支援断たれたアフガン難民の苦境

 

〜WEB上の記事から〜
2001.4.8 <The Tront Star> : By Martin Regg Cohn
「パキスタンキャンプに囚われて・・・国連援助をカットされた難民キャンプ」


2001.4.20 <NZZ Online> :by Markus Spillmann
「 援助無き避難の場合・・ジャロザイ:パキスタン北西部のアフガン人の事件」
原文はこちら:www.nzz.ch/english/background/2001/04/14_afghanistan.html


写真:ジャロザイの難民キャンプ
  The Afghan Women's Missionwww.afghanwomensmission.org/jalozai/

写真:ヘラートの難民キャンプ他
 TIME.COM www.time.com/time/photoessays/afghan/photo_01.html



訳者コメント:

アフガニスタン、パキスタンでは早くも夏の様相を見せ始めています。
冬に寒さに苦しんだ難民、国内避難民達は今度は日中は50度を超える猛暑に襲われており、パキスタンのジャロザイ難民キャンプでは猛暑による死者が続出しています。

ジャロザイ難民キャンプ場はキャンプ場とは名ばかりの単なる空き地です。およそ8万人の人々がプラスチックシートをかぶせただけのテントに生活しています。
満足な水も、炊事場も、トイレもない空き地にぎっしりと8万人分が暮らすテントが見渡す限り広がっています。


現地UNHCRスタッフが「死のキャンプ」と呼んだ、このジャロザイの難民キャンプではパキスタン政府当局の難民対策によって意図的に国連の援助活動が妨害されていることでも有名です。

WEBの記事からも理解できるポイントを2点列挙します

  • ジャロザイの8万人の人々はアフガニスタン国内の内戦と干ばつから着の身着のままで逃れてきた人々である。彼らは明らかに国際法上の難民であり、パキスタンと国際社会は彼らを難民と認定して適切な援助をする義務を持つ。

  • パキスタン政府が国内にアフガン難民をこれ以上受け入れることについて憂慮していることには一定の根拠があるとはいえ、彼らアフガン難民が国外に脱出する経緯についてはパキスタン当局にも責任の一端がある。
    内戦についてはタリバンに責任があり、このタリバンを物的/人的に支援してきたのはパキスタンである。パキスタンの援助無しにタリバンは内戦を継続できなかった、とする多くの見解がある。同様にこの3年間続いた干ばつ対策にタリバンが戦争につぎ込んだ戦費を投じていれば、難民の多くは国内に留まることができたはずである。この点についてもパキスタンのタリバン援助のあり方に責任がある。



01.4.8
The Tront Star
By Martin Regg Cohn

パキスタンキャンプに囚われて...国連援助をカットされた難民キャンプ


ジャロザイ、パキスタン
彼らはプラスチックシートの下に身を寄せあい、毎日最低でも1家族は子供を亡くしている。資金不足や、設備が手に入らないことが理由ではない。理由はパキスタンが彼らを一つの例証としたいがためである。6ヶ月間の間、何千家族もが隣国アフガニスタンを脅かしている飢饉と戦闘から逃げてくるが、彼らは”プラスティック・シティ”として知られるこのキャンプでが行き止まりであることを知る以外になすすべはない。今やパキスタンはこれ以上の難民を保護することを拒んでいる。
最初パキスタン当局は国境を封鎖した。そして絶望した難民達がひそかに国境を越えて流れ込むことを阻止することに失敗すると、軍事政権(訳注:パキスタンの)はこうした難民達が存在しないと偽った。パキスタンに流れ込んできたアフガン難民の数は昨年秋から25万を超える。
今日、8万人が墓地に面した吹きさらしの埃っぽい野原、ここペシャワールの南西30キロの地にぎっしりと詰め込まれている。むさ苦しいこの地に水は無い。
そして雨が降ると、フィルムのように薄手のテントは押し流され、便所が水で溢れかえり、埃が泥の海となって、人々のびしょ濡れの所有品を飲み込んだ。堆積物は墓地にまで流れ込んだ。

