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2002年4月4日 英語原題
Strang victory |
「戦争を政治交渉から切り離すことは決してできない。どのようなやり方であれ、戦争と政治交渉の両者を切り離してしまったら両者のさまざまな関係が全て断ち切られて、目的を欠いた無意味なものが残るだけである」カール・クラウゼヴィッツ「戦争論」
1.「不屈の自由作戦」達成したものは何か?1.1 勝利の果実作戦の成果は下記のように簡単に定量的な言葉でまとめられる。
FBI対テロ部局のアシスタントディレクターであるJ.T.クルーゾ(J.T. Caruso)は、OEFの成果としてアルカイダの『恐るべき活動』を行う能力が30%ほど減少した、と予測している。クルーゾはビンラディンを捕縛すればアルカイダの作戦を「迷走させる」ことになる、と期待している。しかしアルカイダの組織の性格が中央集権的でない以上、「停止させる」ことは必ずしも可能ではないと言う。 米国が1万2千発もの爆弾とミサイルを投入し、最低でもアルカイダの部隊3千人を殺し、7千人以上を捕虜にしたことによって、アルカイダの国際的な活動能力に大きなインパクトを与えたのではないかと期待する向きもあるだろう。しかし米軍の奮闘と、その作戦で殺されたり、捕虜になった兵士はアルカイダの国際的なテロ活動とは間接的にしか関係を持っていない。 タリバン体制は我々の注意を大いに引きつけたが、このタリバンもアルカイダのアフガニスタン外部での活動とは付随的な関係しか持っていない。実際、アフガニスタン国内のアルカイダの施設と外人部隊のほとんどはアフガニスタン内戦と関連したものなのだ。はるかかなたのテロ活動を指揮する組織の能力は大半がアフガンの外部に属しており、したがってOEFの射程外にこぼれ落ちている。 アルカイダの地域外での活動と目的にとってアフガニスタンが重要であった点は、テロリストに聖地と訓練基地を提供した、ということでしかない。アフガニスタンはアルカイダの(アフガン)国外活動にとって直接的には重要でなかった。その代わり主に幹部のリクルート基地として組織の世界的な活動に貢献した。アルカイダが失った国際的なテロ活動能力を回復させる力は、9月11日事件のようなテロ攻撃に大規模な野外訓練施設など必要なかった、という事実から求められる。倉庫と小さい敷地があれば十分であろう。さらに、大きなテロ組織は彼らテロ組織に共感を持つコミュニティさえあれば、聖域となる国家など無くても非常に長い期間にわたって活動できるということを、彼ら自身の活動を通して証明してきた。アイルランド共和国軍(IRA)がその一例だ。以上のことからアルカイダは活動をよりいっそう秘密裏で、国家に依存しない形に適応することによって、失われた能力、そしてメンバーの採用、訓練と行った面の力も回復させることができるかもしれない。 1.1.1 第二の目的アルカイダとタリバンに直接の打撃を与えることに加えて、米国はOEFによって以下の目的を達することを望んでいたと思われる。
抑止効果に関して。 タリバンの破滅によって、アメリカを標的にする可能性があるフリーランスのテロ組織と関係を持つことにならず者国家が慎重になるよう仕向けなければならない。しかし実際のところ、米国資産に対するテロ攻撃の頻度へどのくらい影響をあたえるのか、という点についてはさらにいくつかの要素が鍵を握っている。 1)抑止効果は例えばソマリアのような(訳注:国家の力が弱い)弱小国または準国家に対しては無効である。2)もっと国家の力が強い国、例えばリビア、シリアのような国については既に米国攻撃への支援が潜在的に抑止されていると思われる。 以上を考慮すると3)アルカイダのような超国家的な新しいテロ組織は、反米活動を行うために特に国家に依存することは無いと言えるであろう。 最後にOEFはその抑止効果に反する別の効果をもたらす可能性がある。つまり米国資産に対するテロ攻撃を直接的・間接的に支援することにずっと慎重になる国が出てくる一方で、テロ組織自身は米国攻撃を実行する動機が与えられた恐れがある。 米国の軍事行動について 9月11日の攻撃に対する米国の反応は、その速度、激しさ、規模の点で、(9月11日の)攻撃によって米国が海外軍事活動を縮小するかもしれない、という予測を全く覆すものとなった。反テロキャンペーンの一環として、海外での米軍の軍事活動が拡大することで先のような予測がさらに外れることになった。 中央アジア、南アジアにおける米国の地位について OEFによってアフガニスタンと中央アジアにおける米国の地位は確かに全体的に向上したといえる。今やムシャラフ政権は実質的に米国支援に依存しており、パキスタンに対する米国の主導権も強化された。そしてインドとの協力関係にも新たな基礎が作り上げられた。しかし、こうした米国の地位向上を長期にわたる戦略的・物質的利権に転換することはそう簡単ではない。ロシアのアフガニスタンにおける影響力も潜在的に前進してきた・・・おそらくは米国以上に。 インドもアフガニスタンで賭けに出ている。ロシアはこの地域で米国と覇を競い、中国、イランもそれに続いている。 アメリカのパキスタン、インドとの新たな(またはリニューアルされた)関係によって、米国は印パの紛争に巻き込まれるかもしれない。両国の紛争はカシミールだけで起きているのではなく、アフガニスタンでも発生しうる。 パキスタンが米国によりいっそう依存するということは諸刃の剣となる。ムシャラフの国内の敵との戦いを支えることは簡単でもないし、安く済む話でもない。 要約する。この地域での米国の地位改善を長期的な利権に変えるためには、さらに相当な追加投資、関与・関係が必要であり、そうすることによって将来の紛争、おそらくは大規模な紛争という相当な危険を負うことにもなる。 1.2 戦争のコスト1月10日時点で、戦争の間に敵に撃たれて殺されたアメリカの人的損失(公務員)は、2名である。(1名はCIA職員で、もう1名は正式な軍人)そして最低でも12人が事故死した。2001年10月から2002年1月の間に、アメリカの同盟軍は600人未満が戦死した。この大半は長期に及んだマザリシャリフ攻囲戦の最中に戦死している。国防総省は米国にとって戦争の最初の3ヶ月で3.8億円の経費がかかると見積もっている。この値は独立系NGO、「Center for Strategic and Budgetary Assessments」の概算と一致している。 1.2.1 戦争の人的コストOEFは治安維持活動を目的としていないし、そのために計画されたものでもない。タリバン政権が取り除かれたわけだが、その目的はタリバンを罰するためであり、アルカイダに対して大規模で激しい攻撃を推し進めるためであって、国(訳注:アフガン)を安定させたり、アフガンの人道的危機救援を目的としているわけではない。このようなわけでタリバン打倒の第一目的はワシントンが戦争の4週目まで軽視していたハミド・カルザイの就任式を実現することではない。それは北部同盟に対抗して集まった外国のタリバン志願兵に対応するために、アメリカがカンダハル近郊に地上軍を参戦させたり、アフガンの同盟軍と共同してアルカイダ幹部を追跡するためである。治安の安定や人道的目的は明らかに優先順位が低く、このことが作戦の経費にも反映されている。OEFはタリバンを権力の座から追いやり、アフガニスタン国内のアルカイダ組織を根こそぎにしたが、相当な人的コストがこれらの結果に関連している。これらのコストには以下が含まれる。
1.2.2 治安上のコスト治安の安定にかかわる様々なコストを戦争の人道的コストに付け加えるべきだろう。
2.回避可能であったコスト:選ばれなかった選択肢OEFの否定的な副作用は、この作戦がアルカイダのテロネットワークに対抗するために本当に必要なすばやい行動とほとんど関連がなかったということである。その代わりに彼らは1)手始めの仕事として、タリバン政権転覆を目的とした作戦に焦点を絞るという決定をし、2)計画を広汎な空爆作戦に非常に重きを置いたものとした。忍耐と抑制、想像力をより必要とするが、もっとコストがかからず、このように不安定な方法をとらないことも可能であった。ありえたもう一つのアプローチの概略を述べると、1)アルカイダに対して直ちに効果的な措置をとる必要性と2)タリバンを含むアフガニスタンの幅広い問題に取り組む必要性を区別するものになったであろう。(付記2「失われたOEFの政治的枠組み」参照) アフガニスタンのアルカイダに対する迅速な対応は特殊作戦ときわめて限定された空襲に制限されていたかもしれない。そのような軍事行動は即効性のある結果をもたらすものではないが、確実かつ否定的な副作用を最小限に抑えることができたであろう。いずれにせよ9月11日の結果を受けた反テロリストの最も火急な任務は、次の攻撃を仕掛けると予想されるアフガニスタン外部のアルカイダの構成員に関係するものとなっただろう。こうしたメンバーを封じることは情報機関や法を執行する機関の任務であった。 アフガニスタンの幅広い問題を解決するには大規模な軍事作戦(地上部隊の展開も含む)が必要となるだろうが、それは適切な政治的枠組みが形作られるまで延期されねばならなかった。6ヶ月から8ヶ月にわたる集中的な外交と情報収集活動、そして軍事的な準備をするだけでも、アフガニスタンに安定をもたらすための軍事行動が及ぼす様々な影響、効果、インパクトについて重要な違いが生じるであろう。そのような準備によって、戦争という手段が除外される、もしくはその規模縮小が可能となることさえありうる。大規模で野心的な軍事行動に飛びついたために、戦後の政治環境、人道的なニーズに対する適切な準備作業が排除された。戦争前の準備は下記のような内容を含むべきであった。
