場をも持ちました。
私たちが滞在中にお会いした人たち一人ひとりに感謝します。今後も私たちNational Community Federation とAHIのつながりが続くことを願っています。
スリランカの住宅政策
AHI職員 秋田真千代
@1978年〜83年 住宅10万戸計画
A1984年〜89年 住宅100万戸計画
B1990年〜94年 住宅150万戸計画
@の時期の1977年統一国民党政権が成立すると住宅建設は重点政策の一つとされ、「住宅10万戸計画」がスタートした。自らが下層階級出身のプレマダーサ首相(当時)は都市貧困層の住環境改善が政治的基盤の要になりうることを知り抜いており、住宅政策に本腰を入れた。国家住宅開発公社(NHDA)が公的住宅供給等の住環境改善を行う実施機関として1979年に設立された。
好景気に支えられて国家予算の12%が住宅投資に当てられ、5年間に15万戸以上の建設を達成した。
Aの時期に入ると、国内治安悪化のため、住宅予算を大幅に縮小せざるを得なくなった。更に10万戸事業についての反省も上げられた。公的事業の枠外で、人々は実際に自力で、はるかに安く、はるかに大量の住宅を建設していたことが確認された。しかも、居住者自身が建設をコントロールしていくシステムの方が、政府が与える住宅よりも人々のニーズに合うものを産み出していた。これらをふまえて新たに「住宅100万戸計画」が制定された。その後、住宅開発公社のスラム改良事業が開始され、政府や住宅開発公社は住宅の「供給者」であることをやめ、住民による住宅作りを後方から支援し促進する役割に徹するようになった。住民の意向に合わせて、地区道路・水道・排水溝・電気・共同水浴場などを整備する。住民が利用しやすい住宅ローンを導入する。住宅改良についてアドバイスを与える。住民組織作りを支援する、など。このように条件を整えていけば、貧しい住民も自力で住宅を改良する意欲がわき、その潜在的な能力を引き出せる。そのほうが、政府が上から全てを与える住宅供給よりもはるかに効果的であったのである。そのためには、まず住民が自分の地区について、問題を分析し、改善への提案を作り、当局と交渉し、実施する、という自立的な活動を始めねばならない。そこで考えられたのが「まちづくり行動計画」と住民ワークショップであった。そのワークショップは政策を担っている住宅開発公社職員が地域に足を運び、地域住民、政治家、宗教者が一同に会して行われるものだった。そのワークショップの中では地域の住宅計画をコミュニティ行動計画として作成し、住宅事業の中で実際に活かされ、支援的政策環境が整えられていった。具体的には、公有地を不法居住者らに開放し土地権利を確定する、一般建築基準を免除し建築協定を適用する、地区内の共同施設の工事は、一般の入札手続きによらず、コミュニティ建設契約を与えたりした。住宅開発公社職員は週末ごとに地区を訪れ、ワークショップを組織した。
しかし、その住宅開発公社職員が政治的支持を背景に献身的に働けば働くほど、それはますます「良い政府のプログラム」に沿って、「献身的な政府職員」が住民を導くことを意味した。
Bの時期は、低所得層の雇用増進などが組み合わされているものだが、住宅整備に関する限りその思想は「住宅100万戸計画」時代と変わらなかった。政策は強い政治的支持ゆえに成立していたが、それが皮肉にも政策環境の基盤を脆弱にしていった。政治変化にたやすく左右される運命にあったのだ。93年にプレマダーサが暗殺されると、この政策は一気に衰退してしまった。「献身的な政府職員」以外の草の根でのイニシアティブを支えられるアクターが必要であった。
実は「住宅100万戸計画」時代に住宅開発公社は地域の中から優秀な住民リーダーを選び、彼らにコミュニティ組織化の仕事を任せていた。彼らはチームを作って未組織の地区を訪ね、自分たちの体験を話し、住宅開発公社のプログラムに結びつけていった。その後、彼らは住宅開発公社からの独立を求めた。これはスラムから生まれ、住民リーダーによって構成されるNGOである。ここに現地NGOが手を貸していくことになる。現地NGOはコミュニティ行動計画の再生を図り、草の根の貯蓄融資組織や住宅組合の連合体を作っていった。住民は住宅開発公社の限界を知り、自分たちで資金源を探し始めた。現地NGOは設計アドバイス、建設維持ガイドラインを作成し、建設のための技術トレーニングを行った。これによって住民は下水道、トイレ等を自らの手で建設していった。
参考:穂坂光彦著 『アジアの街 私の住まい』明石書店
斉藤千宏編著『NGOが変える南アジア』穂坂光彦執筆「住民によるスラムの改善」コモンズ
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