カブールの難民達に届かない援助
Kabul’s Refugees Feel Passed over by International Aid

2002.9.21 Eurasianet
http://www.afgha.com/article.php?sid=16670&mode=thread&order=0

地方の農村部でも帰還した難民の危機がしばしば報告されますが、このレポートでは首都カブール自体が抱える難民の苦境と、援助の実態が報告されています。


首都カブールには帰り先を決めかねている国外からの難民や国内避難民が残っている。今年帰国した推定170万人の難民のうち、およそ3分の1の人々がカブール市内と周辺地域に定住することを選んできた。こうした人々の中にはカブールに一度も住んだことが無い人々がたくさんいるが、彼らがカブールにやってきた理由は経済状況、治安がより良いと感じたからである。

しかしカブールの難民達は国際援助の隙間に落ち込んでしまったように見える。ビビ・クルド(Bebe khurd)は9人の子供を持つ40歳の母親だ。もともとはジャララバード出身であるが、今年の初めにパキスタンの難民キャンプを家族とともに立ち去り、その時カブールに行くことに決めた。彼女は首都の状況のほうが彼女自身と4人の息子、5人の娘にとってよりましだと考えたからだ。しかし彼女が語るところでは生活環境はパキスタンの時よりも悪くなっているという。「私達はアメリカがアフガニスタンにやってくれば全てが良くなると思っていました。しかし私達は過去と同じ問題を抱えています。何も変わってきませんでした。私の夫は何の職にも就いていませんし、子供達はとてもひどい環境の中にいます。私達がアフガニスタンをを去ったのはタリバンの圧政が理由でした。しかし私達はどこの援助団体からも何の援助も受け取ってきませんでした。」と彼女は語った。

彼女の嘆きはカブールの難民達の中に広く見られるもので、そこには地方、僻地の地域で生活する人々を重視して支援の対象に選んできたというUNHCRを含む国際援助団体の意図的な政策が反映している。援助団体はカブールに戻った難民達のほうが仕事や必要物資に恵まれており、地方の人々ほど火急の援助の必要がない、と予測していたのだ。

UNHCR報道官のシノハラ・マキはカブールでこの政策について説明を行った。「UNHCRは地方に向けられる注意の方がより少なく、国際的な支援も少ないといったことから、このような地方に住んでいる人々に支援を集中させている」と彼女は語った。

しかしカブール市の中心からそう遠くない難民キャンプをいくつか訪れてみれば女性達、男性達、そして子供達が恐ろしい状況で生活していることがはっきりわかる。11歳の少女、マリアム(Maryiam)は市の東部地区のにわか作りのキャンプで生活している。彼女は赤ん坊を腕の中に抱きながらその生活の様子を語ってくれた。「私達が暮らしている環境はとても悪いものです。住む場所がありませんし、このテントでは冬の寒さで近いうちに死んでしまうことになるでしょう。見てのとおりここにはたくさんの子供がいますが、子供らは寒さに耐えることができないのです。私達には何の収入もありません」

このような難民達がどこへ支援を求めに行くのか、その場所ははっきりしない。カブールの市当局者は市には資金が無く、援助の手を差し伸べるような立場に無い、と言う。普通、難民達が仕事をみつけると予測するが、市の経済では新しくやってきた難民達をゆっくりとしか吸収できなかった。だがこの数ヶ月間だけで30万人近くの難民がカブール市にやってきたのである。

シノハラ報道官はUNHCRがこの問題を自覚しており、近々カブールの状況調査に乗り出すと語った。報道官は悲惨な生活をしている家族はおよそカブールの1300箇所で生活していると数字を挙げた。この報道官によるとUNHCRはこの問題に特化し取り組むことはないが、その代わりにNGOが市内での援助に力を集中させるよう指揮してきたという。「我々は他の団体とカブール市の都市計画について何をするべきか話し合ってきました。UNHCRが直接この問題に関与することはありませんが、他の団体、同様に都市計画を取り扱う官庁と協力する団体が存在します。」とシノハラ報道官は語った。

こうしたしたNGOの一つにACTEDがある。ACTEDは援助と住宅供給の支援を行う国際援助団体であるが、1993年からカブール市内で活動を行ってきた。現在ACTEDはカブールの北方、ショマリ平野に人々を再定住させるという野心的な計画に参加している。この平野はかつては肥沃な地域であったが、現在は旱魃と戦争によって荒れ果てて、無人地帯となっている。

ACTEDのカントリーマネージャーである、フランス人のシリル・デュプレ(Cyril Dupre)はカブールに在住している。彼はカブールの難民達の状態に同情的であるが、この問題に取り組むにはNGOの資源が不足している、と語った。「我々は500の住宅をカブール市内に作ることから始めてきました。住宅を建設した地域は紛争により完全に破壊されてしまったいくつかの地域で、例えば3番地区や7番地区といった地域です。今や問題はカブールで活動を行う援助団体に大きな団体、とりわけ住宅を建設するような大きな団体がほとんど無いということなのです。住宅を建設するようなNGOはせいぜいが二つか三つだけです。」こういったこと全ては65歳のタザグル(Tazagul)にとって少しの慰めにもならない。彼と彼の家族4人は7月に20年以上住んでいたパキスタンのキャンプからカブールに帰国してきた。カブールの彼の家とは一つのテントにいくつかの毛布、そして家畜の糞を燃料とした火にかけるヤカンといったものに過ぎない。かれはパキスタンを去ってからこのかた、彼ら家族が受けた国際援助を数え上げた。「私達はパキスタンからこの国に戻る時に10万アフガニ(およそ2ドル)、一つのテントと二つの毛布をUNHCRから受け取っただけです。それだけです。小麦すらもらいませんでした。」タザグルは言った。

タザグルは彼がアフガン国外で20年も生活したが、アメリカ軍がアフガニスタン国内にいて、前国王のザヒル・シャーが帰国したと聞いたときに帰国を決意したのだという。「私は多くの政府がこの国を通り過ぎていった間も帰国しませんでした。私はパキスタンにいましたが、誰も私達に注意を向けようとするものはいませんでした。しかしアメリカ人が私達の国に入り、ザヒル・シャーが国に戻ったと知ってから、私も故郷に戻ったのです。たくさんの問題を抱えていますが私は今や自分の国に住んでいるのです。もうこれ以上どこにも行けませんし、行くつもりもありません。」タザグルは語った。
しかし彼は、援助を受け取ることができなければ、自分自身と家族が冬の間にカブールに留まることはできなくなるだろう、と語った。多分ジャララバードに向かうだろうと言う。ジャララバードは冬でももっと暖かく、そこで国際支援の恩恵を受けることができるかもしれないから、と彼は語った。


 

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