RAWAが語る北部同盟とタリバン
    〜昨年、来日したアフガン人権団体の声から〜

 アメリカのアフガニスタン攻撃がまじかに迫っていることを示す報道が相次いでいます。一方でオサマ・ビン・ラディンとタリバンを攻撃する具体的で効果的な手段はいっこうに見つかっていません。
このような状況の中で脚光を浴びているのがアフガニスタンの「北部同盟(Northern Alliance)」と呼ばれる軍事勢力です。彼らはタリバンと正面から戦争を行える唯一の組織と言っていいでしょう。報道ではこの北部同盟とアメリカが組んで、タリバン制裁を行うことが検討されているようです。タリバンに反対する北部同盟がアフガニスタンを救う救世主のように伝えられる日がやってくるかもしれません。
「北部同盟」とは、アフガンの社会主義政権(ナジブラ政権)崩壊後に互いに争っていたムジャヒディンゲリラ各派の連合です。ムジャヒディンゲリラ各派はそれまでソ連とその傀儡政権に対して戦争を行っていましたが、対ソ戦以降は、互いに領土と政府ポストを巡って戦争をするだけの軍閥に成り下がってしまいました。単なる武装した強盗集団として人々を苦しめる者も続出しました。カブール市民はタリバンのカブール入城を手を叩いて歓迎したといいます。それまでカブールは現在北部同盟の中核をなす「イスラム協会」の支配下にあったのです。(イスラム協会はラバニ/マスード派の組織)
このような歴史的な背景を考えると、アフガンの市民にとって北部同盟が救世主となりうるか疑問です。
以下はさる2000年12月に行われたRAWAの講演です。RAWAは抗ソ戦中はソ連に抵抗する運動とともに、ソ連と戦うムジャヒディン(RAWAの表現ではジハディ)のイスラム原理主義運動に抵抗してきました。

 

 

RAWAメンバーを囲む集い 2000年12月18日 カトリック大阪大司教区司教館にて 

■来日したアフガン女性の紹介
 まずわたしたちの紹介をしたいと思います。わたしの名前は、サハサバ、RAWAのメンバーです。RAWAとは「革命的アフガニスタン女性協会」の略称名になります。
わたしは7歳のときにアフガニスタンを離れてパキスタンにきました。ちょうどロシアが軍事的に占拠したその後のことです。わたしだけではありません。自分の国を離れてパキスタンにいかなかった人々はたくさんいます。パキスタンでわたしはRAWAが運営している学校に通いました。そしてRAWAの学校を卒業してからRAWAのメンバーになりました。それ以来ずっとRAWAで活動しています。現在はRAWAの外国関係で働いております。
わたしの横にいるのはマリアンです。彼女もアフガニスタンの原理主義者の犠牲になりました。現在パキスタンの難民キャンプで生活をしています。彼女たちの家族も同じようにロシアの侵攻で大きな影響を受けました。その後、イスラム戦士たちの戦争の犠牲になりました。へクマチアルの男たちに彼女の夫は殺されてしまいました。彼女の娘は、タリバンに誘拐されました。今日、彼女はみなさんに痛みを伴った過酷な話をしてくれます。アフガニスタンには彼女のような経験をした女性たちがたくさんいます。
さきほどビデオでパキスタンのアフガニスタン難民の生活のようすをみなさんに見ていただきました。しかしながらああした映像というのはまさに氷山の一角です。パキスタンにいるアフガニスタン難民、そしてアフガニスタン人全体がおかれている状況というのは、言葉に表現できないぐらい過酷なものでありますし、ビデオや写真などで表現しきれない過酷なものです。そのような非常に過酷で悲惨な状況をお話したいと思います。