軍事的行動のために適切な政治的枠組みを構築するということは、軍事的成功に必要な負担とか、単に外交のために軍事的リスクを引き受けるといったことではない。逆に適切な政治面の準備が不足していれば軍事的成功を達成することはより困難になるし、成功のコストも上がることになる。そうした準備不足のために戦場での成功を確実な戦略的利益につなげてゆくことも困難になる。
3.戦略無き戦争OEFの目的と戦略は戦争の最中--実際には初期の3週間の内に何回も見直されてきた。こうした迷走ぶりは政府の戦略の中に短期的な戦争目的ともっと幅広く長期にわたる戦略的な考慮が一致していない、という点にも反映している。長期的な戦略とは例えばアフガニスタンやアフガニスタン周辺地域の安定、といった事柄である。戦争開始後の3週間でそのような戦略が存在しないことがはっきりした。そしてこのことから2つの選択肢が提起された。つまり戦争がずっと長くなる、という見込みを受け入れるか、より広い安定性の問題(broader stability concerns)を無視するか、という選択肢である。どのようなものであれ長期戦のシナリオは政治的リスクをはらんでおり、このリスクを目の前にして選択は簡単なことだった。より幅の広い懸案事項は脇に追いやられた。3.1 標的になったタリバン9月11日以後、ブッシュ政権は、近日中に攻撃するアフガンの様々な軍事目標を宣言した。こうした軍事攻撃をおこなう最大公約数的な目的はアルカイダ幹部に裁きを与え、彼らの組織の能力を破壊する、ということであった。観測筋の大半にとってこのような攻撃はアフガニスタン内のビンラディンとアルカイダネットワークに対して、特殊部隊や限定された空爆を用いて注意深く集中的に対応することを意味していた。低レベルの軍事作戦は付随的な被害を出す危険を減らし、多くの同盟国、とりわけパキスタンに強くアピールするものとなる。そしてこのような作戦は対テロリズムの専門家と「新しい戦争」を唱える者達にも受けが良いものであった。タリバンに関する目的は、もっと難しく、論争の的となるものとなった。9月11日以後、政府はタリバンに対する2つのありうる目的を示唆した。 最初のものはタリバンがビン・ラディンにかかわっているということから(制約されたやり方で)タリバンを処罰し、ビン・ラディンに法の裁きを受けさせるためにタリバンに協力を強制する、というものである。二つ目の目的はタリバンを処罰し、米国のアルカイダ攻撃に完全に協力するような新政権をアフガニスタンに樹立し、その道を切り開くためにタリバンを打倒する、というものである。 以上の目的は双方ともアルカイダのみを標的にする場合と比較して、軍事行動がより広い範囲に広がり、激しさが増すことを意味した。そして空爆作戦には両方の目的が含まれることになった。上の二つのうちより限定された一つ目の目的−罰して従わせる−でさえ1999年・バルカンでの「同盟の力作戦(Operation Allied Force):OAF」並みの規模の行動が必要となる。タリバン政権をターゲットに選択したことで、国際的な同盟を作り維持する仕事は複雑になった。大規模な空爆作戦は付随する被害も大きくし、アフガニスタン自体を攻撃しているという印象を与える。世論調査会社ギャロップ(International Gallup Association)によると9月11日の攻撃直後に行った37カ国での世論調査で、大多数が法的対応の方が軍事的な対応よりも好ましい、と反応していることがわかった。イスラエル、インド、そして米国においてのみ、すばやい軍事行動を大多数が望んでいた。一般市民の犠牲への不安、大規模な空爆作戦によって予期せぬ分裂した結果が出るのではないかという懸念から論争が白熱した。そのような空爆が報復の面を持っていることも、国際法の問題として議論を呼ぶことになった。とりわけアラブ・ムスリム国の政府にとっては、イスラム国を攻撃するということは、テロ組織を無力化するということと比べてはるかに困惑する事態であった。そしてそのような攻撃は彼らアラブ・ムスリム国にとって実質的な利益がなかった。実際、パキスタンとサウジアラビアにとっては、子分が攻撃されるも同様であった。 米国の反タリバンのさらに先を行く野望・・・タリバン政権の転覆・・・も同様にもっと多くの懸念を招いた。つまり、タリバンが取り除かれたらその後を誰が、何が引き継ぐのか?、そしてアフガニスタンと周辺地域に安定にどのような効果があるのか?、最後に片付けるべき実務的な問題がある。政権を取り除くためには地上部隊がかかわる必要があるということを疑う者はいない。しかしどのくらいの規模?どのくらいの期間? こうした課題、疑問のいずれもが米国の世論の中で提起されることはなかった。世論は9月11日以来ブッシュ政権にほとんど白紙委任状を渡しているようなものだったのだ。主な問題は諸外国の首都における意見であった。こうした意見を前にしても、タリバン攻撃が容易であった一つの理由にタリバン政権の全般的に孤立していたことがあげられる。タリバンはその短い統治期間に西側の世論を遠ざけるに十分な仕事を成し遂げていた。戦争に先立つこと数週間前にブッシュ政権は将来のアフガニスタン内の軍事行動について、巧みにその目的と性質をぼやかして公表した。もちろん、ビン・ラディンがその照準の中にある。しかしタリバンに関して政府は公式には「強制的に従わせる」という選択肢を強調した。一方でパキスタンはタリバンに対してアメリカの要求に応じるよう説得し、アメリカの攻撃を避けようとしていた。しかしタリバンが従う、もしくは従うことが可能となるということすら望み薄であった。タリバン首脳部への要求は明確で交渉の余地がなかった。その内容はビンラディンとアルカイダ幹部を引き渡し、アルカイダの訓練所と基地を閉鎖して米国のアフガン国内査察を受け入れよ、というものであった。タリバン首脳部にはビンラディンやその仲間の幹部達と手を切る用意さえあったのだが、米国の最後通牒の一部には応じることができなかった。 アルカイダの志願兵が3千人ぐらいいたことを考慮すると、彼らの大多数は内戦における突撃隊やタリバンの保安部隊に組み込まれていたと思われる。アルカイダ基地のインフラは数十の用地からなると予測された。それらの基地はまたタリバンの用途にも大いに活用されたし、カシミール内戦においても利用された。このようなわけで、米国政府の要求に従うことはタリバンが進めている内戦でタリバン自身が敗北することを意味した。さらにアルカイダの部隊と基地のインフラはタリバン本体のそれに溶け込んでいた。これらを考え合わせるとタリバンは、期間限定のない米国の査察体制が侵略的なもので、長引くものになると予測したであろう。最後に、これらの要求は交渉の余地の無いもので、要求はタリバンが言いなりになって服従することを求めていた。ナショナリスティックな反応が予測されるべきであった。こうした米国の要求は、より柔軟なカブールのシューラ(評議会)よりもカンダハルの強硬派を力づけることになった。 戦争前の米国−タリバンの交渉の中で、タリバン内の2派が一つになったとは言えないまでも、タリバンにとって2派が同盟を組む努力をすることは必須事項であった。とりわけパキスタン、サウジアラビア、そしてその他のムスリム諸国に対する場合にはそうであった。ブッシュ政権とのつばぜり合いの中でタリバン特有の過激主義が米国政府とメディアのコメントの焦点となった。戦争の直前までにタリバンを命令に従わせることができなかったために、タリバンはビンラディン以上の標的にさえなった。 戦争前にブッシュ政権は公式にはタリバンに対する対応の選択肢として「罰して従わせる」という選択肢を強調していたが、同時に9月11日の攻撃直後からアフガニスタンの体制を変えるという、より野心的な目的にヨーロッパ同盟国の支持を取り付けようとしていた。9月末までに米国政府はおおっぴらにタリバンへの地元抵抗勢力を支援し始め、この抵抗勢力に対して間接的な支援を約束していた。しかし支援の約束がかわされた北部同盟の名が挙げられることは無かった。いったんOEFが始まると政府は、戦争の目的をむしろ短期間にタリバン政権を打倒することに変えたと宣言した。未決定のまま残っているのは 1)誰、何がタリバンの後を引き継ぐのか、ということと 2)米国はこのアフガンの体制の変革をどのようにして実施するのか ということであった。後に判明することだが、戦場の切迫した事情から米国政府は上の2つの決定を戦争の最初の1ヶ月の間に決断したのだった。言い換えると「戦争は政治(politics)を決め、戦略はその目的を定義する(war would determine politics and strategy would define its own goals)」ということである。 