ジャロザイがユニークな点は、その悲惨さの度合いが偶然の産物ではなく、計画の一部であるという点にある。パキスタン当局はいまだにパキスタンに避難しようとしているさらに数千の難民達へのメッセージとしてジャロザイの人々の状況を活用するために、ジャロザイの人々を故意に法的に無視できる状態に置き続けている。公式には彼らジャロザイの難民達は何者か規定されていない。彼らは公的に難民としての資格、及び保護を拒否され、国連の救援がカットされている。
パキスタンの国境沿いの町々では他の大勢の難民達が脅かされている。彼らアフガン人は頻繁に公的な書類無しで駆り集められ、国外追放されてきた。旧来の移住者たち(訳注:アフガンからの)も政府が土地を私企業の不動産事業者へ提供することによって、土地から追い払われる脅威にさらされている。
「こうした人々はパキスタンを緑溢れる地と考えるが、私たちは彼らを思いとどまらせたいのです」とパキスタン軍政府のMoinuddin Haider内相は語った。「私たちの国は貧しく、すでに莫大な負担となっており、私たちの国単独ではこの負担を負うことはできないのです。」アフガンの20年にわたる争乱によってパキスタンには長期にわたって難民が流入したが、この長期にわたる難民達への長期にわたる資金提供は尽き果ててしまい、パキスタンはジャロザイに値を付けようとしている。


パキスタンはいわゆる”ドナー疲れ”に対して抗議してきたが、国連はこれに対して数百万ドルを新たに到着した難民用に準備したと主張して、パキスタン軍政府に緊急援助することを嘆願してきた。いまだ、地方政府当局は共同行動を取ることを拒否している。ジャロザイの8万人はパキスタンにとって有力な切り札となっているのだ。
「子供たちが無意味に死んでゆく。」UNCHRの報道官であるKris Janowskiは語る。国連のアナン事務総長でさえどうすることもできない。アナンは先月パキスタンを訪れたが、彼が個人的に要請したにもかかわらず、キャンプに行くことを拒否された。
国連は内戦による戦闘が激しくなる一方で、今生きている人々の記憶の限りでは過去最悪といわれる干ばつがさらにアフガンの100万人以上の人々に深刻な影響を与えると警告を発している。過去数ヶ月で50万のアフガン人が食料を求めて国境沿いに、あるいはパキスタン国境を越えて流れ込んできた。国連職員は1月に本当の難民の実数を把握し、国連の主張を実証するためにジャロザイの人々を仕切りで(外部と)隔離しようとした。しかし、保護を受けようとする膨大な数の人々を調査する最初の段階で国連職員はパキスタンから調査を中止させられた。
そして難民達は衰弱を続けている。何千もの間に合わせのテントが雨によって壊され、人々は近隣のモスクへの避難を余儀なくされた。「我々がどのように生活しているか見てください、我々のテントの様子を」年老いた一人の女性が、近くを通りかかった外国人を見て大声で泣き叫んだ。「お金さえあれば、こんな生活をするよりもアフガンに戻って死にたい」Mir Rahmatullah(43歳)はジャロザイの入り口近くのテント群の一つの中で語った。彼は家族が死ぬことを避けるためにアフガンから避難してきた。しかし、ここに到着して間もなく彼の8歳の息子は病気で医療を受けることができなかったために死ぬこととなった。その子、Liakatは下痢と嘔吐におそわれ、36時間後に亡くなった。医療も水も、適切な衛生設備も無く、少年はここで何百もの避けることが可能な犠牲者の一人となった、とパキスタン当局が認めた数人の外国の援助団体職員が言った。