■ソ連のアフガニスタン侵攻
現在のアフガニスタンの状況についてお話する前にこれまでアフガニスタンで何があったのかについて少し述べたいと思います。
アフガニスタンの悲惨な状況というのはタリバンがアフガニスタンを制圧するようになった最近になって始まったと思っておられる方が世界には多いようです。しかしながら、ロシアが1979年にアフガニスタンに軍事侵攻したそのときから、20年以上にわたってアフガニスタンの壊滅的な状況は続いております。
ロシアがアフガニスタンに侵攻したとき、600万人ものアフガニスタン人が国を離れることを余儀なくされました。そうした人々のほとんどはパキスタンとイランに逃れました。それから50万の人々がロシアの占拠の後に命を落としました。それから100万の人々が大きなけがをして障害をもつようになりました。また何万人もの知識人が投獄されました。ロシアの侵攻後、傀儡政権として二つの党がロシアの支援を受けていたわけです。アフガニスタンで政治活動をしていたこれら二つの党は両方とも民主主義、自由、女性の権利の名のもとにアフガニスタン人に対して犯罪を犯しました。
ソ連のもとで、その傀儡政権がアフガニスタン人に対してどのような犯罪を行ったかという一例を申し上げましたが、ソ連が侵攻してわずか4カ月の間に1万2000人の知識人が殺されました。1万2000人の人々が連行されて有無を言わさず殺されてしまいました。イスラム戦士たち、聖なる戦いということで聖戦として闘ったイスラム戦士と同じぐらい、ソ連も残虐な行為をしました。
わたしたち何百万人もアフガニスタン人が国を離れることを余儀なくされたのですが、その間アフガニスタン人は本当に独立というものを願っていました。国に平和と安全と自由を取り戻したいと願ってきました。
1992年に、ソ連を後ろ盾とした傀儡政権が崩壊しました。人々は本当にこのときに自由、独立、平和、安全がもどってくると期待しました。しかし実際はそうではありませんでした。アフガニスタンを悲惨な状況にするのに荷担してきた世界の国々、アメリカをはじめとしてパキスタン、イラン、フランス、その他の多くの国々はアフガニスタンに平和を取り戻すために協力するのではなくて、むしろ自分たちの政治的、経済的な権益を守ったり、広げたりする場と考えていました。こうした国々によってアフガニスタンは粉々にされていくつもに分裂させられてしまいました。そしてアフガニスタンは世界最大のヘロイン産出国と化してしまいました。