3.2 初期の戦略:タリバンを分裂させる最初、アフガンの体制を置き換えるという目的は北部同盟を誘い出すことでも、南部のタリバンを完全に殲滅するということでもなかった。その代わりに米国は空爆と特殊作戦、そして限定的に北部同盟の戦いを支援する、という組み合わせでタリバンに圧力をかけて弱らせることを目的としていた。米国はまた、タリバンの中でもアルカイダに近いメンバーや最強硬派を葬り去って、タリバン内部に事実上一つの派閥を作り上げ、タリバンを分裂に導こうとしていた。排除対象となるタリバン首脳部としてはムラー・オマル、国防大臣のObeidullah Khan、司法大臣 Mullah Nooruddin Turabiらが含まれた。より従順な「残存タリバン」は米国とパキスタンが作り上げた他のパシュトン人一派の中に溶け込むはずであった。最終的な段階では、北部同盟を組み込んだ統一政府をザヒル・シャー国王の監督と国連援助のもとで立ち上げる。この米国の計画は9月11日の結果を受けて急ごしらえで作ったものである。このような計画は「砂漠の嵐作戦」や「同盟の力作戦」の作戦準備の経験と鋭い対照をなしている。先の二つの作戦の場合は4ヶ月から6ヶ月の外交活動が攻撃開始に先立って行われている。以前のこうした作戦は両方ともに、戦略的状況がより単純であること、戦争前の同盟国間の調整をしっかり行ったことで恩恵を被っている。ことを急いだため、OEF初期プランのいくつかの要素は実現不可能であることがわかった。9月11日の直後に、(タリバン打倒という)政治的野心にみちた作戦を開始しようという決定がなされたため、米国務省には実現困難な課題が任されたのだった。多国籍間の政治的枠組みを数ヶ月どころか数週間以内に作り上げねばならなかった。さらに戦争の目的も方向も不明確な状況であった。 米国政府は最初の取り組みの中で、主要な問題について下記のような件について誤った推定をしていた。
3.2.1 タリバンでっち上げアメリカの軍事作戦とは何百人ものパシュトン人を殺し、北部のパシュトン人に敵対する勢力を支援するようなものである。さらにこの作戦からアフガニスタンの人道的危機が悪化する。こうした軍事作戦を実行しながら、タリバンに代わるパシュトン人をすばやく集めることなど不可能であることが証明された。ハミド・カルザイを含めたザヒル・シャーのグループが支援を受けているように思われていた。アフガニスタンの専門家であるバーネット・ルービンはこうした政治面の努力を分析したが、それは厳しい評価であった。 彼らは政治面では中上級クラスの政治家(例えばリチャード・ハース:Richard Haass)を取り込み、軍事関連では統合参謀本部の全員を取り込んだ。そして彼らは巡航ミサイル一発の半額さえもローマのザヒール・シャーを支援するために用意することができなかった。もしも誰かがタリバンに代わる現実的な代案となるようなパシュトン人連合を作ることができたならば、アフガン国内におけるタリバン連合の多くの部分が、そのようなパシュトン人連合へ離脱したかもしれない。しかし割り当てられた時間内にそのようなものを作ることはできなかった。非常に明白なことだが、タリバン内部には常に深い亀裂が存在しており、そうした亀裂は異なる状況の下でより利用できたかもしれないのだ。 タリバン内部の分裂は特に西側との関係をめぐって戦争の前から明白であった。そうした亀裂はタリバン落日の期間に再びはっきりとしてきた。この分裂の中でカンダハルシューラが全般的にはずっと現実的なカブールシューラをつぶすことになった。このような事態は米国政府、おそらくはその軍事作戦に直接の責任がある。カブールシューラは幅広い地盤をもつグループである。彼らはタリバンの支配層の「第2世代」となっており、地方リーダー、古参ムジャヒディン、そして1994年以降タリバンが国の権力の座に登りつめた際に加わった新しいタリバン支持者から成る。このグループを穏健派と呼ぶのは言い過ぎであろうが、彼らは大半の北部同盟のメンバーよりも過激ではない。不幸なことにこの勢力は長期間カブールシューラの長(そしてタリバンの評議会で首相)であったムハンムド・ラバニが2001年4月に死亡した時に、潜在的なリーダを失うことになった。9月11日以降、内部で組織的にムラー・オマルに挑戦する動きが高まれば、そうした動きは外部からの支援を受けたであろう。 3.2.2 パキスタン:進退窮まってパキスタンはアフガニスタンの政治情勢を作り変えうる相当な能力を持っていた。しかし、1ヶ月以内という短期間で、そしてパシュトン人と他の民族グループの間での権力バランスについて何も保障できない状態では、アフガンへの介入も困難であった。戦争直前、そして戦争後ですらタリバンはパキスタンの支援にひどく依存していた。タリバンもパキスタンとの節穴だらけの国境から利益を得ていた。最後にパキスタンの情報機関、軍の幹部が持っているタリバンとの多様なレベルの関係がある。アフガニスタンに入国したパキスタンの要員はタリバン幹部と一緒に動いていたが、こうした要員によってタリバンとの関係が強化されていた。タリバンがパキスタンに多様な依存的な関係やつながりを持っていることで、パキスタンはビンラディンについて圧力を加えたり、タリバンを弱体化させたり、分裂させる潜在的な力を持っていた。そうした努力は6ヶ月かそれ以上の時間をかけて、慎重なやり方で行えば実を結んだかもしれなかった。しかしタリバンがはっきりと標的となることでアフガン国内のパキスタンの資産が危険にさらされ、パキスタンはそうした資産を急ぎ撤収しなければならなかった。反体制勢力として穏健派タリバンを集めるという企てを効果的に行うには、米国が企画するタリバン排除のどんなシグナルよりも早く、先行して行わねばならない。ムシャラフ大統領はテロリストの攻撃(9.11)に唖然とし、また強迫されるようにしてアメリカの行動計画に賛成せざる得なかった。その計画でパキスタンの周辺地域における権益は投げ捨てられ、パキスタン国内の安定性も脅かされるほか、ムシャラフ大統領自身も危険な立場に置かれる事になる。ムシャラフ政権はアメリカの作戦を支持したが、民衆の世論は8%ほどのぶれはあるものの82%は反対であった。アメリカの軍事作戦により、結果としてアフガニスタンのパシュトン人権力が大幅に弱まる可能性は非常に高かった。これは明らかにパキスタンの安全保障上の利害と衝突する重大な問題であり、西の潜在的な脅威に向けてドアが開かれるようなものである。パキスタンでこのことを理解するにはパシュトン人であったり、少数派の原理主義者である必要は無い。こうした懸念はパキスタン国内で広く共有されている。 爆撃が始められてまもなく、ムシャラフはどちらともつかない態度をおおっぴらに示しはじめ、軍事行動に自制を求めた。軍や情報機関幹部ですら、軍事行動に対する支持がムシャラフ以上に一貫したものでなかった。タリバンとパキスタンの軍及び情報機関(ISI及びもっと小規模の情報機関)の間には、宗教的、民族的、そして制度的なつながりがある。こうしたタリバンとの関係からこれら機関はタリバンと早期に絶縁することに反対であった。ムシャラフには十分な時間も全ての組織を一つにまとめる力も無かった。実際のところ、組織の中にはOEFの目的と致命的に食い違った動きをしていたものもあった。具体的にはタリバンの抵抗を支援し、アフガン国内でタリバンに代わる勢力を集めようとする努力を突き崩す動きがあったのである。 3.3 空爆の第一ステップ;支点無きテコ10月末を過ぎても空爆作戦によってタリバンに協力を強要させることもできなければ、タリバンを崩壊させることもできなかった。この期間は防空施設、指揮命令系統、政治にかかわるもの、各種インフラ設備が、軍事基地と武器庫に並んで攻撃の焦点となった。「同盟の力作戦」(Operation Allied Force)の経験から明らかになったことは空爆の「テコ」は地上の「支点」を必要とする、ということだ。アフガニスタンで使えそうな地上の「支点」・・北部同盟は、初期には望ましい政治的結果をもたらさないとみなされた(それは正しい判断だった)。つまり北部同盟が一気に勝利してしまうと思われた。このようなわけで、北部同盟の戦争に対する支援は最小限のものとなった。つまり前線を維持させ、北部同盟が早急にタリバンを一掃することなくタリバンに圧力をかける、という目的を満たすというものであった。もちろん完全に信頼できる支点は米国の大規模な地上部隊のみである。しかし実際的な問題や外交上の問題からこの選択肢は少なくともこの時点では排除された。 おそらくロシアの軍事顧問のアドバイスに従ったのであろうが、北部同盟は米国がもっと空爆の支援をしない限り、守りの堅いタリバンの陣地へ攻撃を積極的に仕掛けて、部隊や資産、権力を危険にさらすようなことはしたがらなかった。10月半ばに北部同盟は最初のマザリシャリフ攻略に失敗、北部地域はこう着状態におちいった。このマザリシャリフの場合も、そして他のどこでもタリバンは反撃力を回復し、アメリカの戦略に疑問の声が高まり、その見直しが促進された。それでもなお、戦争第2週目の間はこうした批判に対する米国政府の最初の反応は北部同盟を引き入れることではなく、爆撃の激しさを全体的に高めるというものであった。この対応によって民間人犠牲者の割合も高くなり、国際的な非難が新たな局面にまで高まった。