HRW(Human Right Watch) 2002年3月6日
アフガニスタン北部、パシュトゥン人への暴力の証言
Anti-Pashtun Violence in Northern Afghanistan: Recent Testimonies


(原文) http://www.reliefweb.int/w/rwb.nsf/s/4FC220130CED0240C1256B91004B2052

----------------------------------------------------------------------------------------------------

下記は中間報告であり、完全版(英語)は以下で読むことができます。
"Paying for the Taliban's Crimes:Abuses Against Ethnic Pashtuns in Northern Afghanistan"
http://www.hrw.org/reports/2002/afghan2/

【序章】
 以下の証言は、HRW調査員が2002年2月から3月の4週間にわたる調査のなかで集めた、アフガン北部におけるパシュトゥン人への暴力、150件以上の事件の中から選択されたいくつかの証言である。
 HRW調査員は北部一帯、北東部のファリヤブ州から北部中央高地のバグラン州におよぶ地域の数十の村々を訪れた。調査員は過去3ヶ月以内におきた150以上の暴力事件や略奪事件を記録した。そのうちのいくつかの事件は2002年2月末、というつい最近に起きた事件であった。調査員は多くのパシュトゥン人の村々が徹底的に略奪されたことを確認した。HRWは包括的な報告を近日中に公開する予定である。

【証言】
 最低でも27人のパシュトゥン人民間人が殺され、略奪も行われた・・チムタル(Chimtal)地方にて
H(訳注:仮名)はバルフ州・チムタル(Chimtal)地方に位置するBargah-e Afghani村出身の16歳のパシュトゥン人女性である。2001年11月初頭にHの70歳になる父親、アミル・ハーン(Amir Khan)と27歳の兄弟サフタ・ベイ(Safter Bay)が武装したハザラ人の男達によって殴打され、殺害された。Hはその現場を目撃した。この村では同じ日に最低でも27人、おそらくは37人のパシュトゥン人の村人達が殺害された。HRWは2002年2月26日に彼女にインタビューを行った。
「6人の男達が私達の家に入ってきました。彼らはハザラ人でした。彼らが家の中に入ってきて、私達を殴打し、家財を略奪しました。彼らが私の父を殴ったとき、私は彼らをつかんで父が殺されるのを止めようとしました。彼らは銃器で私を殴り返しました。彼らは1時間半の間、殴り続けました。兄、そして私の父、アミール・ハーンもそこにいました。父と兄は両手を後ろ手に縛りあげられ、両足も同じように縛られていました。彼らには体全体に殴打の痕がありました。
ハザラ人達は私達に2000から3000lakhs(2億〜3億アフガニ。米ドルで1700ドル〜250ドル相当)を要求しました。私達が金を支払わなかったならば彼らは私の父や兄弟を(訳注:その場で?)殺していたでしょう。
 私は二人が殺されるところを目撃しました。最初彼らは二人を銃器で力いっぱい殴りつけていました。それから彼らは二人に対して数十発、銃を発砲しました。その後に(もっと強力な銃器で)二人に発砲しました。父、アミール・ハーンは地面に横にさせられ、彼らは銃剣で父を突き刺しました・・・そして彼らは二人に対して同時に銃を撃ちました。しかし、私の兄が亡くなったのはそれから二日たってからでした。父のアミール・ハーンは即死でした。二人は私達の家の中庭で撃たれました。
 その後、彼らは私達の部屋に入ってきて家捜しをしました。カーペットやキルム(kilims)、裁縫の機械などを持っていましたが、こうしたものを全て持ち去ってしまいました。金のコイン、4組のイヤリング、4つの指輪、私達の服、6つの時計といったものも持っていってしまいました。しかし私達にそれ以上乱暴をふるう者はいませんでした。彼らは2000lakhsを見つけたのです。」