■ジハーディスト(聖戦士)の支配

1992年にソ連に支援された傀儡政権が崩壊したとき、パキスタンとイランの原理主義者たちは、アフガニスタンを制圧しようとどっとくりこみました。パキスタンには7つの政党、イランには8つの政党があります。それぞれはカブールを制圧しようとしてカブールにやってきてそこで非常に残虐な行為を繰り返しました。まさにこのときアフガニスタンの歴史の中で一番暗い時代が始まりました。この一番暗い時代というのは女性にとってだけではありません。アフガニスタンの国民すべてにとって一番暗い時代がはじまったのでした。
彼らの行ったことは世界のどの時代、どの地域でもどの国でも見られない残虐な行為でした。ほかの国でもイスラムの原理主義者たちが内戦をしたり戦争をしています。残虐な行為、悲惨な行為が続いていますが、そういうものと比べられないくらい、恐ろしいことが起こりました。
これらの政党は、イスラムの宗教の名で残虐なことをしました。彼らが一番利用したのは民族の差というものでした。
ヘクマチアルはパシュトゥ民族を代表している、またハリリはハザラ民族、マスードはタジク民族、このようにそれぞれの民族を擁護してそのために闘うのだというふうに言いました。これらさまざまな政党が暗躍して、彼らが行ったことは、例えばマスード派ならタジク民族を擁護するためにその敵となる者を殺しました。
ヘクマチアルはパシュトゥーン族の敵になるものを殺しました。ハリリはハザラ民族以外を殺しました。こうした政党が1992年の傀儡政権の崩壊の後、何とか4年間均衡を保ってアフガニスタンを支配しました。1996年まです。
この4年間で、首都カブールは崩壊しました。破壊されてしまいました。アフガニスタンはそのために通常の国としての機能をすべて失ってしまいました。経済的な機能、政治的な機能、文化的な機能すべて失ってしまいました。これらの政党はアフガニスタンにあるお金になるものをすべて略奪して、パキスタンやその他の国にすべて売ってしまいました。
このような原理主義者の行った残虐な行為というものは、それを撮った写真や映画があったとしても、その本当の恐ろしさというものを表現し得ないと思います。そしてこのように残虐行為は過去のことではなく、今もアフガニスタンの女性や子どもたちや人々に対して起こっていることです。今ここにアフガニスタンの人たちが参加していますが、この方たちが所属していた政党でも残虐な行為が実際に行われていたと私は考えます。人道主義に対する罪というものを原理主義に基づいたさまざまな集団が行ってきました。これらジハディスト、すなわち聖戦士、聖なる戦いを行う戦士たちということですけど、このジハーディストが暗躍しているとき、アフガニスタンは誰にとっても安全ではありませんでした。
今タリバンが制圧しています。タリバンは、女性は何々をしてはいけないと厳しい戒律を強要しています。これらの原理主義者たち(ジハディスト)はこういう命令は出しませんでした。女性が外出してはいけないとか、女性は学校へいってはいけないというような命令は出しませんでした。しかしながら現実には女性たちは外に出ることができませんでした。女性が外を歩いていると、例えばジハーディストの指令官に誘拐されて、殺されたりレイプされたりということが日常茶飯事に起こっていたからです。女性たちは恐くて外にでることができませんでした。親は自分の娘を売れというように強要されたりもしました。本当に何人の女性たちが殺されたりレイプされたりしたかその数は数え切れないくらいです。女性たちにとって恐ろしいことが日常的に起こっていたのです。例えばひとつの例を申し上げるとシュークリアという女性、彼女は4人の子どもの母親でした。ある日、彼女は原理主義者の指令官に誘拐されました。そして4日間どこにいったのかわからないままでした。彼女は誘拐されてレイプされました。そして結局殺されてその遺体が4日目に彼女の家の前に捨てられていました。16歳の彼女の娘をそれを見て、自分も母親と同じようなめにあわされるのではないかと、恐くて外に出られないという状態になりました。
これらの原理主義者は70歳の女性から6歳の幼い少女までレイプする事をいといませんでした。子どもたちを売れというように親たちにせまりました。非常に屈辱的な行為をしました。これら原理主義者たちは本当にどんな残虐な行為でもしました。戦争をやめて平和をとりもどすというアフガニスタンの人々のスローガンの中にこのような言葉があります。4月28日、これらの政党が4年間の残虐な政治をはじめた28日ですけれも、この4月28日というのは、ロシアがアフガニスタンに侵攻した4月27日よりもさらに暗黒の日であった、アフガニスタンにとって暗黒の日であったという、そういうスローガンを掲げています。原理主義者がアフガニスタンに残した贈り物というのは、破壊と殺害と略奪と強姦とそして屈辱とそれ以外の何もありませんでした。
これらの原理主義者たちの政党は外国の力に依存していました。独立していたわけではありません。彼らには外国の主人というものがそれぞれいました。その主人の目標を代理して、アフガニスタンの中で力を掌握してそれを維持しようとつとめたわけです。しかしながらその行為はあまりにも残虐であり、反女性であり、民主主義の冒涜であり、文明に対する冒涜でもあったわけです。そのような行為に対して彼らはだんだんと信用を失っていきました。主人の一人であるアメリカでさえも、こうした彼らの行為に対して信用しなくなりました。
このような中で出現してきたのがタリバンでした。しかしながらこのような残虐な行為をしてきた政党と基本的なところではまったく違いがありません。タリバンはパキスタンでトレーニングを受けました。サウジアラビアやアラブ首長国連邦、それからパキスタンといった国々の支援を受けて、ジハーディストと闘うものとして訓練を受けてタリバンはアフガニスタンに乗り込みました。それが1994年のことです。このタリバンは当初アフガニスタンの南部にだけ入りました。タリバンがアフガニスタンに入ってまず言ったことは女性は外へ行って働いてはいけないといったことでした。彼らは女性にとって非常に厳しい戒律を打ち出しました。タリバンもアフガニスタンに平和と安全を取り戻すのだと大きなスローガンを掲げていました。そのころアフガニスタンの人々は長く続き、この国を荒廃させた戦争に本当に疲れ切っていました。タリバンがなぜ成功したのかというと戦争に疲労困憊し、疲れ切っていた国民の気持ちをつかんだからと言われています。パキスタンなどの支援を受けてアフガニスタンの南部から入ったタリバンが最終的に首都のカブールを制圧したのは1996年のことでした。それからアフガニスタンの女性たちにとってとりわけ厳しい時代というのがはじまります。