戦争は爆撃の累積的な効果と、この爆撃が招いた国際的な非難との間の競争となった。しかし、10月末までこの空爆作戦は支点なきテコと同様、効果の無いものであった。 3.3.1 戦略爆撃:遠ざかる支持作戦開始の最初の月の間に空爆はタリバンを屈服させたり崩壊させるよりも、アメリカのパートナーや同盟国諸国の世論を狼狽させることに成功した。アフガニスタン国内でもアメリカの目的に沿ったリクルータが成果を挙げていないことはっきりした。ウズベク人やタジク人の地区ですら人々の意見は、このようなやり方にどのような必要性があるのか、とアメリカの見識を疑うものだった。その他に11月はじめまでに数百人の民間人が爆撃で死亡したという主張や、爆撃作戦によって既に深刻であった難民問題が悪化している、爆撃が救援活動の妨げになっているという主張があり、主要な援助団体が爆撃の中止・中断を要求するという事態になっていた。こうした非難の合唱にパキスタンのムシャラフ大統領、国連アフガニスタン特別使節代表ブラヒミ、同盟国が好意的に見ているザヒール・シャー国王が加わった。国連の地雷除去施設の破壊、国際赤十字の配送センターへの2回の爆撃と食糧輸送車両に対する攻撃、軍病院の破壊と養老院と少年用の学校(ボーイズスクール)への誤爆、これらによって爆撃作戦のイメージは歪んだものとなった。小さな村々や住宅地域が激しい攻撃にさらされた。 ある一つの事例では狙った目標は実際に爆弾が落とされた地点から500メートル離れており、またもう一つの事例では狙った標的から0.5マイルはなれたところところに落とされた。(誤爆の問題は戦争が終わるまで続いた。新しいアフガンの暫定政権で首相となったハミド・カルザイもこうした誤爆で負傷した)(「OEF:なぜ民間人の犠牲率は高いのか(2002年1月18日PDA要約レポート)」参照) 集束爆弾(クラスター爆弾)が民間人の地区近くに使用され、子爆弾が住宅地区にばら撒かれたケースもあった。不発弾はアフガン国境を100kmも越えてパキスタン領内からも発見された。当然のことだがこうした不発弾が偶発的に爆発するという結果がもたらされた。集束爆弾に関する懸念にもう一つの事実が付け加えられた。子爆弾は米空軍が投下した人道援助用の食料パケットとほぼ同じ大きさ、同じ色だったのである。戦争のPR活動は大失敗となった。 ラムズフェルド国防長官と他のペンタゴンの報道官は一般市民への被害を非難する声に対して繰り返し、米国は付随的な被害を制限するために大きな痛みを引き受けているが、戦時では若干の付随的な被害は免れ得ない、と答えなければならなかった。例えば10月29日にラムズフェルドはレポーターに次のように語っている。 「戦争は醜い。それは苦しみと死と悲惨をもたらし、我々はそれを日々見ている。しかし明らかにしなければならない。人類史の中でどのような国も、この紛争でアメリカが成し遂げたほど一般市民の被害を回避した国は無かった。」ラムズフェルドはその弁護の中でいくつかの重要な問題を見逃している。OEFに反対する意見は正確に次のような疑問点に集中しているのだ。つまり9月11日の攻撃に対する反応は、テロ攻撃準備やテロを行う一団に焦点を狭く絞り込んだ、より限定された軍事行動・・「警察的行動」のようなものであるべきではないのか?それが幅広い戦争の形をとる必要があったのか?という点である。戦争についての解説を調査すると、大規模な軍事行動、とりわけ空爆が予期せぬ民間人の犠牲や付随的被害、そしてその他の偶発的な否定的結果をもたらしたことに驚きを表明する批評家が文字通り全くいなかったことがわかる。彼らが疑問としたことはOEFが定義するような野心的で幅広い目標が必要なのか、という点であった。そして批評家はとりわけ一般市民の地区を含める大規模な爆撃作戦を実施する必要性に疑問を呈した。そのような反対意見は「きれいな戦争」という希望、9月11日の犯人に裁きをもたらしたい、という共有された願望によって抑制されてきたのかもしれない。しかしこうした批判の声は民間の犠牲者が増え始めるに連れ、すぐに復活した。 3.4 戦略の転換・・戦争の犬達を解き放つブッシュ政権にとって最もひどい暗黒の時期は戦争が3週目から4週目を迎えた週であった。戦場での苦戦はっきりとして、報道の辛らつな発表に反映した。「タリバンは持ちこたえる;米国は彼らを打ち負かすのが困難と判断 Newsday 10月26日」ニューヨークタイムスが「戦略に不安(10月27日)」を認める一方、ガーディアン紙は「よろめく効果(10月29日)」と書き、さらに多くの不吉な報告が続いた。「米英同盟の間に亀裂広がる(11月9日)」 爆撃作戦は第2週の間に激しさを増した・・一日あたりの出撃回数はおよそ25回から90回に増えた。タリバンが初期の予測よりも力強いことが証明され、北部同盟が最初のマザリシャリフ攻略戦で失敗した後のことである。いまだタリバンを分裂して、一部を味方に組み込むという希望が残り続けていた。しかし、本当に重要な変化はアメリカが北部同盟との戦いに賭けるという決定を下したということである。この決定は10月最終週に実体となって現れた。北部同盟に立ち向かっているタリバンの陣地へB52がじゅうたん爆撃を加え、アメリカの特殊部隊が空爆と北部同盟軍の作戦を指導するという、ずっと大きな役割を引き受けたのである。11月の最初の10日間を通して、戦争の進みが遅く、民間人の被害が大きいという批判と協調するようにして、北部同盟に対する空軍の支援が増加した。1万5千ポンドもの気化爆弾(BLU-82:ビッグブルーやデイジーカッター)を使いはじめ、集束爆弾の消費を増やすことで空軍の北部同盟支援が強調された。 米空軍は北部同盟が求めていた地上の支点であることに気づいた。しかしこれは悪魔的な取引であった。この取引でアメリカは「テコ」と戦略レベルでの主導権を失うことになる。北部同盟の戦いを完全に支援するということには本質的な矛盾が2つある。
こうした事実を完全に理解していた北部同盟は、いったん彼ら自身の力でカブール占領が可能になったならば、これ以上のアメリカの援助は不要である、とアメリカを牽制する宣言を早々と行った。
4.再定義された舞台11月10日以降、タリバンが突然権力の座を離れ、異なる反タリバン各派と部族の軍閥たちがあっという間に急浮上した。こうしたことはOEFの作戦立案者達にとって予想外であった。この展開は以下の要因から生じた。1)米空軍と北部同盟地上軍の注目に値する共同作戦 2)日和見主義的な北部同盟の戦略 3)タリバンのユニークな構造と戦略 タリバンの政治・軍事的な組織・・・本質的には地方の軍隊の寄せ集め、一派閥の周囲に集まった軍閥の連合・・は強い圧力をかけられると一気に破滅的な崩壊に至る傾向がある。同様にタリバンがカブールからあわただしく撤退したり、カンダハルへ退却したりした点もこの運動の特徴を反映している。タリバンは本質的にその地域的なルーツと宗教的な方針から脱して大きくなれなかったのである。タリバンは宗教的な自警団的集団であり、「求められて」カブールと政治の世界へ入ったのであり、どんな所でも占領軍以外の形で地域に定住することはできなかった。その宗教的指導者オマルと、彼らの魂はカンダハルに残り続けていた。カンダハルへの退却は軍事的な戦術というよりもはるかに精神的な戦術であった。(付記3「タリバンの興隆と没落:タリバンの戦略と権力について」参照) 同盟軍の勝利とタリバンの崩壊はアフガンと周辺地域の戦略的な状況を状況をいくつかの方法で根本的に変えてしまうことになった。こうした変化のどれもが、長期的な安定という観点から望ましいものではない。
4.1 アフガニスタンの改造いったんアメリカの贈り物としての勝利と国家権力の座を手にした北部同盟は、たちまちアフガニスタンに法の支配と安定をもたらすことができないことを証明し始めた。新しい指導者達は時間を無駄にせず報復を行い、その報復を通して権力を握って行った。タリバンが去り、北部同盟は統一を保つ根本的な理由を失ってしまった。通常では個々の戦いで勝利した者がいれば、その勝利が戦後に行われる戦時同盟者の間での権力分配に影響を与えるものである。しかし今回の場合、北部同盟の勝利は労せずして手に入れたものだ。したがってそこには北部の軍閥が持っている相互の相対的な強さが反映されていないし、特定の個人やグループの力も反映していない。最終的な権力の分配は解決されないままとなり、火急の問題は「どのように?」という問題になる。北部同盟には4つの地理的な権力基盤がある。 1)北東部のタジク人地区。マスードグループが支配。 2)マザリシャリフを中心とした北部のウズベク人地区。アブダル・ラシッド・ドスタムが支配。 3)西部のヘラート周辺の州。タジク人軍閥のイスマイリ・ハーンが支配するパシュトン人地区。 4)アフガン中央部のハザラ地区。シーア派の指導者ムハンムド・カリム・ハリリが支配。 どのケースでも、タリバン崩壊後に北部同盟の個々の軍閥が自分の支持基盤へ殺到した。しかし軍閥は誰も、自分がほぼ支配している領域を越えてまで、堅実で強い支配力をふるっている者はいない。こうしたことは、ここのところ彼らがすばやく、広い範囲で勝利を収めたものの、まだ真の力が反映されていないという事実を意味している。 