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避難民達はトラックの積荷と一緒にながれこんでくる。はだしの子供達は、手すりからぶら下がるか、寒さを避けて両親に身を寄せている。100人以上の人々が車にぎっしりと詰め込まれ、人間のピラミッドのように積み重なり、車がキャンプのゲートを通り過ぎると大きく揺れた。ほこりの中を、絶望に打ちひしがれて、村人達は彼らを待ち構えている新しい生活を見つめた。そして、静かに車から這い降りた。
彼らは故郷で彼らを苦しめた飢えから逃れるために、この難民キャンプに保護を求めてやって来た。飢饉は戦争で荒れ果てたアフガニスタンの辺境の地に忍び寄り、厳しい冬と2度の不作の夏で既に弱っている人々を脅かしている。100万人以上が「餓死の危機に面している」、と国連は語っている。孤立し、傷ついたアフガニスタン人は「崖っぷちにいる」にもかかわらず、ほとんど注目されていない、と国連は警告している。まだ駆け出しのタリバン政府にたいする国連の経済制裁に見られるような政治的策略の背景こそが、アジアの中心における人道的な大災厄の原因である。この国の220万人を巻き込んだ飢饉という幽霊はアフリカの飢餓状況とは異なる。アフリカの飢饉ではくぼんだ肌と骨が突き出た裸の子供達や半裸の大人たちの印象がつきまとう。ここでは寒さと保守的な伝統と政府の勅令によってアフガン人はゆるい服、毛布やショールやテントのようなブルカ(アフガン女性が着用を義務付けられている)を身にまとい、その服によって彼らの悪化しつつある体調は隠されている。たっぷりとした衣服の背後で、多くのアフガン人は衰弱し、栄養不良になりつつある。
干ばつはほぼ全人口の半数に影響を与え、300万が「危機的状況」にある、と国連は語る。
歴史上の他の飢饉と同様で、今回の初期の警告を見過すことはできない。日常生活の記録(訳注:living memory)によるとこのひどい干ばつによって河床は干上がり、麦畑は乾ききり、果樹園はしなびて、家畜の大半は死んだ。何千もの人々がその後に続くだろう。犠牲者の最初の第一波は既に埋葬された。ヘラート郊外のMaslakhキャンプで何百人もが死んだ。今や動物達は一掃され、この開けた平原には死に行くものとしては人間だけが残されている。
毎朝避難民達の嘆き悲しむ声が、Maslakhのテント村の影のまにあわせの墓場から漏れ聞こえてくる。子どもを亡くした大人たちの泣き声である。「すべてアラーの御意志です、寒さも、飢えも」、Baghi Kudusは語る。かれは5歳の娘、Sanoberの遺体を青いブランケットに包んで、家族が掘った真新しい墓に運んだ。「まったく私たちは信じられない運命に襲われました。」彼は埃っぽい墓地をサンダルを引きづるように歩きながら暗い声で話した。彼の娘は数時間前に亡くなり、冷たい風の中で青ざめていった。今や彼女は、彼女よりも先に亡くなった500人を超える子どもや大人たちの墓石に囲まれている。隣りの5つの墓は同じテントで暮らした家族のものだった。彼らは数日前までに全員亡くなった。今日この日もキャンプでは4人の子どもが死んだ。真冬の最も厳しい晩には100人以上の子どもが凍死した。外国の援助団体はさらに毛布と食料もって駆けつけようとしたが、緊急援助物資が早く届けば届くほど、困窮を訴えるもっと多くの人が援助団体に押し寄せる。道で物乞いするために痩せようとするものや、外国援助の寛大さにすがる者もいる。「飢えで我々はおかしくなってしまった。」Zaman Naderは言う。彼は25歳の羊飼いで、先週キャンプに到着した。「私の父は先月飢えと渇水と寒さで死んだ。」「父は何かしゃべることすらできなかった」例外は若い息子に向けて死を希望する言葉だけであった。「この場所から出て行きなさい」
それで彼はトルクメニスタンとの国境に近いkhosk-e-chawchalの村(Badghis地方)を出る人々と一緒になって出発した。「もしもあと二日留まったら、皆死んでしまっただろう。」Naderは取り残されたことを想像して顔をこわばらせながら言った。多くの村人が10年間に国内で2度、難民となった。それは20年にわたる紛争の遺産である。紛争は1979年のソビエト侵攻から始まり、1989年ソビエト撤退後に続いた内戦とカオスの中で最高潮に達した。過激主義者であるタリバンは1996年に国内の大半の地域において権力地盤を固め、治安を少々と、政治的孤立/経済の悪化をもたらした。
アフガン北部の地方では戦闘と渇水のコンビネーションにより20万人がパキスタンに押し出された。もう10万人は戦闘の激しい、中部・山岳地帯から流れ込んだ。この地方はタリバンが今月破壊したバーミアンの仏像の周辺地域である。
ここヘラートは既に孤立しているアフガニスタンの中でも最も近づきにくい地方で、10万人がキャンプに詰め込まれている。しかもヘラートへやってくる避難民は日々数百人づつ増えている。Badghis・西部地方からの難民は外国の援助団体が同地方に存在しないため、更に悪い状況となっていた。外国援助団体は同地方で昨年7人の職員が殺されて以来、この地方から離れている。現在数千人が村を捨てて、ひざまで達する雪の中をしばしば命を賭けて通り抜けてくる。職員達はこの10年の間に隣国のパキスタン・イランに流出した4百万人に加えて、70万人ほどの人々が移住したと指摘している。その人数は昨年から勢いを増している。人数はコントロールできず、容易に2倍、3倍に膨れ上がり、食料不足が悪化した上、雪解けによってもっと孤立していた地域の道が通行可能になりつつある。「この流れをとめる方法は無い・・・彼らが死んでそれ以上動けなくなるまでは」アフガンの援助調停官・スポークスマンであるStephane Bankerは言う。「人々はそう長くは持ちこたえられないだろう。死ぬか、助かるために大勢で移動するしかない。」