■タリバンの支配
タリバンの本質はまさに病んでいる人です。反女性であり、教育にも反対しています。反民主主義であり、反人権です。彼らがアフガニスタンを支配して4年たちました。アフガニスタンで生きること、生き延びることは不可能な状態になっています。アフガニスタンはまさに地獄であると思います。さまざまな禁止令がタリバンによって出されました。国民の80%(男性も女性も含めて)が失業しています。特に女性に対しては仕事をしてはいけない、教育を受けてはいけない、外出はしてはいけない、という非常に厳しい禁止令が出されています。毎日、路上ではまた外ではちょっとした戒律に違反したということでムチで打たれたり、殴られたりしています。女性たちはブルカを着ることを強要されています。女性や子どもたちは、医師に診せることも禁止されて、毎日たくさんの人々が医師の治療を受けられないまま亡くなっています。処刑やムチ打ちが日々日常茶飯事として行われています。スポーツを行うためにあったスタジアムが今や処刑やムチ打ちや投石の刑を行う場になってしまいました。女性が働くこと、学校にいくことが禁止されています。アフガニスタンの中には小学校から高校、大学まで教育機関というものがなくなってしまいました。そのほか映画館もありません。劇場もありません。レクリエーションの場というものがすべてなくなってしまいました。
カブールだけでも2万人の戦争未亡人がいます。これらの戦争未亡人は、働くことが禁止されているわけですから、選択肢が二つしか残されていません。ひとつは物乞いしたり、売春して生きること、もうひとつは自殺することです。
タリバンの政策が女性たちやアフガニスタンの人々にとってどれほど残虐で、反女性であり、反民主主義であるかを語ろうと思っても短い時間では語り尽くせません。現在アフガニスタンでは、タリバンとタリバンに反対するマスードを中心とする北部連合が国を制圧するために権力奪取のために闘っています。しかんしながらどちらの側も、人々に対する犯罪者です。彼らはもはやアフガニスタンの人々のみならず世界をだますわけにはいきません。自分たちが戦争しているのは、アフガニスタンに平和や安全をとりもどすためだといっています。しかしながら彼らはこれ以上世界をだますことはできません。
人々は彼らが変化をもたらすとは一切思っていません。希望はうち砕かれてしまいました。タリバンがアフガニスタンの90%を掌握しているといわれています。たとえ彼らが100%掌握することになったとしても人々は彼らに対して希望を取り戻すことはありません。彼らはアフガニスタンの人々の敵です。彼らは十分な教育を受けていません。アメリカ大統領が誰かということさえもわからないのです。民主主義そのものを身につけておりません。女性を人間として見ておりません。そのように人々が国の100%を掌握して政治をしたとしても、いったい人権などが回復されると思うでしょうか。
タリバンを含むこれらの原理主義者たちはわたしたち国民に対して拷問をずっと行ってきました。あらゆるものが略奪されてしまいアフガニスタンには本当に何も残っていません。わたしたちは物質的なものや物理的なものをすべて失いました。もし国に平和がもどってきたとしたら、そうした物理的なものはとりもどすことができます。しかし修復できないのは、彼らの行為によって精神的に傷つけられた人々の心です。アフガニスタン女性の90%は、これはアフガニスタン国内にいる女性とが外国の難民キャンプにいる女性を含めてですが、女性の90%が何らかの精神的な傷を負っています。彼らはまさに加害者です。犯罪者です。世界には人権や民主主義のために活動している人々がたくさんいます。また人権や民主主義を標榜している国がたくさんあります。しかしながら、これらの人々、これらの国々はアフガニスタンのことをもう忘れ去ってしまったかのようです。唯一今アフガニスタンといって思い起こされるのは、厳しいタリバンの女性に対する政策のために、女性は外にでてはいけない、ブルカというものをかぶっていなくてはならない、といったほんのちょっとしたことしかイメージだけだと思います。