「ここの人々に未来は無い」Auyb Afridi医師は母親になったばかりの女性達と栄養不良の幼児の列を移動診療所で見ながら語った。その診療所は「国境無き医師団(MSF)」の医師達の緊急援助で用意されたものである。子供たちの多くは健康体の70%の体重で食料補給を必要としている。不潔な手で食事を取るため1日1名は犠牲となる、とAfrid医師の同僚であるAssad Menapal医師は言う。
Rahmatullahにとって彼の子の死は最後の屈辱でしかない。子供の死に先立つこのような日々の最初の日に、パキスタン国境警備隊は彼と彼の家族を殴り、国境を通す際に賄賂を要求した。彼は最初、1980年代にソビエトの侵略によるコミュニストのアフガン占領と戦った英雄的なモジャヒディンとしてパキスタンに入ったが、この時との対照的な違いに驚いている。今日でもアフガンは不安定なままであり、パキスタンに支援されたタリバン政権が反タリバン派と対立していつまでも内戦を続けており、これにより彼は再度避難せざる得なかった。「以前は我々は何の問題も無かった。」Rahmatullahは思い起こす。「我々は食料と薬と配給、テント、医療、を受け取った。そして銃も。」しかし今回は手を広げて迎えられる代わりに拒否されることになった。「国境を越えて以来、パキスタン政府は我々に棍棒を見せつけている」と彼は言う。「私には何故なのか理解できない。前は我々は武器をおおっぴらに持っていても歓迎されたのに、今は侵入者として脅されている。」
パキスタンはそうした疑問は状況の変化によって生まれるものだ、という。政府が言うには既に2百万人を越えるアフガン難民を国内に抱え、パキスタンのように貧しい国家にはそのような期限の無い重荷を担うだけの資源は存在しない、と論じる。
しかし国連はパキスタンの強硬な姿勢に対して明確に怒りを表し、難民数は130万人近くであり、世界は救援を続ける意思を持っている、と指摘する。国連職員は難民を質にして約束を取り付けるようなことは不可能であり、またパキスタンは近隣諸国の中で権力政治をもてあそんでタリバン支援しており、隣国で続く不安定な状態に対して最低でも倫理的な責任を持っている、と論じた。


内戦によって多くの人々が田畑を捨てて、アフガン国内で一時的に避難場所を求めて逃げることを強いられた。しかしこれに続いて、干ばつによる状況の悪化、食料不足や占領地域におけるタリバンの焦土作戦といったことが人々に対して国内で食料を入手することを諦めさせてしまった。「紛争が第一の原因であり、干ばつが彼らの多くをさらに遠くへと追い立てた」とパキスタンのUNHCR報道官のYusuf Hasanは言う。「何千人もの人々が毎月やってきている。彼らはひそかにやってきて、ジャロザイのような場所に静かに現れる。」適切な支援が無ければ、アフガン人はパキスタンの新しい下層階級となり、物乞いかゴミ漁りに身をやつすしかない。しかしパキスタンはジャロザイで最後の手に出ることを決意した。
「恒久的なキャンプとはアフガン国内での恒久的な居住地での恒久的な住宅を意味する。」とHaider外相は説明する。だからキャンプ地が根を下ろすことはできず、彼は難民に帰国をせきたてて、難民達のもはや生きてゆくことができない、という嘆願を排除する。「私はカブールに行ってきたし、カンダハルにも行った。」彼はイスラマバードの執務室で茶を飲みながら語る。「そこでの生活は世界のどこと比較してもごく普通なものだ。(アフガン)政府は有能だ。我々はかの地が十分に平和であることを確信している。」彼の強硬路線は自由主義者達、(難民の)救援プロセスが致命的に弱体化してしまうことを恐れている人々の怒りを買った。こうした人々は、軍事的な干渉と情報機関による介入によって国を破壊されてきた人々に対してパキスタンは道義的な義務を持つ、と考えている。「パキスタンはこの責任から逃れることはできないのです。何故ならアフガニスタンにおいては重要な地域的役割を果たしているからです。」とHuman Rights Commission of Pakistan の総裁であるAfrasiab Khattakは言う。「全員を救援することができないことは知っている。しかし彼ら(アフガン人)はこの国にいて、かつ彼らは人間なのです。私たちは人道的なアプローチをしなければならない。」