軍閥間に将来起こりうる潜在的な紛争はいくつかの要因に起因する。 1)彼らの支配地域の住民は、支配者である彼ら軍閥自身のように民族的に均一ではない。 2)はっきりと権力を行使するものが誰もいないような地域が広く存在する すでにウズベク人のドスタム将軍はタジク人軍閥とタハール州、クンドォズ州、バグラム州の支配をめぐって競合している。アフガニスタン全体、北部、南部を通して、突然に権力の配列が変わったことに対応するために民族−地域的な、部族的な、あるいは派閥的な紛争が広がりつつある。しかし、南部パシュトン人地区では変化の過程は北部のそれとは違ったものとなった。 パシュトンベルトにおいてはタリバン崩壊の影響によって政治権力や組織はばらばらに分解してしまった。つまり地方や部族の単位に縮小する方向に働いた。このことによってパシュトン人は北部に対して明らかに不利な立場に置かれるく(一時的なものにせよ)ことになった。タリバンがパシュトン人地区から逃げたとき彼らは宗教・部族のセカンドリーダーに権力を渡した。こうした者の多くは下位のパートナーとしてタリバン連合に加わったり、政治活動から隠退したような者たちで、タリバンと過去に合意に至った軍閥である。タリバン支配の結果、こうした組織とそのリーダーは相対的に弱体化していた。もっと恐ろしいパシュトン人リーダーらは国外追放された部族指導者達や、1995年以降、タリバンがこの国から追放したかつてのムジャヒディンらである。タリバンの退却とともにこうしたかつての指導者達、軍閥たちは急いで亡命の地から戻り始め、競ってかつての権力のネットワークを再構築し始めた。しかし、北部におけるこれと同じような軍閥者たちと比較すると、こうしたパシュトン人指導者の力は弱かった。つまりずっと組織が解体されていた上、権力の支持基盤から離れており、6年間の間外部の支援を拒否してきたことということためである。このグループに対する外部からの支持が今や復旧しつつある。西側はパシュトン人の王政主義者に焦点を合わせており、パキスタンはかつてのムジャヒディンに注目している。 北部では北部同盟を構成する要素、各グループへと分解し、そうした各グループは地域的、または民族的な基盤に対して影響力を強化し始めた。南部ではパシュトン人コミュニティ内のもっと小さなグループが地方の覇を競い始めた。この南部でのプロセスはパシュトン人権力の再編成とタリバン崩壊後に残された隙間を埋める最初のステップと見られている。パシュトン人の組織的な力が元に戻れば、タジク人の現状、つまり政府内での優位は深刻な挑戦を受けることになるかもしれない。 もう一つの懸念は南部・東部のパシュトン人権力再編の重要な部分が、タリバンメンバー(リーダ達すら)を吸収している、ということである。そしてこのことでパシュトン人コミュニティは米国のタリバンメンバーの処遇をめぐって米国と対立することになろう。 4.2 地域の覇者と敗者米国の軍事行動で最も大きな利益を得たのは北部同盟内のウズベク人軍閥とタジク人軍閥、とりわけアブダル・ラシッド・ドスタムとムハンムド・カッサム・ファヒム配下にあったそれぞれの軍閥達である。競合する者達がいたにもかかわらず、これらの軍閥は下記の二つを共有していた。ロシアの後援、そして西側諸国への反感である。かれらの躍進はロシアの躍進でもある。米国の望みに反してタジク人部隊はカブールを速やかに占領したが、これはコソボ紛争末期にロシアのプリシュチナ占領を思い出させた。ロシアは獲得物を確かなものとするためにすばやく動き、臨時の大使館を立ち上げ、人道援助用の物資を満載した12機の輸送機をバグラム空港へ飛ばした。11月26日のことである。これは米国がやり遂げられなかったことである。人道援助用の物資と共に少なくとも数百人の武装したロシア人要員が到着した。インド、ウズベキスタン、そしてタジキスタンも北部同盟の躍進から顕著な利益を得た。パキスタンの利益は対照的にほとんど目論見が外れた。パキスタンが支援したペシャワール代表者会議は新政府内にわずか10%を獲得しただけであった。イランにとっては結果は複合的である。アフガニスタンでロシアの役割が増すことはパキスタン同様にイランにとって良いことではないし、新政府内で国王派が伸張することも良くないことである。イランに支援されたアフガン人指導者には北部同盟に属する者もいれば、「キプロスグループ」に属する者もいるが、こうしたメンバーはボンで合意に達した内容に異議を唱えていた。アフガニスタンとボンの結果を歓迎しつつもイランのキャマル・ハラズィ外相はボン合意について「弱さ」を特記し、「幻想」に対して警告して「アフガニスタンはその前途にある重大なハードルに立ち向かっている」と予言した。 パキスタンとイランにとってアフガニスタンは安全保障上、考慮すべき重大な対象であり、双方ともにアフガニスタンにおける権力の分配について「バランスを取り直す」ことに精力的なようだ。両国にとって有利な点は、アフガンの57%の人口と文化的・集団的に密接な関係を共有している、ということである。そしてアフガニスタンの国境の65%はパキスタン、イランのいずれかと接している。OEF開始から両国はより密接にアフガニスタン政策について調整を重ねてきた。両国は現在、アフガンの戦後発展に関する合同委員会を維持している。 4.3 アフガンの不安定性の戦後の構造ポストタリバンのアフガニスタンにおける不安定な状況はいくつかの危険をはらんでいる。その危険は新しい戦略的な環境の三つの特徴の中に見ることができる。現在のアフガニスタンの国家及び地方の権力配分は国の内外の資源、利害のバランスにほとんど関係がないものだ。その代わりにOEFの副次的影響、副産物が関係している。戦争の果実に恵まれなかった地方・地域的なプレイヤーは長期的に資源を動員して、調整を強行しようとする。ポストタリバンの軍閥と民間の権力者の間のバランスでは、軍閥の方が決定的に優位である。しかし中央権力、一つのアフガン軍閥も国全体に確固とした圧倒的な支配力を行使するような状況になっておらず、いまだ独立王国の寄せ集めか相争う無法地帯のままである。ポストタリバンのアフガニスタンの状況はテロ活動を含め、互いに殺戮を重ねる紛争に発展する重大な危険を示唆している。こうした危険を回避するために二つのステップがある。1)早期にバランスの取れた国家を統合する政府を編成すること。2)大規模な不慮の衝突に備えて平和維持軍を早期配備してその活動を支援すること 目的は紛争を非軍事的な政治的プロセスに変えることである。2001年のボン会議では新政府とアフガニスタンの平和維持軍の二つが生み出されたが、いくつかの理由から双方ともに実際のところは要求を満たすものとなっていない。 4.3.1 ボン合意;国家建設、あるいはカットアンドペースト?ボンでアフガン新政府編成が成功し、米国、英国そして国連幹部らは非常に安心することになった。カブール陥落から3週間後、カンダハルのタリバンが最後の道をたどるちょうど1日前だったのである。しかし合意はアフガンの指導者の間に相当な反対意見を生み出した。そうしたアフガンの指導者達はアフガン各地で前月1ヶ月を費やして新しい権力の座を確かなものにしようと奔走していたのだった。(付記4「ボン合意の限界とアフガン暫定政権が直面している挑戦」参照)ボンで作られた暫定政権には決定的に優勢なタジク人の利害(タジク人は国防相、内相、そして外相という強力なポストを得た)とパシュトン人国王派のハミド・カルザイの利害との妥協が反映している。しかしカルザイも内閣の他のパシュトン人メンバー(カルザイよりもはるかに力が弱い)も全ての反タリバン派軍閥はおろかパシュトン人軍閥各派すら安心して指揮できるわけではなかった。 カルザイは彼自身の軍隊と呼べるような信頼できる一定規模の軍事力すら持っていない。(南部でタリバンを最後に打ち負かしたのは大半が米空軍とグル・アガの地上軍であった。グル・アガは現在そして以前もカンダハルのムジャヒディンのボスである)カルザイは米軍の軍事力に依存しており、その米軍がパシュトン人地区で続けている軍事行動、とりわけ爆撃はそのパシュトン人地区で対立を生み出しても統一のきっかけになるようなものではない。したがって、カルザイの軍事力の源と、カルザイの民族的・政治的な基盤を作る要求との間には緊張が存在する。政府内にはカルザイの地位が他のメンバーの利害と対立することがあるが、この矛盾によってカルザイの地位は弱められてしまう。 カルザイの相対的な弱さは暫定政権の弱体ぶりに対応している。政府は同盟関係ある民族、または軍閥の軍事力に依存しており、そうした軍閥や民族の大半を完全に信頼することができない。現在アフガニスタンには政府がしっかりと支配していない、最低でも6つの地元軍閥の中枢または集団が存在する。アフガニスタンで力を持った主要な集団は下記の通りである。