■RAWAについて
 RAWAについて簡単に申し上げます。アフガニスタンでは残虐でひどいことが行われているわけですが、人々があきらめてしまったかというとそうではありません。長い間抵抗を続けている組織があります。その組織のひとつがRAWAです。RAWAは、女性の組織としてはアフガニスタンで一番古い団体です。1977年にカブールで作られました。創設者はミーナという女性でした。
当時はメンバーが数人の小さな組織でしたが、ソ連の武力侵攻に対して抵抗運動の先頭にいつもRAWA はたっていました。アフガニスタンに民主主義と女性の権利を確立するためにずっと活動してきました。RAWAは、アフガニスタンは本当の意味で独立しないかぎり、真の民主主義と女性の権利は確立できないと考えてきました。しかしながら独立とはほど遠くアフガニスタンの状況はますます悪化するばかりでした。最終的にこうした悪化する状況を見て、パキスタンに拠点を移す決心をしました。パキスタンでRAWAは識字教室、移動診療所、病院の運営、それから男の子と女の子両方のための学校を開きました。それから難民キャンプで女性たちに対して、自分たちはどのような状況におかれているのかと言うことを認識してもらうための意識高揚の活動もしました。このように活動してきましたが、残念なことにRAWAの創設者のミーナが1987年に暗殺されてしまいました。彼女はアフガニスタンの女性の歴史の中で本当に独特で他にはいない人物でした。彼女は果敢に闘いましたが、その彼女を恐れて原理主義者は彼女を抹殺してしまいました。
1987年に創設者が殺された後もRAWAは戦いをやめていません。アフガニタンのなかで、そしてパキスタンのなかで闘ってきました。パキスタンのイスラマバードでソ連の傀儡政権に対して公に批判をしたのはRAWAがはじめてです。また原理主義者たちが力を持つ前に、彼らの本質をはじめて暴露したのもRAWAでした。
RAWAは経済的社会的さまざまな活動を行っています。さきほど紹介したものほかに収入を生み出すためのカーペット作りの講座といったことも行っています。となりのマリヤンさんもこれを学んでいます。それから看護婦を養成するような講座も行っています。この活動はパキスタンだけではありません。アフガニスタンの中でも同じように活動を行っています。
アフガニスタンでRAWAが一番力をいれてやっているのが、人権侵害の調査であります。人権侵害をきちんと調査して報告書にまとめるということをアフガニスタンで行っています。RAWA以外にこのうよなことをやっているところはありません。アフガニスタンの中でこのようなプログラムを行ったり、人権侵害の調査をするということは決して簡単なことではありません。まさに命の危険が伴う仕事です。それ以外に女性の権利意識を高揚させる活動をアフガニスタンの中でもやっております。同じようなことはもちろんパキスタンでもやっています。アフガニスタンで権力者に対して真っ向から抗議するようなことは言えません。パキスタンでも政府を罵倒するようなことは言えません。しかしながら、パキスタンでは節目節目の日、例えば世界人権の日ですとか、国際女性の日ですとか、ソ連が侵攻したといった記念すべき日にデモをやったり集会を開いたりして訴え続けています。それからわたしたちはインターネットのホームページをもっています。(http://rawa.hackmare.com/)ホームページを通して状況を世界に知らせています。わたしたちはふたつの問題に直面しています。身の安全の問題と財政的な問題です。財政的な問題についてですが、わたしたちはどの国からもどの政府からもどのNGOからも財政的な支援を受けていません。わたしたちはそうした支援を受けるいろいろな力、可能性というものをもぎとられてしまいました。このような国、政府、NGOはわたしたちを政治集団だといいます。わたしたちは政治集団です。タリバン、原理主義者の集団の行っていることを明らかにしていくこと、それを糾弾していくこと、それは政治的な活動にほかなりません。またわたしたちは革命的だという人たちもいます。アフガニスタンの中でタリバンから女性は人間として扱ってもらっていません。原理主義者たちもそうでした。女性の権利、民主主義そうしたものが原理主義者たちによってすべてもぎ取られてしまったのです。そうしたものをとりもどすという行為がまさに革命的な行為なのです。宗教の宗派による争いやおしつけを否定して民主主義をとりもどすということ、それは革命的な行為です。しかしながらわたしたちは、世界の人々から支援を受けるようになりました。わたしたちはこの支援を背景にしてアフガニスタンの置かれている状況を変えることができると思います。安全の問題があるからといってわたしたちは戦いをやめることはありません。決しておそれません。日々さまざまな脅しを原理主義者たちから受けます。電話による嫌がらせがあれば脅迫状のようなものもあります。電子メールによる嫌がらせや脅しもあります。こうしたことにわたしたちはひるみません。創設者のミーナがそのことを教えてくれました。
例をあげますと、12月10日にイスラマバードでわたしたちは国際人権デーを祝ってデモと集会を行いました。それを攻撃するためにタリバンはカシミールの原理主義者たちを組織しました。わたしたちの集会は攻撃を受けました。集会に参加していたRAWAのメンバー数名がけがをしたりまた、警察に引っ張って行かれました。

■日本のみなさんへ
日本のみなさん、どのような形でもいいですので、わたしたちアフガニスタンの平和ののために支援をお願いします。財政的な支援でも精神的な支援でも何らかの形でアフガニスタンで続いている人権に対する悲劇に終止符をうつことができるような支援をお願いします。そしてもうひとつ、アフガニスタンのこのような状況の中で国を離れることを余儀なくされた人々がたくさんいます。難民として日本にもたくさん来ています。この会場にも来ています。この人たちは決して好んで国を離れたわけではありません。自分の家族自分の子どもを残して国を離れようとする人などどこにもいません。国を離れることを余儀なくされたのです。日本に政治的な庇護を求めてやってきました。アフガニスタンに平和がもどるまでのほんの数年間、彼らが日本に住んでいられるようにみなさん支援をお願いします。もう一度いいます。誰も好んで自分の国を離れようとする人はいません。本当に帰りたいと思っています。しかし帰れません。彼らがしばらく日本にいられるようにみなさん支援をしてください。そしてアフガニスタンに本当の意味での平和がもどるように何らかの形での支援をお願いします。


 

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