先週のある朝、Abdul Kaderはきしみ声をあげるロシア製10トントラックを運転して、ポケットの中に折りたたまれたリストにある27家族・147人の村人を後ろの荷台にあふれかえるほど積み込んでMaslakhキャンプに入った。彼が北西部への輸送から積荷をカラにして戻る途中で難民達は彼に合図をして引きとめ、乗せてくれと懇願したのだった。男達、女達、子供達は家畜が死に、餓えて水もなく悲嘆にくれていた。Kaderは彼らに乗れ、と合図した。曲がりくねった道はでこぼこで、まるで「ロバの背中に乗っているよう」であったが、その300キロメートルの道中彼らはうずくまっていた。Kaderはヘアピンカーブで彼の乗客が落ちやしないかと恐れた。ついに運転手がキャンプに車を乗り入れると、疲れきった乗客はぼうっとした状態でトラックから降りて、彼らより先についていた何千という人々の光景に圧倒された。誇りまみれのターバンをした屈強な男達が後ろの荷台から沢山の薪を運びおろし、それからベールをかぶった女性、子供達が下りるのを手伝った。最後に彼らは座り込んで、誰かが助けに来てくれるのを待った。年老いた女性が懇願した。「何か食べるものを下さい。私たちは皆でこのようにやって来ましたが、空腹なのです。」(訳注:彼らの村では)動物が死んだ後、次に人々が死んだ。おそらく70人か80人が過去3ヶ月に飢えと渇き、マラリアで死んだ。今や彼らは結核で死ぬ。2歳のSadya Samadはトラックがキャンプに到着する前に死んだ。「あの子は寒さで泣いていて、私が暖めようと腕に抱いていた。」Mohammed Samadは言う。「私の腕の中で死んだのです。」
悲痛な出発の後で、帰郷の見込みはほとんどないように思える。「戻っても何も無いのです」Samadは落胆して語る。深くしわの刻まれた彼の顔に深い悲しみが浮かんだ。「私は帰りません」
彼らの移住の苦痛が明らかになればなるほど、キャンプでの彼らの将来は厳しいものとなる。毛布,薬、テントはあるだろうがキャンプは吹きさらしの空き地で、人々は便所の前や食料配給に列を作って並ぶ。間に合わせの市場があり、そこは長期間滞在している住民達で込合っている。彼らは太陽電池や埃まみれの大理石や使い古しの靴や岩塩といった乏しい商品の傍らにすわっている。
数家族が一つのテントに詰め込まれている。それでも先を予想できる家となるだろう。何故なら帰郷して再建をするよりも土地を放棄して故郷を捨てる方が容易だからだ。
2年の干ばつの後で、農民達は残してくるものを何も持っていなかった。彼らは今、春の種まきの季節を思い起こしては悲しみ、このキャンプで後1年は自分を責めるだろう。「これらの人々は家と村に何も持っていない。」とWFPの地域担当官・Mike Sackettは国連のターボプロップ機を見つめながら言った。かれは特にひどい耕作地を視察した後、その飛行機でアフガニスタンの山脈を越えて来たのだった。「我々は食料を集めてそうした村にまわさなければならない。誰も村を去りたいとは思わないし、我々が十分な食料を手当てできれば状況を安定させられる。我々は50万人ではなく、このMaslakhキャンプの10万人で食い止めたいと思っている。損害を限度内にするための活動がこれだ」
しかし食糧援助には費用がかかり、外国のドナーはタリバンのアフガニスタンに疲労感を増している。タリバンの議論の多いイスラム原理主義は大半のイスラム諸国及び西側のドナー国の反感を招いた。食料寄付の80%がアメリカから荷積みされた余剰小麦、ヨーロッパ諸国から運ばれた補給品である。カナダは先月、緊急援助金130万カナダドルを毛布とプラスチックテントと衣服用に提供することを表明した。これは1998年以来アフガンへの人道援助額(年間)として最高額である。
国連は2001年の人道援助の希望額をほんの数ヶ月前に見積もった3億4300万ドルから3億8000万ドルに改定することを余儀なくされた。昨年は3億3千万ドルの支援呼びかけに対して、かろうじて目標の半分まで集まったが、国連とその他援助機関は大幅に計画を縮小することを強いられた。隣接するパキスタンを担当するカナダの高等弁務官・Ferry de Kerckhoveはヘラートのキャンプを先月訪れて「ぞっとするような状況」を報告した。彼が強調した点はタリバンの怒りをかおうとも、アフガニスタン人の状況をはっきりと調査することが必要である、という点であった。(オタワはタリバンと正式な外交関係を持っていない)「ドナー国がタリバンにどのような意見を持っていようが、彼らがなすこと全てに対して我々が嫌悪しようが、国際社会はアフガニスタンの人々を支援する以外に選択は無い。」と彼は語った。カナダのCICA「Canadian International Development Agency (カナダ国際開発機構)」で人道援助を担当しているHunter Mcgillは「オタワはこの干ばつについてをしっかりと注視している」と言う。しかし彼はタリバンが内戦やバーミアンの大仏破壊の宗教的勅令といったことにかまけて、(干ばつ等に対して)何も活動をしないとして嘆いている。「どうかタリバンのふるまいを理由にしてアフガンの人々を犠牲にしないで下さい」Sackettは言う。「危機は続くでしょう」
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