13歳と30歳の二人の女性のレイプ・・バルフ市街にて
N(仮名)は30歳のパシュトゥン人女性で、バルフ市内に住んでいる。2001年11月末にイスラム統一党のハザラ人兵士の集団により彼女自身と彼女の14歳になる娘がレイプされ、彼女の家は略奪された。彼女は2002年2月19日、HRWによってインタビューを受けた。
「彼らは女性や少女の全員を別の部屋に連れて行き、私の14歳の娘から始めました。彼女は大声で泣き、彼らにやめるよう懇願しました。彼女は処女だったのです。しかし男達の一人が銃で脅し、服を脱がなければ殺すと彼女を脅迫しました。彼女は3回レイプされました。
指揮官が2回、もう一人の兵士が1回彼女をレイプしました。そして次に中にいた二人と外から入ってきた3人が私に襲いました。私は5回レイプされました。それから・・・彼らは12歳の私の娘もレイプしようとしましたが私は彼らが娘を捕まえようとしている間中、銃を持ち続けて抵抗しました。私達は泣きながら、私達には敵もいないような貧しい者なのに、なぜこのようなことをするのか、と言いました。指揮官は「我々が選んだのだ。おまえはタリブ(タリバンメンバー)でパシュトゥン人だ」と言いました。
私は娘達の将来を心配しています。だれも娘と結婚する者はいないでしょう。私達には何も残されていません。結婚と名誉が失われたのです。」

パシュトゥン民間人の殴打と略奪・・ダウラタバ(Dawlatabad)地方にて
 M・G(仮名)は70歳のパシュトゥン人男性で、バルフ州・ダウルタバ市街近郊の村の出身である。彼は武装したハザラ人と他の武装グループによって繰り返し殴られ、家を略奪された。彼の場合もまた、過去に彼の村が隣接するハザラ人の村人達を犠牲にしながら、タリバンによってどのように優遇されていたのかを説明してくれた。現在彼らの状況が不安定なのはこのことにもよる。彼は2002年2月19日、彼の完全に略奪された家の中でHRWによりインタビューを受けた。
「この地域には8家族が住んでいました。全員がパシュトゥン人です。そのうち4家族は去り、4家族がまだここに住んでいます。(タリバン没落後)最初の4日間は全く平和でした。しかし4日後、彼らが兵器の捜索を口実にここにやってきて見つけたものを片端から略奪しました。6回か7回、彼らはジープでここに強奪にやってきました。
最初の日はラマダンの20日か25日目あたりでした(2001年11月5日〜10日)彼らは夜に、2台のダットサン(訳注:ピックアップトラック)で10人から15人でやってきました。彼らには(民族的には)さまざまな者が混じっており、大半はダワラタバからやって来た者達で、幾人かはそれ以外のどこかよそから来た者達でした。彼らはあらゆるものを奪いました。最初にここに住んでいる人たち全員を殴り、それから私達の財産を全て取り上げました。カーペット、ポット、家財全てです。彼らはまた箱(貴重品を収納するために使われていた)を壊しました。
 私のうちから彼らは12のカーペット、家の中のあらゆるもの、ティーポット、宝石、イアリング、kilims、そして2、3ブハラ(訳注:bokhars=単位か?)の小麦と小麦粉、121sirsの米といったものを盗んで行きました。4匹の牛は2度目の攻撃で差し押さえられました。
 最初の攻撃の際は12人の強盗が入ってきました。彼らは鞭で私を叩きながら金を見せろと言いました。彼らは私達がパシュトゥン人だといい、あしざまに言いました。私を銃器でも殴り、けり、こぶしで殴りつけました。一時間ぐらい殴られ続けました。それから私の性器をねじり上げてどこに金が隠してあるのか出させようとしたのです。苦痛から私はほとんど意識を失いました。意識が戻るとここには何一つ残っていませんでした。私の家には何一つも残されなかったのです・・・・
 2日後の夜、2度目の襲撃がありました。幾人かは前回と同じ人間でしたが、ほかの者は違っていました。再び私達は略奪されました。彼らは私と、妻と、子供達を殴りました。彼らはやって来ると常に私をたたき、両手を縛り、その後にけりつけたり、武器で殴りつけて金を要求します。
 彼らは女性達を一つの部屋に集めました。そして彼女達の箱(そこには高価なものがしまってある)を壊して貴金属をその箱から取り出しました。女性達はけりつけられ、あしざまにののしられました。
最も最近の攻撃は20日前のことで、この時の攻撃は隣村からのものでした。その隣村は3000lakhs(300万アフガニ、米ドル換算で2500ドル)をこの村の全員に要求しました。なぜなら村人の何人かは立ち去っていましたから。私達はここを立ち去っても行く所がありません。その他の村、Sar-i-de村はハザラ人の村です。タリバンはこの土地を奪って、私にこの土地へ行って耕すように言いましたが、この土地は(訳注:もともとは)ハザラの人々の持ち物だったのです。そんなわけで、私が彼らの土地を耕したのだから、今やハザラの人々が収穫高を3000lakhsと見積もったのです。しかし私はおおよそ40ブハラの小麦、換金すると800lakhs程度しか収穫できませんでした。旱魃のために1シーズン分しか収穫できなかったのです。
 この村では私達は5人で、5人とも農民です。めいめいがおよそ200デュナム(dunams)の土地を持っています。その土地は(タリバン)政府によって接収され、それを私達が耕しているのです。政府は昨年、私達にこの(ハザラ人の)土地を耕すように命令しました・・・・私は一度はタリバンと争いましたが、彼らはあざができるまで私を殴りつけました。
 私にはこの争いをどのように解決したらよいのかわかりません。私はここに入植するために家を売る以外なかったのです。彼らは(私が出て行こうとすると)いつも脅迫します。私はここ(私の家)に投獄されているのです。今、この瞬間に私がここを離れれば、彼らはやってきて窓まで盗んで行き、私の樹を切り倒してしまうでしょう。」

