• 内戦概況(〜2002夏)

〜2001年9月

 アフガニスタンの内戦は1979年の旧ソ連・軍事侵攻より本格化した。内戦は以来20年以上継続している。タリバンはこの長い内戦の歴史の中では、94年に登場した新興勢力であった。タリバンは2001年までに国土の95%以上と主要都市を掌握しており、事実上、アフガニスタン全土の支配を確立していた。2001年11月のタリバン政権崩壊までアフガニスタンで続いていた紛争はこのタリバンと、北部同盟と呼ばれる反タリバン連合との戦争であった。

 

〜2002年8月

 2001年9月11日、アメリカ国内の国際貿易センタービル、国防総省等に対してハイジャック機を使った自爆テロが行われ、民間人死者を含む数千人の死者が出るという、大惨事が発生した。アメリカはこの事件の主犯をタリバンがアフガン国内に保護しているオサマ・ビン・ラディンとその組織「アル・カイダ」の犯行であると断定、オサマ・ビン・ラディンらの無条件引き渡しとアルカイダ関連施設への査察をタリバンに要求、最終的にタリバンはこれを拒否した。
  2001年10月8日、アフガニスタンへの攻撃を開始した。この9月11日の事件に先立つ2001年9月9日に北部同盟の中心的リーダ、長年タジク人主体のイスラム協会の軍事指導者であったアハマド・シャー・マスードがジャーナリストを装ったアラブ人により自爆テロを受けて死亡している。
 2001年10月の攻撃開始以来、アメリカは標的をアルカイダのみならずタリバンに拡大して、アフガン全土に集中的な空漠を展開した。この間、タリバンと敵対していた北部同盟の支援は極めて限定的なものであった。
  11月にいたるまで予想外にタリバンは空漠に耐え、10月半ば、北部同盟によるマザリシャリフ攻略が失敗、米軍と北部同盟が互いに単独ではタリバン打倒が不可能であることがはっきりとしてきた。同時にアメリカの激しい空漠はタリバンの軍事関連使節のみならず、大都市、ダムや発電所、病院といった各種の民間インフラ施設にも向けられ、多くのアフガン人の民間人犠牲者が続出、世論の厳しい批判を受けることになった。
  ※タリバンの軍事施設はソ連占領期時代に作られたものが中心となっているが、こうした施設はソ連が保安上の理由から大都市の市街地に作られていた。こうした施設を狙った爆撃は必然的に民間人居住区に被害を出すことになった。同時に地上支援がない空爆となったため、地上の要員がレーザー誘導するミサイルではなく、より命中精度の低いGPS誘導ミサイルが多用され、コソボ/ユーゴ空爆よりもはるかに多くの誤爆を招くことになった
 11月、アメリカは本格的な北部同盟との共闘を決定、米特殊部隊のてこ入れを受けた北部同盟の地上軍と米空軍という組み合わせでの共同作戦を開始した。11月10日、北部主要都市マザリシャリフが陥落、以後雪崩をうつようにタリバンは敗退を重ねる。11月11日、中部地方バーミアン、11月12日西部の主要都市ヘラートが相次いで陥落、同日12日、タリバンはカブールより撤退、翌13日に北部同盟がカブールを掌握。続く11月24日、北部クンドォズ陥落、多数のタリバン兵が投降、12月6日、ついにオマル師がカンダハル撤退を言明、この時点で北部同盟が全土掌握を完了した。
しかし、アメリカが主要な目的としていたオサマビンラディンを含むアルカイダ幹部とタリバン首脳部全員の捕縛はほとんど成功していない。3月2日、アフガニスタン東部パクティア洲で、同地域の山岳部に潜んでいるとされたオサマビンラディン捕縛のための作戦を展開、現地北部同盟軍との同盟軍はアルカイダ兵ら300人殺害を果たしたが、主な幹部の捕縛には失敗した。
 米軍/北部同盟地上軍がタリバンを圧倒した後、北部同盟内部で本格的な内部対立・抗争が始まった。同時に北部パシュトン人へのウズベク人を中心とする武装グループ、軍閥による迫害が始まった。(アフガン全土では多数派民族となるパシュトン人も北部では少数派となってしまう。彼らはかつてタリバンに味方したという名目で迫害の標的となっている)北部でも西部でも、南部でも軍閥間の小競り合い、強盗と化した武装グループの跳梁といった治安の悪化が報告されはじめ、かねてより懸念されていたかつての内戦の復活が現実味を帯びはじめている。カルザイ中央政府は直轄の国軍設立と武装グループ、軍閥の武装解除を誓約しているが、2002年8月現在までに大きな進捗は見られていない。これは政府が武装解除をの対象となる当の軍閥から構成されている(例えばドスタム)という根本的な問題によるものあろう。