ジャロザイの人々にとって選択肢は無い。世界が彼らを支援するか、彼らが死ぬのを見るか、どちらにしてもである。「人々が左、右、真中で死んでゆく」カブール北部のPaghmanから来た麦を栽培していた農民である38歳のIsmail Khanは言う。「全てアラーの手の内にある」Khanは冷静にプラスチックシートのテントの下で言う。その間に合わせのテントには子供たちがおり、ハエが群れをなしている。「私たちの命は一本の細い線です。私たちの生き死にはもはや私たちの手に無い。私は政府が私たちをこのままにしておくか、助けるのか知らない。」Khanもまたかつては彼の子供らがいつかより良い生活をすることを想像しながらソヴィエトの占領に抵抗して戦ったことがある。今や彼は何も所有していない。「私の家はロシア人に破壊され、畑は干ばつで駄目になった。」と彼は説明する。
難民達の状況を尋ねると、Haider外相は状況を緩和する安心材料を提示した。彼は衛生設備と生活環境は前進するだろうと見ている。「私はもちろん管理者に話すことはできる。」彼はうちとけた感じで語った。「確かに私は彼に、(難民の)保護するよう保証せよ、と言うことはできるのです。」


2001.4.20
NZZ Online 
by Markus Spillmann

援助無き避難の場合...ジャロザイ:パキスタン北西部のアフガン人の事件




アフガン北東部での戦争、干ばつによる荒廃、そしてこの年の寒波によって再び何万もの人々が故郷を捨てることを強いられている。多くのものは国を離れ、その大半はイラン、パキスタンへと向かう。ペシャワール近郊のジャロザイでは8万人の難民が最も悲惨な状況で生活している

老人はステッキにつかまり、ぼろぼろになった靴を履いていた。彼は手探りででこぼこの泥の上をおぼつかない足取りで横切った。穏やかな声でこのアフガン人は食糧・水の不足、援助が無いことを訴えた。この老人はほんの数日前に山を越えてパキスタンに入ってきたばかりだった。彼は何歳なのだろうか?70、あるいはそれ以上?彼自身も確かなことは分からない。しかしそれは問題ではない。ここでは年をもはや数えない、問題なのは月数、おそらく週の数でしかない。彼が再び故郷を見ることは決して無いだろう。おそらくはここ、パキスタン北西部のジャロザイの埃っぽいゴミの中で死に、薄っぺらな毛布、またはプラスチックシートに包まれてむき出しの大地の上に横たわっているだろう。天候から彼を守るものといえばそうしたプラスチックシートの類だけである。

キャンプの管理責任者には何も打つ手が無いように見える。彼はこのような老人に何も与えるものを持っていない。このような状況はこの管理責任者にとって苦痛である。彼の後ろにはボードがかけられ、そこには援助団体の略称名が書かれているが、文字は薄れて消えかけてから随分経っているように見える。最後に彼は書類の束から1枚の紙を引き抜いて、素早く何かを書いた。その紙を老人に渡すと、その紙でバザールで何か得ることができる、ということを伝えた。この管理者ができることはそれだけであった。


ジャロザイは、北西部辺境州の首府であるペシャワールの南西約35キロに位置する。今から数年前よりおよそ5万人のアフガン人が簡素な泥の家でここに暮らしてきていた。彼らの中には1980年代のソヴィエト侵攻後に難民としてやってきた者もいる。彼らの多くはパキスタン国内で質素な生活を何とか自力で支えている。
彼らは野菜や文房具や石鹸を売り買いし、両替商として振舞ったり、近郊のカイバル峠を越えて日常品を密輸したりしている。パキスタンにいたるこうした街道沿いにはここ数年、ちょっとした貴金属や木材加工品、ドラッグなどが見られるようになった。
ここのところ、ジャロザイで泥の家に住むこうした人々は自分達が幸運であるように思える。村の外に広がる平地(灰色でその表面は渇いて埃っぽいか、雨の後はくるぶしまで沈む泥の平地)でほんの数百メートル隔てて、8万人の別の難民達が吹きさらしの状態でキャンプをしている。彼らのうちたいていの者はアフガン−パキスタン国境地帯の雪山を越える長い道のりを通してやってくるのだが、この道程で持ってくることのできた幾つかの所持品以外に何も持っていない。彼らは戦闘から、今年の特に厳しい冬から、しかし何よりもアフガニスタンと周辺諸国を悩ませている3年にわたるひどい干ばつからのがれてやって来た。
これらの人々のほとんどがむなしく援助を待ちつづけてきた。UNHCRは560の便所を掘り、日に24万リットルの水をタンクローリーで供給している。一方でMSF(国境無き医師団)とパキスタンの援助グループが3つの簡素なヘルスステーションを運営している。しかしキャンプの規模と日々さらに難民が到着することを考慮すれば、こうした手立ては文字通りバケツの中の一滴にすぎない。伝えられるところによると、死亡率は高く、2月と3月だけで40人の名が死亡者登記簿に登録されたという。死因の最も大きなものは肺炎、下痢、麻疹、過労であり、数回は個別の事例ではあるがコレラの発生も報告されている。(訳注:" there have reportedly also been some isolated outbreaks of choleras.")
3つのヘルスステーションはこのキャンプの中で唯一しっかりしたテント小屋からなる建築物である。このヘルスセンターのうちの一つのすぐ外には、50人が一つの屋根(シェルター)の下に住んでいる。この屋根は間に合わせにプラスチックシートや服のボロをつぎはぎからできている。彼らはこの屋根の下で眠り、雨が降らない間はなんとかしのぐことができる。しかしここ数ヶ月間に雨が繰り返し降り、最後のひどい冬の寒波が去った後では、今や近づきつつあるパキスタンの夏の焼け付くような暑さに脅かされている。今ですら温度計は毎日30度まで上り詰める。