パシュトゥン民間人に対する強奪、殴打、発砲・・・バルフ市内にて
 A・K(仮名)は34歳のパシュトゥン人男性である。彼はバルフ州・バルフ市近郊の村に住んでいる。彼はイスラム統一党部隊の武装したハザラ人兵士に金を要求され、それを拒んだ際に殴られ、銃を撃たれた。HRW調査員が2002年2月18日にインタビューをお行った時点で、彼はなお寝たきりで、銃撃で受けた傷を治療中であった。
「銃撃以前、2、3日前に私を撃ったハザラ人が私の家にやって来てお金を要求しました。彼らはトラクターを買ったのでその支払いのためにお金が必要だったのです。私はお金の支払いを拒否しました。私はこれが問題になるかもしれない、と考えました。彼らは私がお金を出すことを拒んだことで私を罰しようとすると考えたからです。彼らが私を市場で捕まえたとき、彼らは「今すぐに決着をつけよう」と言いました。
 これが10日ほど前のことです。市が立つ日は2回あります。月曜と火曜日で、この曜日は市場の日なのです。彼らは3人でイスラム統一党に所属しています。最初彼らは私に何か仕事がないか、と話しかけてきました。私がバイクを止めると、彼らはバイクを引き倒して、私の上に落としました。
 彼らはその後で私にジープに乗るよう命じ、私が車に中に入るとこぶしで殴りつけたり、けりつけました。銃でも殴られました。(走行中は)両手が自由でジープのドアも開いていたため私は逃げて出して、近くの製糸工場へ逃げ込みました。私が逃げた時、彼らは私の真正面に向けて銃を撃ちました。耳の近くを撃ったのです。その後で私のひざのあたりを撃ちました。私は叫び声を上げて近くの村人に知らせようとしました。村人達が叫びを聞きつけて、ハザラ人に向けて銃を撃ち始めました。ハザラ人は私を追うのをやめ、私は助けられたのです。」