 北部同盟は、かつての反ソ・モジャヒディン各組織が緩やか連合した組織である。(通常名称として、北部連合<northrn alience>、統一戦線<united front>等が用いられる)軍隊は各派で自立しており、統一指揮をとる組織は存在しない。各派の内部でも小さなグループが半自立の状態で活動している(大きなマフィア等と類似の組織を想像いただきたい)
 かれら反タリバン連合はかつてアフガンの社会主義政権が崩壊した後に互いに抗争を続けてアフガン全土に無秩序な戦争状態を生み出した。(1992〜1996)今日同盟を結んでいるイスラム協会、イスラム統一党、ドスタムのいずれの3者も過去に同盟・敵対を繰り返し、カブール掌握を巡る戦いでは互いに激しく戦火を交えた。
 タリバンが全土を掌握できた一つの理由は、反タリバン派がこのような過去の対立関係を解消できず、タリバンに対抗する統一戦線を組めなかった点にある。
 
 北部連合を攻勢する主要各派は下記の通り

北部連合(統一戦線) を構成する党派
組織名 指導者 主要民族
(宗派)
根拠地 主な支援国
イスラム協会(通称マスード派)
Jamiat-e Islami
<Society of Islam>

モハマドカセム・ファヒム
(現国防相)
モハメド・アタ
グルバディン・ラバニ


アハマド・シャー・マスード(2001年9月暗殺される)
タジク人
(スンニ派)
アフガン北部 タジキスタン、イラン、ロシア、インド
イスラム統一党
Hezb-e Wahdat-i-islami
<Islamic Unity Party>)
※通常「hezb-e-Wahdat」が用いられる
ハリリ・ハリム ハザラ人
(シーア派)
アフガン中央高地・バーミアン地方
※ハザラジャット地方とも呼ぶ
イラン
NIMA
(National Islamic Movement of Afghanistan)
※ドスタムのアフガン国外亡命以後、同組織名での報道される事は少ない
アブダル・ラシッド・ドスタム ウズベク人(スンニ派) アフガン北部・マザリシャリフ、クンドォズ ウズベキスタン




  • 戦争犯罪の概要

 ソ連占領期を通じて20年の及ぶ内戦の期間に、一説では戦争により3分の1のアフガン人が命を落としたといわれている。内戦は大量の難民を産み、経済と社会の荒廃をもたらした。内戦がもたらした負の遺産は多様な側面を持つが、ここでは最も直接的な被害、つまりアフガン国内の各軍事組織が行ってきた戦争犯罪ともいうべき事例を取り上げる。 

要点
  • 紛争当事者であるタリバン、反タリバン派がともに非武装民間人に対して意図的で計画的な虐待・虐殺をおこなっている。具体的には住民の略式処刑、恣意的な逮捕・監禁、女性への性的暴力、物品略奪、家屋の放火、
  • 移住等である

  • ターゲットとなる人々は、敵対勢力と同じ民族である場合が多い。つまりタリバン(パシュトゥン人主体)は非パシュトゥン人であるハザラ人・タジク人を、反タリバン派(タジク人・ハザラ人が主体)はパシュトゥン人を標的にする傾向にある。
     ただし、これは結果としての傾向であり、敵に協力していると思われる場合は、同一民族であっても各派は市民を虐待している。(バーミアン地方でイスラム統一党がハザラ人住居で略奪を行ったり逮捕した場合など)