主として米国は国家再建ではなく、懲罰のための探査・捜査に携わっている。 アフガンの長期的な安定、政府の権威、人道的危機への救援、政権と復旧の展望、こうしたこと全ては軍事力の分権化を覆し、党派の武装解除プロセスを始めることにかかっている。このプロセスが実行されるまではカラシニコフの支配が有効であり続ける 4.3.2アフガニスタンの平和維持軍;あまりにも小規模、あまりにも遅いボン会議の代表団は圧力を受けて、アフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)の配備に合意した。軍の専門的な合意は新政府により2002年1月6日に調印されている。しかし合意された兵力は必要な治安維持任務を遂行するには小さすぎ(4500人)、着任はあまりに遅すぎた。2002年1月までには5つのアフガンの都市へ完全に展開することになっていたのだ。平和維持軍はもっと早い段階、11月半ばに北部同盟の手に都市が陥落し始める段階で重要な任務を遂行することができた。そして確かに英国は数千人の部隊を11月中旬に配備する準備を行っていたのだ。外部から大規模の治安維持部隊を配備することで、暫定政権が受ける脅威を相当程度軽減し、暴力の応酬が始まる危険を減らし、人道援助作業を容易にするといったことが可能になるはずだった。そのような兵力はまた、武装解除作業の支援、新しい国軍の訓練といったことに役立ったであろう。これらの任務に見合った能力を実現するには、アフガン政府と近隣諸国の軍隊のかなりの支援を仮定したとしても、最低で3万の高レベルな兵士が必要である。平和維持部隊は主要都市と交通の要衝となる町、各エスニックグループの軍勢の境界線、(必要であれば)人道的な危機に瀕している地区、各軍勢が混在している地区などに振り分けられたかもしれない。またこうした軍隊から緊急展開部隊(米軍に最適な仕事して任されよう)と空軍などの一部が分離されたかもしれない。 早期で大規模な平和維持軍の配備については二つの方向から反対が生じた。
4.4 ニューゲーム;ずれ始めた米国とアフガニスタンの利害タリバン崩壊はOEFの意味と文脈を劇的に変えてしまった。アフガニスタンの国内ではアメリカが望む軍事的優先順位とアフガンの現地同盟軍の優先順位が決定的に分かれ始めた。
反タリバンのパシュトン人グループにとってはタリバンとその幹部達を追及する理由は、彼らタリバンに軍の再編を強制するか、引退させるためであり、処罰したり、投獄したりするためではなく、彼らを組織として中立化するためなのである。こうした見方から、あまりに処罰を強調した姿勢をとれば部族間の紛争が長引き、パシュトン人権力の復帰を損なうという見方が存在した。(とりわけタリバン幹部達はギルザイ部族のリーダーで、デュラニ部族の主要なライバルとなる部族である。このデュラニ部族には国王とカルザイ首相が属する) 国家レベルではアフガンの指導者達が、権力を放棄したタリバンに対して対立姿勢を抑え、和解と再建を強調する反応を見せていた。新しいアフガン指導層もまた、残存するアルカイダリーダーや中核メンバーの捕縛・投獄の追求を支援したが、米国の専心ぶりとは距離を置いた。その代わりに彼らは政府の正統性確立や、共同体間の暴力を回避し、国民の人道的危機を救援するという職務に、より高い優先順位を与えた。そしてどのようなレベル、国家でも地方でも、アフガン指導者達は戦後の緊急事態と一致しないような作業に政治的・人的・物的財産を危険にさらすような考えを見せることはなかった。 アメリカの最終的な戦争目的に沿ったアフガン人の共同行動はますます部分的で、ためらいがちのものとなり、不平やごまかしが伴うものとなっていった。この傾向は国家レベルでは地方や州レベルほどではなかったが、アフガニスタンの実効権力を握る者の大半にはこのような傾向がかなり見られた。このような問題の最近の事例として次のようなものがある。
ポストタリバン期に同盟者の間に横たわる優先順位のズレは米国−アフガン同盟軍の間に最初からズレが充満していたという現実そのものなのである。しかし10月末に米国が北部同盟をより完全に支援するという決定を下したときには、(訳注:両者の)努力はまだ合致していた。この両者のまとまりによってタリバン打倒が容易となり、アフガニスタンの現在の支配者を生み出し、アルカイダをアフガン全土で捜索するより大きな自由をアメリカにもたらしたのだ。しかしタリバンの敗北とともに米国−アフガン連合の密接で対等な努力は終わった。以来アメリカはますます独力で、アフガン各地に衝撃を与えるような獰猛さをもって最終目標を追い求めてきた。しかしこのアメリカの目標追及はアフガニスタンの新しい支配者達が最も緊急の問題とみなすことがらとはなんら肯定的な関係を持たないのである。 4.4.1 調整の失敗とりわけ軍事行動の面では米軍とアフガン軍の密接な共同行動が前提となっているがゆえに、アメリカ−アフガン同盟間の優先順位の不一致が浮き彫りになった。ベトナムを含むアメリカが最近行ったどの戦争からもかけ離れた状況であるために、作業は協力を受けるという以上のものとなり、縁のないアフガンの地方兵士達に依存するものとならざる得なかった。このようにアメリカが依存を深めることにより、優先順位に食い違いがあればなおさら、アメリカの任務が成就する可能性は非常に低いものとなることは間違いなかった。問題は協力という概念それ自体にあるのではない。問題はむしろ共同、信頼、そして共同作戦といったものの基盤が一夜のうちに確立できるといった期待にあるのだ。
5.トンネルの先の光5.1 OEFの描いた軌跡OEFのもっともはっきりしている業績はタリバンを権力の座から追いやったことである。しかしこれはアルカイダネットワークを破壊するという第一目的と比較すると二次的なものである。そしてこの第一目的について言えば、アルカイダは打ち倒されたが、完璧に殲滅されたわけではないのだ。また、カブールの政権は変わったがアフガニスタンは軍事行動前と比べて今日のほうが不安定となっている。周辺地域のレベルで見ると、一つの不安定要因・・・タリバンとアルカイダの連合体に代わってもう一つの潜在的だが重大な不安定要因が現れている。動揺するアフガニスタンをめぐる周辺国の競合である。戦争によりパキスタンとその大統領は不安定な地位に置かれ、中東とカシミールの紛争が危険な高まりを見せている。最後に軍事行動、特に空爆と戦後の捕虜の扱いはアラブ・イスラム圏一帯の反米感情を増大させることになった。多くの観測筋によれば軍事行動のさまざまな影響はブッシュ政権がそんなことはない、と否定している戦争の印象と結びつけられている。つまりアラブとムスリムの利益への攻撃と。 要約する。対テロ軍事行動としては、OEFは大きな足跡を残した。確かに偶然の結果がその意図を覆い隠すことになった。 地域の安定の代わりにOEFはどれほどになるかわからない治安維持任務を後に残した。ブッシュ政権は今では相当量の戦略的資源を追加投入してこの任務に着手することを提案している。とりわけはっきりとした軍事プレゼンス、援助、そして中央アジアと南アジアでの積極策を通して。ポール・ウォルフォウィッツ米国防副長官が、米国は二度とこの地域の国々のことを忘れたりしないだろう、と約束するときに心中に抱いているものは以上のことである。カルザイ首相とムシャラフ大統領、そしてイスラム・カリーモフ(訳注:ウズベキスタン大統領)はこの約束に数10億ドルを思い浮かべているかもしれない。ウォルフォウィッツ副国防大臣は基地(base)を想定している。 アメリカの中央アジアへの影響力は年々静かに増している一方で、OEF以後、軍事面での伸張はロシア、中国の議論を呼ぶ議題となった。その議論は地域のイスラム主義者の運動とは無関係である。これはビン・ラディンには理解できない皮肉である。イスラム圏における米国の軍事的影響に対する彼らのジハードは正しくもそうした米国の影響が拡張し、事態が悪化することを狙ってきた。しかし我々は以前のようなことを続けて彼らを思いとどまらせようと期待してはならないだろう。皮肉になるぐらい、彼らは制止を免れてしまう。(They are as immune to deterrence as they are to irony.) ラムズフェルド国防長官はさらに別の15カ国とテロ追求のために部隊を配備するつもりがあることを発表している。しかしOEFが描いた方法と道筋をまねれば、米国は内戦、民族紛争、地域間紛争へのチケットを手にする羽目になるであろう。そうした紛争はテロリズムの問題よりもずっと重い。(既にアフガニスタン、カシミール、イスラエルではそのような事例になっている)このように複雑な状況では、米国の軍事力をひたすら行使しても偶然で混沌とした結果しか生み出されないに違いない。さらにそのようなことをすれば、地方での紛争において米国をゲリラ戦争に巻き込み、もともとは意図していなかったような議論の多い方法で戦争を行うことになるだろう。 そうした戦争では米国は敵と交戦することもないかもしれないが、時にそのような敵は打ち負かすことができないものだ。しかし他の国々はより活発になった米国に対抗し、自国の影響力を取り戻すためにますますバランスを取ろうとするだろう。 一方でOEFモデルは米国に対して戦略を拡張しすぎることから生じる問題を突きつけるだろう。2年間の計画済みの予算が不足し、先々の予算の余剰が急速に減りつつあるにもかかわらず、防衛支出を急速に増やすという計画の中にすでにこの問題の芽が証拠として現れている。2003年の国防費は3790億ドルで計上された。30%のインフレ率を加味してもその合計支出は1998年の予算を上回り、冷戦期1980年代の平均支出の93%並みである。本当の防衛支出のさらなる増大はこの10年間に実現しそうである。