パシュトゥン民間人への殴打と盗み・・ファリャブ州、ショール・ダリヤ地方にて
 A.M(仮名)は48歳のパシュトゥン人男性で、ファリャブ州ショール・ダリヤ地方のパシュトゥン人の村に住んでいる。彼は2001年11月15日にイランでの避難生活から15ヶ月ぶりに戻ってきた時、イスラム国民運動に所属するウズベク人指揮官により拘留を受け、殴打、強奪をうけた。彼は2002年2月21日にHRW調査員によってインタビューを受けた。
 「タリバン(政権)が倒れた時に私はイランに(避難民として)滞在していました。私はイランから(アフガンの)ヘラート経由で家に戻りました。家に着いた時、家には私のいとこ以外に誰もいませんでした。ダワラタバでは(ファリャブ地域)ジュマ・バザール(Juma Bazaar)出身の3人の男が権力を振るっていました。名前をR、W、そしてTといいます。この3人は私を逮捕し、金銭を奪いました。およそ50万イラントマン(Iranian Toman)になります。(500万イランリアル、米ドル換算でおよそ840ドル)
 それはEid(ムスリムの祝日)の1日前のことで、ラマダンの30日目(2001年11月15日)のことでした。その日彼らに私は捕まり、投獄されたのです。私はあの日はイランから戻り、ダワラタバ市内にいました。私がバスから降りると彼らは私が金を持っていることを知っていることから、私を捕まえました。私はイラン製の毛布といくつかのプレゼントを持っていました(訳注:祝日であるEidの日にはプレゼントを交換する習慣がある)
 バスを降りるや3人の武装した男達が私を捕まえて彼らの銃器で私に殴りつけました。その後私は刑務所まで引きづられて行き、そこで私はかばんを取り上げられました。かばんの中には私のお金が入っていました。彼らは100lakhs(米ドル換算でおよそ83ドル)の値段がしたプレゼントもかばんに入っていたのですが、これも奪われてしまいました。
 その晩、刑務所にTとWがやってきました。二人は私の背中に水をかけて、木の棒で打ち始め、長い間続けました。4時間近くそのように殴られたのです。こんな状態で5晩刑務所に投獄されてました。
本当に今日になってウズベク人は私達の長の一人に会いに行ったのです。彼はハジ(巡礼に出たことのある老人を称する尊称)と話をして、長は20lakhs(2000万アフガ二、米ドル換算で16ドル)を彼に支払わねばなりませんでした。そうしなければ彼らは私達を殴って、投獄したでしょう。」(ウズベク人の二人の男達はHRWの調査隊が到着した時にすばやく村を離れていた)

A.S(仮名)は47歳のパシュトゥン人男性で、ファリヤブ州・ショール ダリヤ地区のパシュトゥン人の村の出身である。彼はタリバン没落後に何度かウズベク人政党、イスラム国民運動の武装したメンバーによって殴られ、強盗の被害にあっている。彼は負傷のために寝たきりになっており、この先回復しない可能性もある。HRWは2002年2月22日、彼にインタビューを行った。
 「タリバンが打ち倒された時、ファイザバード(ファリャブ州の州都。彼の村からは山を越えた先にある)から来たウズベク人村民たちが総出で村に押し入り、何もかも略奪していきました。私はここでは裕福で120頭の羊を所有し、2頭のラクダ、2頭の牛、2頭のロバと1台のバイクを持っていました。今では(タリバン崩壊前に)ウズベク人に私が貸した金を返せと主張することすらできません。本当に今となっては私は食物を他の村人に乞うているのです。
 ラマダンの初日に全てが始まりました。彼らはほんの1日だけではなく、ラマダンの期間中、20日以上も略奪を続けたのです。この村は裕福な村でした。夜昼と強盗たちがやって来たのもそれが理由でした。ある集団が去ると他の集団がやってくるのです。100lakhs(1000万アフガニ、米ドル換算で約83ドル)を私から盗んだ男を私は知っています。一人はカライ(Khalai)の息子、Nです。彼はKhobe Sayat村出身です。もう一人はSで彼はNurbiの息子です。彼らはともにイスラム国民運動に所属しています。彼らに殴られてから2ヶ月がたちますが、私はまだ床に伏せています。
 私が殴られた日に、彼らは市街からやってきました。ラマダンの期間でしたが、最後の日だったのです。私は羊にえさをやり、家に戻ってきました。午後1時か、2時のことです。2人の人間がバイクに乗ってやってきました。それはSとNでした。
 最初二人は私の首をターバンで絞めました。私が意識を失うと二人は私の両手を縛り、それから殴り始めました。彼らはカルドーム(kardoom)というケーブルの先端に金属の玉をつけたもので殴られました。背中、足、両手と叩かれ、何回叩かれたのか覚えていません。彼らはカルドームで私の腕を裂きました。1時間ぐらいはこの殴打が続きました。その後で彼らは私をバイクに乗せて私の家へ運び、私は彼らに(彼らが要求していた)金を支払い、私のバイクを渡しました。彼らは私に金を出せ、さもなければ殺す、と命令したので私は、金を渡す、殺さないでくれ、と言ったのです。

ページ先頭へ  HOME