  • 反タリバン派を構成するイスラム協会(Jamiate-e-Islami)、イスラム統一党(Hizb-e-Wahdat)については、「前科」がある。タリバンとの内戦がはじまる前はムジャヒディン同士の内戦が全土で行われていたわけだが、この時代に既に今回取り上げるような市民への虐待事例が多数報告されている。虐待の動機についても単に野戦司令官の私利私欲を満たすため、といった軍事的・宗教的にも正当化できない事例が多く報道されてきた

  • タリバンは、それまでの時代の軍閥と異なり、私利私欲による住民虐待などしない統制のとれた軍隊であることを自ら誇ってきた。このようなタリバンに対して、当初は住民の支援、少なくとも暗黙の支持があったという多くの主張・報告がある。発足当時のタリバンの急成長がその証拠、ともされる。初期タリバンについて、住民虐待の事例がほとんど見受けられないのは事実である。

    しかし初期(94年)の急成長期はタリバンと民族が同じであるパシュトゥン人の住む地域、アフガン南部が戦場であった。戦場が非パシュトン人の多い北部に移ってから状況が一変する。こうした地域でタリバンは人々を敵性住民として扱い、占領政策に近い統治を行った。
    また非バシュトン人の大都市を攻略する際には、多くの非武装市民が虐殺や暴行の犠牲となってきた。最も陰惨な例はマザリシャリフ占領時に行われたハザラ人の大虐殺である。

    タリバン自身は大半の虐殺報道を常に否定してきた。しかし海外の報道陣に対して反タリバン派に偏向していることを理由に現地の調査・裏づけを許可していない。

 

以下にタリバン出現以降の内戦による人々の直接の被害のうち、主要な事例を取り上げる。

  •  タリバンの戦争犯罪

2001年1月:ヤカオラングにおけるハザラ人虐殺
 同地Yakaolangで一端は反タリバン派のイスラム統一党に掌握されていたが、タリバンが当地を奪回、その直後に数百人の人々を略式処刑した、と国連、アムネスティより発表された。

タリバンが違う村々へ入ったとき、ハリリを支持したとして人々を家の中から引きずり出して射殺した。殺された人々の中にはHaji Yaqub、Haji Ishaq、Sayed Sarwar、技術者であるSyed Dawadと4歳の子どもが含まれていた。・・・(以下犠牲者紹介を略す)・・・Khata Khana村では無実の人々が(モスクの中なら)おそらくタリバンも危害を加えないだろうと期待してモスクへ避難していたが、不幸にもタリバンは一帯を支配した直後にロケット砲をモスクに撃ち込んだ。70人の人々がその場に放置されて亡くなった。亡くなった人々の多くは子どもと老人で、モスクの壁につぶされたままにされ亡くなった。亡くなってなお何日間もそのままにされて野生の動物の餌となった。しかしタリバンはそれでも満足せず、人々の家を焼き、ブルトーザーで踏み潰し、麦や家畜の餌を焼きはらった。Quraan村では武装したタリバンがたくさんの幼い子どもたちを射殺した。彼らはRajab、Khadim、Hameedの3人の農民を一軒の家の中で殺した。

訳注 「ハリリ」:ハザラ人主体の反タリバン派軍閥(イスラム統一党/hizb-wadat)の指導者。


 2000年9月〜10月
  統一戦線支配下のファイザバードに逃れてきた避難民によると、タリバンはタロカンが陥落する2000年9月5日までの数週間の間、タロカンとその周囲の村々の住宅地域に対して爆撃を行った。通常爆弾、砲撃、集束爆弾による激しい攻撃が住宅地を含む市全域に対して行われ、多くの家屋が破壊された。タリバンは村々の支配を確立した後に、統一戦線の指揮官マスードのシンパと疑われる人々を略式処刑した。(HRW)
 
 2000年5月
 タリバンの軍はPul-iーkhumriの市外北西のRobatak街道近くで最低でも200人の囚人を略式処刑した。囚人は1999年末から2000年初頭にかけてサマンガンとその隣接する州における掃討作戦の期間中に捉えられた男性であった。(HRW)
 