しかし予算委員会によると、向こう10年間の計画済みの予算の中で、予算の余剰は昨年から71%減少しているのだ。 5.2 便宜主義的な勝利OEFは戦略的選択が軍の便宜主義的な判断で決定されたことによって特徴付けられる。例えば北部同盟を誘い込むといった選択にそれは現れている。戦時におけるこの米国の意思決定の特徴によって、偶然で計画にない結果がもたらされることになった。米国と北部同盟の関係は両者とも互いに楽観的な見方で支配されていた。その作戦上の原則は「敵の敵は自分にとって有用である」というものだった。もちろん戦術上の同盟は戦時にあって異常なことではない。しかし今回の場合は米国の依存度、そして米国と戦場のパートナーの間には幅広い目的、利害をめぐる食い違いが大きく、この違いゆえにアメリカの勝利は適切なものにも完璧なものにもなりえないことが確実となった。異常と言えるほど共通点の無いアフガンの地元パートナーととりもつその場限りの信頼関係は「新しい戦争」の本質的な特徴を告げている。アフガニスタンで見られた戦争のやり方の大半がそうであったように、これもまた全く新しいわけではない。1999年の「同盟の力作戦(Operation Allied Force)」で、アメリカとコソボ解放軍との共同行動に先例を見て取ることができる。しかしアフガニスタンの場合は支配者が去った。このことはもっと以前の地元軍隊を使用した先例を思い起こさせる・・・1970年末から1980年代にかけて米国はアフガンのムジャヒディンと協力していた。そんなわけでいくつかの点で米国の方針は1周して戻ってきたわけだ。もちろん、今回は残留してこの地にかかわりを続け、今回のような共同行動の結果を警備するわけだが、先述したようにこの解決策にはそれ自体に否定的な結果が伴うのである。 5.3 優位に立つ国防省北部同盟を誘い込むという決断は戦争の第2週目に下された。アナリストの中にはこの結論は、国務省と国防省の間にあった見解の対立という政権内の議論を解消するためになされたと見る者もいる。実際には両機関の不一致はアフガニスタンの戦後の政治的調整を実施する重要性、安定性に関する否定的な影響への警戒、同盟国パートナー、特にパキスタンと他のイスラム国の戦略的関心への注意を巡るものであった。国防省は国務省よりも北部同盟を誘い入れることに積極的で、タリバンを分裂させることに力を入れない傾向があった。国防省はまた、国務省が政治的に必要とみなすペースに爆撃の歩調を合わせることに気乗りがしなかった。おそらくは戦争中のターニングポイントでは国防省の見解が優位な形で進められた。つまりタリバン崩壊をむしろ単純な問題として位置づけるものであった。国務省と国防省のいさかいはよく知られた古い話であるが本当かもしれない・・・しかし何をなすべきだったのか?軽率な結論としては、最初の1ヶ月の軍事作戦中に政治的・外交的考慮が軍事的な考慮を不必要なまでに優先してしてまい、戦争の妨げになった、というものである。しかし戦争について長期的な観点に立てば、次のような反対の見方のほうが真実であろう。9月11日のすぐ後で、不必要に野心的で複雑な軍事行動に走れば、適切な政治的準備が不可能になり、軍事行動の欠点を助長することになる。 戦争史の編纂者はブッシュ政権が9月11日の攻撃に対して25日間待機することで思慮分別と抑制を見せたととらえる。問題の軍事行動が限定されたものになっていたならば、確かにこれは真実であろう。しかし歴史的基準からすると3週間半の時間は、ロシア、中国近隣の不安定な地方で大規模な軍事行動を始める前の休止期間としては、長い時間ではない。アルカイダネットワークに対して迅速で強力な対抗措置を取ることは必要だが、アフガニスタンの体制転覆を急ぐ必要は無かった。また結果が示すように、重要である安定性や同盟関係、そして人道的な利益を犠牲にすることなく実施することも可能だった。しかし二つの任務、アルカイダ殲滅とアフガニスタンの安定化は互いに関係しあっている。適切なスケジュールに沿って両方の目的を同時に追及すべきであったし、そうすることが可能であった。 一方で、同盟と安定への懸念ゆえに最初の段階で、そのような戦争のやり方を強制されたのだ、と言うことも公平である。しかし、彼らは既に事実に服従する位置からそのようにした・・・つまり戦争のワゴンに追いついて、もっとバランスの取れた目標に向けて進めようとする位置からそうしたのである。こうしたわけで不可能な任務であることが証明された。戦場の緊急性ともっと幅の広い戦略的な関心は、制約を受けた時間内では十分な調整がとれない。このジレンマの結果が11月半ばの戦争のターニングポイント前後において明らかになった。11月10日以前は軍事行動は散漫にしか進んでいないことが明らかであった。そして突然の「戻ってきた勝利」。重要な利害と安定面での懸念を放棄することで達成したこの勝利の後で明白になったのは、この単純化された行動はアメリカの勝利を後々悩ますことになる、ということであった。 5.4 単純なリアリズム国務省と国防省の対立以上に重要なことは両者がその活動に際して前提とした政策枠組みである。ブッシュ政権が現在の危機に持ち込んだ概念上の装置は、単純なリアリズムと、軍事力が政治的解決策として有用だ、という強い信仰の組み合わせであった。この政権の政策枠組みと一致するということは「人道的利益」、国際的な法機構、安定性にかかわる課題と活動(平和維持活動を含む)、国家建設の企画を軽視することであった。特にOEFに関する限り、ブッシュ政権は今まで同様にテロ支援における国家の役割を協調し、さらに新しく無法行為を制裁する措置として「政権の除去」を強調した。 この政権の安全保障政策の観点からはテロの問題は直接解決をかなりの程度承認することになる。つまり攻撃を仕掛ける者に対して、単純に力の許す限りすばやく決定的に行動すれば、そうした国に対して他の国々も調子を合わせるか寛容的になる、というものである。より大きな目的は「沼の水を抜いて」(悪者を取り除いて)、将来の洪水を防ぐというものである。この枠組みの中では、すばやく大規模な軍事行動を起こすことで考えられる否定的な、偶発的な反響、付随的被害、安定が損なわれることなどは全く対処が容易な事柄として扱われる。国家の利害を守るために決定的に武力を適用することと、そのような行為がおきるという想像上の抑止効果は十分に効果を発揮すると予測されている。残りの不安定材料は平時に軍の活動を拡大することで何とか管理できるとされる。最後の公理には、戦争に続いてどのような問題がおきようとも、米国は「エスカレーション優位(escalation dominance)」のたぐいを達成しうる、という自信が表れている。 政権の政策枠組みは、おそらく軽率な軍事行動や野心的な戦争目的を追求するような、(訳注:視野の狭い)一種のトンネル的ビジョンに導く。この政策枠組みは、OEFの目的に関して言えば、タリバンを殲滅対象として標的にし、この方針を推し進めることで発生する影響が過小評価されることになった。戦争の戦略については、この政策枠組みによってパキスタンを従わせる力、すなわちパキスタンを自らの目的にすばやく、確実に従わせるアメリカの力を過大評価することにつながった。そして、戦争の中盤では、こうした政策枠組みによって、北部同盟を呼び込むリスクを過小評価することになった。戦争全体を通して見ると、この政策枠組みによってアメリカは戦略爆撃作戦の否定的反響、戦後のカオスの問題、アフガン社会を安定させ回復させる処置の重要性、こういった事柄を軽視するということになった。 政府は国家に焦点を当て、その軍事力の構造にふさわしい国家として振る舞い、適切な軍事力行使に関する一般的な概念にもふさわしい振る舞いをした。この軍事力行使には力の決定的な行使と伝統的な抑止の概念が含まれる。しかし政府のパラダイムにより、準国家的、超国家的なダイナミクスに対する注意は減らされてしまった。新しいテロリズムに関する答えはこうした準国家的、超国家的な領域に存在するのであるが。 テロリスト達はその行動を封じることが難しいことで悪名高い。特にさまざまな自殺行為については。腹の底からの憎悪や黙示録的ヴィジョンに駆り立てられた社会的な運動体についても同じことが言える。しかし国家はより制止に従いやすい。少なくとも通常の現実主義・・・(その政府が)国家を統一された合理的な行為者として取り扱うような合理主義を持ち合わせいるならば。アルカイダのような組織が居を構えているような脆弱な準国家では、不幸にもこの公理の適用が制限されてしまう。 いずれにせよ「国を超えたテロ組織が生き残って成功を収めるためには国家が必要である」、という提案は端的に間違っている。確かに9月11日のテロリスト分子は、フロリダの飛行学校よりアフガニスタンのアルカイダ基地のほうに有用性の面から依存していた。 ただ、アルカイダの誕生にとって最も重要だったのは環境であった。つまり20年に及ぶアフガニスタンの内戦、そしてそこから生まれたカラシニコフ文化である。外部の権力、特にソビエト、アメリカ、パキスタンとサウジアラビアはこの恐ろしいドラマの中で重要な役割を演じたけれども、このような結果を期待したものはいなかった。偶然の産物だったのだ。同様に我々が最も懸念するアルカイダのテロ活動とタリバンとの関係は周辺的なものである。