 
 1999年11月:戦争反対市民を拷問
 タリバンが戦争に非暴力的に反対した市民を200人逮捕・拷問(一部処刑)
11月3日、アムネスティ・インターナショナルはタリバン当局が98年から200人を越える政治活動を行った人々を逮捕・拘留し、目撃者証言では12人以上が処刑されたことを伝えた。逮捕の理由は人々は平和的手段によって国内で続く戦争に反対したことであるという。「拘留された人々には知識人、コミュニティのリーダーや元軍将校、パシュトン人の公務員が含まれるが、その大多数はひどい拷問を受けた。彼らのうち12人を越える人々が収監中に殺害された。拘留者には逮捕を免れた父親の代わりに人質となっている子供もいた。この報告は拘留されていた人や逮捕・殺害された人と個人的な知り合いで事情に詳しい人々のインタビューの結果である。(Amnesty International:原文)


 1999年7月:ショマリ平野における「焦土作戦」
 タリバンはショマリ平野における攻勢で、略式処刑、女性の誘拐・失踪、住宅の爆撃、他の財産、果樹を伐採等を含む農業資産の破壊が見られた。1999年11月16日付の国連事務総長報告によると、「タリバンの軍はこれらの行為を行い、基本的に住民を敵対的に扱い、兵士と兵士以外で区別を行わなかったと疑われる。」(HRW)

 7月末にショマリ平野において勃発した戦闘は、大規模で体系的な民間人への虐待に特徴付けられる。報告されている暴力行為には、計画的な強制移住、男性の家族からの分離、略式処刑、恣意的な拘留、誘拐、女性の失踪、及び家屋、財産、果樹の切り倒しを含む農業資産への放火、少年兵士の徴用等である。タリバンの軍がこれらの行為を行ったと思われるが、彼らは基本的に民間人を敵対的に扱い、戦闘員と非戦闘員の区別しなかった。ショマリ平野における残虐行為が行われたことで、避難した人々の多くはもといた場所へ帰れる見込みについておおきな不安を表明してきている。(UNHCR)
原文:UNHCR

 1999年5月
  5月にバーミアン地方の中心都市を再占領した後に、タリバンの軍は市民、主にイスラム教シーア派のハザラ人の市民を略式処刑し、家々を放火、拘留した人々に強制労働をさせた。Dara-i Sufの街は焼夷弾の集束爆弾で爆撃され、セントラルマーケット全体が焼き払われ、井戸と住宅が破壊された。(HRW)

 1988年8月:マザリシャリフの大虐殺
  8月8日、マザリシャリフを占領した後に、タリバンの軍は住宅街、市場、街路において兵士以外の市民および兵士とおぼしき人々へ発砲し、無差別攻撃によって大量の市民を虐殺した。続く数日間にタリバンはハザラ人、タジク人、ウズベク人のコミュニティの男性を体系的に捜索した。最初は多様な民族からなる数千の男性たちが市の刑務所に拘留され、その後他の町へ移送された。その一方で大量の、おそらくは何百人ものハザラ人男性と少年が略式処刑された。同時に最低でも2000人の市民が故意に市中で殺害された。その他の多くの人々が市の南へ避難する際に空爆、またはロケット砲攻撃で殺害された。タリバンの攻略の際に女性と少女が特にハザラ人居住地において、レイプ・誘拐された、とする複数の報告がある。(HRW)
  

「タリバンは前年の敗北の復讐をした。あるタリバンの司令官は後に、ムラー・オマルが2時間だけ殺してもよいと許可を与えたと語ったが実際には二日間殺しつづけたのだった。タリバンは狂ったように殺し続け、小型トラックでマザルの狭い道を走り回り、店主たち、二輪馬車ひき、買い物に出た女性や子どもたち、そして山羊や羊まで、動くものは何でも殺した。死者を直ちに葬るように命じているイスラムの教えに反して、遺体は路上に放置され、腐るにまかされた。「彼らは街路にいた者を、男でも女でも子どもでも、区別も警告もなしに殺した。道は死体で覆われた。6日間は誰も死体を葬ることは許可されなかった。犬が人間を食べ、狂ったように騒ぎ出し、まもなく悪臭で耐えがたくなった。」と虐殺をやっと逃れたタジク人男性は語っている。」 

「国連とICRC(赤十字国際委員会)は後に5000人ないし6000人が殺されたと推定した。私自身は7月と8月に6000人から8000人の民間人が殺されたと推定している。」

A・ラシッド「タリバン」、講談社
訳注 「ムラー・オマル」 :タリバンの実質的な最高指導者。宗教的・軍事的背策についての最終決定権を持つ

 このマザリシャリフの大虐殺においてもハザラ人が集中的に標的になっている。アムネスティ・インターナショナルはマザリシャリフ内外には検問所が設けられ、ハザラ人とおぼしき人間は片っ端から検挙されて男女に分けて収容所と刑務所へ連行されたという目撃者の証言を記録している。(Amnesty International :原文
  
  
  

 1997年
 1997年初頭にカブール北方の複数の戦略的要衝と多くの地点がタリバンにより占拠された。タリバンはまたGhorband渓谷を通ってバーミアン地方に進出することも可能となった。タリバンのこの進出は多かれ少なかれ、5月に反転させられ、前線はカブール北方20〜25キロの地点に移動した。町は空爆され、いたるところでロケット砲、重砲による砲撃にさらされ続けて、多くの市民が犠牲となった。加えて1997年待つにはタリバンは25万人の人々をカブール北方のショマリ渓谷から強制移住させた。これは敵兵が増えることを防ぐためである。(UNHCR: 原文



 1997年9月
 マザリシャリフ市攻略に失敗したその後、退却中のタリバン軍がマザリシャリフ周辺のシーア派・ハザラ人の村民複数を略式処刑した。国連のアフガン特別報告官の1998年3月12日付けの報告によると、Qezelabad一つの町で53人の住民が殺害され、20数軒の住宅が放火された。Sheikhabadの村では、計30人の老人が殺害されたと報告されている。類似の殺人が同地区の他の村々でも報告されている。(HRW)
 
 
 

 

  • 北部同盟各派の戦争犯罪

 1999年末から2000年初頭
 Sangcharak地方及びその周辺からの国内避難民は、同地域が統一戦線に掌握されていた4ヶ月の間の略式処刑、住宅への放火、広範囲にわたる略奪について、詳細に述べた。
報告によると幾つかの例では家族の面前で被害者が処刑された。こうした攻撃の標的となった人々は主として民族的にはパシュトゥ人であり、タジク人のケースもあった。(HRW)

 1999年4月:バーミアンにおけるイスラム統一党の虐殺・暴行
 4月21日、バーミアンを支配域に収めた後、統一戦線の一派であるイスラム統一党(Hizb-Wahdat)に属する軍隊がタリバンを支持している容疑で住民を殴打・拘留し、彼らの住居を燃やした。イスラム統一党は1999年5月、激しい戦いの末に町の占領を放棄してタリバンへ引き渡した。(HRW)
 
 1998年9月20〜21日
 数発のロケット砲がカブール北部へ打ち込まれ、うち1発が混雑した夜の市場に命中した。死者は推定数で76人から180人の範囲である。統一戦線指揮官のマスードの報道官は容疑(責任)を否定したが、攻撃はカブールから25マイル北方に陣取るマスードの軍によって行われたと、広く信じられている。
9月23日ICRCはプレスステートメントの中で、この攻撃を過去3年間の間に見られてきたような無差別で殺害の意図があるものと、表現した。(HRW)

 1997年5月末:マザリシャリフでのタリバン軍捕虜の虐殺
およそ3000人のタリバン兵士の捕虜がマザリシャリフ周辺で統一戦線の2派、アブダル・マリク・パラワン司令官指揮下のJunbish軍とMuhaqqiqが指揮するイスラム統一党の軍によって略式処刑された。殺害はパラワンが短期間のタリバンとの同盟を破棄し、市中で計略によりタリバン部隊を捕虜とした後に行われた。あるタリバンの兵士は砂漠へつれてゆかれ、射殺され、またある兵士は井戸に落とされてから手榴弾で吹き飛ばされた。

文責:飯塚 登久磨


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