両者の関係はタリバン準国家の合理性を証明している、というよりもタリバンの弱点と機能不全を証明している。 新しいテロリズムに対応するために、テロを一部分に含む「問題の一群」に注意を向けなおすべきである。そうした問題には脆弱な国家、戦争で荒れ果てた社会、国内のコミュナルな、エスニックな紛争、そして関連する周辺国家の競合関係などが含まれる。調整ステップの重要性を強調すべきだろう。つまり対立の緩和、人道的救援、あらゆる種類の発展支援といったことである。そしてこうした新しいテロへの対応をとるならば、我々は誤った軍事力の行使の問題に敏感になるはずである。しかしこうした問題と必要な事柄は、現実的なトンネルビジョンの視野から大幅にはみ出してしまうのである。 5.5 パンと爆弾11月6日、上院の外交委員会でリチャード・ハース(国務省の政策立案理事;the director of Policy Planning for the State Department)はアフガンの戦後再建に対して米国の関与を厳しく制限すると宣誓した。他の国々が大半の仕事をやり大半の資金を提供するだろう、と彼は主張した。なぜならアメリカは軍事行動の面で「世界で最も大きな取り分」をとったからだ。「我々はアフガニスタンにおいて、目標のうち基礎的な部分を実現することを望んでおり、まだ未完成のままでよい。我々がこの数年間の間やってきたようなことをする必要はない。他方で我々は、アフガン人が先々まで憤慨したり、抵抗するような差し出がましい国家建設にかかわることを望まない。」しかしハースの観点と優先順序は逆転している。まず国家建設は簡単に下請けに出すには重要すぎることが明らかである。第二にアフガニスタンに軍事・非軍事の両面にわたって安定をもたらすということは、アフガニスタンを統合するということであって、二分割するということではない。もちろんそれはアフガニスタン国民の意思に反していることではない。最後にアメリカをアフガン人の怒りの対象にしてしまうような原因は国家建設ではない。もっと深刻な原因は爆撃作戦の残した影響であり、この影響は最低でも1千人以上のアフガン民間人に及んでおり、おそらくはそれとは別に3千人の死者がアフガンの人道的危機で亡くなった人々に加えられる。そして確かな事実として50万人の新しい難民と被災民がこの爆撃作戦から生まれたのである。この爆撃により残された印象を逆転させるような処置がアメリカの戦後の優先順位のトップにおかなければならないだろう。 カンダハル郊外の住民、ジュマ・カーン(Juma Khan)は大家族のうち15人をアメリカの空襲で失った。彼にとって計算は簡単である。「私を爆撃するのが誰だろうと、それは私の敵です。」 一般市民の爆撃犠牲者に対する驚愕は、ハジ・ムハンムド・ザーマンのような親西欧派の軍閥リーダーにまで及んでいる。彼は東部シューラの軍指揮官である。ザーマンの部隊はトラ ボラのアルカイダキャンプに対する作戦の主要を担っていた。近くの村々で誤爆によって、35人から200人の民間人が殺されたというさまざまな報告があり、その後に公式な否定の発表があったが、ザーマンはこのような公式発表を信じなかった。 「なぜ彼らは市民を攻撃するのか?これは非常に悪いことだ。何百人もの人々が殺されたり、負傷した。人間に対する犯罪のようなものだ。私達は人間ではないのか?」ザーマンの感覚はアメリカの目的からずれているが、こうした感覚がアフガン人のOEF理解なのである。ルイカ(Ruika)のようにもっと率直に次のような感想を述べている。彼女はカンダハル郊外に住んでいるが、5人の子供を空襲で失った。 「私達は平和を望んでいますが、不可能なことです。最初に私達はロシアと戦争をしました。それからタリバンがやってきて、今度はアメリカが私達を何度も攻撃します。私は祈っています。私達に与えられた苦しみ(trouble)が、アメリカ人自身に降りかかりますように。私はアメリカ人を憎んでいるのです。」 こうした反応は爆撃作戦が与えた長期的影響として考慮されねばならない。しかし国家を中心に考えるリアリズムの論理ではこうした人々は実質的に消えて見えなくなってしまうのである。こうした人々は国家(nation-state)と呼ばれるブラックボックスの中に封印されてしまう。そうした国家は伝統的な抑止力と決定的な軍事力によって規律を守らせることができるというのだ。9月11日の事件でこの頼もしい神話の影響力は永遠に終わってしまったはずである。攻撃者の本質は準国家(subnational)に起源をもち、その特徴は多国籍風(transnational)だった。腹の底からの憎悪に彼らは突き動かされたのであって、国家の力によってなどではない。彼らを特徴付けるものが何かあるとすれば、それは国家と国際システムの隙間で生き、育つ能力である。 テロリストに対抗する効果的な行動は、軍事的・非軍事的手段のユニークな共同作用(synergy)に依存したものとになる。後者の非軍事的手段には外交、人道主義、発展、平和構築、そして法執行の努力などが含まれる。 この軍事・非軍事 両側面の共同作業による対応とは次のようなものである。非軍事面での対応は、脅威の発生を軍事的努力で何とかできるレベルに押さえ込むことに役立つ。そして今度は軍事的努力が非軍事的手段を保障し、非軍事面の活動が継続できる状況を維持することを助けるわけだ。最終的な狙いと成功を測る尺度は自立した安定性・・・テロリズムをもらさないような安定性である。 重要なのは国家間の安定性が損なわれるような方法で我々はテロリズムと戦ってはならない、ということである。国家間で戦争が起こる危険は様々である。テロとの戦い方を誤ると、単純に一種類の問題がもう一つの問題に変わるだけで、テロ対策の基盤も掘り崩されてしまう。国際的な安定を維持するには複数の国々の問題を解決する際に、ある一国(あるいは同盟国)の独占的な利害や力関係から切り離して行うことが求められる。また国際的な事件で武力に訴えることは厳しく制限することも求められる。(紛争の)片方の側に味方している場合や、支持基盤が国際的に見て狭い場合は特にそのような自制が求められる。この制約を理由にこうした対応をとらないままでいれば、戦争勃発の閾値が低くなり、結局(テロ)抑止の負担が増すことになる。 OEFが失敗した面は、調整、バランスをとること、ゆっくりと軍事・非軍事の両面からの対応すること、片寄ってはいても共同歩調をとりながら主導権をとる、といったことであった。そしてその結果はアフガニスタン、その他のいくつかの国々のさらなる不安定化であった。 5.6 平和の霧「砂漠の嵐作戦(Operations Desert Storm)」、「同盟の力作戦(Allied Force)」そして「不屈の自由作戦(Enduring Freedom」が示していることはアメリカがますますベトナムの「泥沼」のような問題を乗り越える力が強くなっているということである。この力は次のような点に関係している。つまり決定的な武力をすばやく使用する点、代理戦争の戦士達への依存、孤立した戦闘、比較的弱く孤立した敵、競争相手となる超大国の不在、そしてメディアの論調を効果的に作り上げること、といったことである。また新しい技術的な能力によって米軍が戦場を確認し、軍隊の位置を特定して標的を攻撃することが以前よりも正確になった点も重要である。アメリカは、最近の戦場で経験を積むことで戦時の信頼性を増したかもしれない。しかしベトナムスタイルの「泥沼」以上の道を進む懸念はさらに増している。第一次大戦の経験が示唆している。軍の協定の組み合わせ、マイナーな戦争、植民地を巡る競争に多数の干渉、そして軍拡競争、こうしたことが第一次世界大戦以前に発生しており、こうしたことが異なる種類の泥沼(窮地)を構成する。つまり自己規定、または 新興勢力(a self-constituting or emergent one)である。この第一次大戦の泥沼は境界線がはっきりしていなかった。破局のポイントに至る前はほとんど事態の進展がなく、その後で突然全ての参加者を飲み込んだのである。事件を引き起こしたのは国家が支援したテロであった。その事件にはセルビア、オーストリア−ハンガリーが関連しており、そこからさらに15カ国が戦争に引き込まれた。災厄の結果は1千5百万人の死者で、戦争が起きる前の期間を含めれば40年間にもなった。そして戦争の過程のどの段階でも、最終段階を除いては関連各国が何とかできるように見えた。彼らは自信を持って進んだが、彼らの軍事的主導権をめぐる相互作用が累積し、そのように累積した影響についてリアルな自覚がなかった。こうした現実は頼りない覆いに包まれていたのである。これが平和の霧とでも呼ぶべきものである。 第一次大戦の例は国家が世界に進出する際はどんなに注意しても十分とはいえない、ということを示唆している。米国はベトナムでの失敗を経験しているのだ。世界に進出する際にどのように行うか注意する、という点も重要なのである。こうした提案は国の首脳陣にとって気の重い挑戦となり、軍事行動の方が明快に見えても抑制しなければらないという調整を提起することである。しかしこの挑戦に応じることは、悪魔を厳しく追及するという事態を想定してみれば、決して困難ではないであろう。 |