●イスラム神学校からの援助も無く
No Help from the Koran Schools
我々がどんどん増える男達の群集に囲まれて簡易テント群の中を歩いて通り抜けると、ヴェールに完全に覆われた女性達が急いで姿を隠す。ブルカはいたるところに目に付く。それは女性の体を目の周りに小さく開いた部分を除いて女性の体全体を隠す、大きな袋のような服である。幼い子供たちが非常に多い。膨大なハエの群れがぶんぶんと子供たちの頭の上を飛んでいる。汗と糞と何か醗酵した匂いが交じり合ったような異臭がある。私は男達に何を食べるものがあるか尋ねた。パン、水に浸した乾燥したパン、というたくさんの声が返ってきた。それとほとんど肉が入っていないスープが時々。
Abdul Mohammedはアフガン北部からやってきて、このキャンプ地で3ヶ月になるが2つの小さな包みを持って、私たちのほうへ憤慨した様子で近づいてきた。包みはおよそ150グラムの豆と米で、それは彼がこのキャンプの一部で食料配布を行ったパキスタンの援助団体から前日に受け取ったものだった。この包みは7人用のようだ。
このような援助配給品は、報道陣へのアピールという観点からしばしば取り組まれて、時折配布される。ほんとに不足しているのはテレビカメラが回っていないときでも行われるような適切な難民のケアとしっかりとしたインフラである。我々は最低でもイスラム系の団体、ペシャワール近郊に点在する神学校のようなところから何か援助はやってこないのか訪ねた。そうした神学校からタリバンは兵士をリクルートしているのだ。男達は手を振って否定した。
彼らの話しの大半は類似している。こうした人々の多くはアフガンでは農民であって、わずかな土地を所有し、おそらくは数匹の家畜を飼っていた。彼らは家族とともに戦争か、または干ばつ、寒さ、またはそれらの組み合わせから逃れてきたが、もはや自給することができなくなったことが常に理由となっている。男達の中にはモジャヒディンとして共産軍と戦った者もおり、難しい聞き込みであったが、その質問の結果タリバンの軍や反タリバン派の軍である北部同盟の軍に入っていたものもいた。
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のイスラマバードの地域担当報道官であるユスフ・ハサンによるとジャロザイの難民の3分の2がアフガン北東部の出身で、多くは民族的にタジク人、またはウズベク人である。一方で中央高地のイスラム教シーア派のハザラ人は、イスラム教スンニ派であるタリバンの抑圧から逃れるためにイランへ避難する傾向があるという。しかし少ない数だが難民の中にはパシュトン人もいる。彼らのうち、イスラム神学校の生徒はほとんど兵員徴募されている。

我々はジャロザイキャンプ場の男達に収容されている者達のの間で揉め事は起こっていないのか質問した。無い、と彼らのスポークスマンは言った。ここでは誰もがただのアフガン人であって、民族的な親近感や政治的な親近感抜きで皆が同じ運命を共有している、と彼は語った。我々はもちろんこの説明を証明することはできないが、人々が消耗している全体的な状況を考えれば、人々が内部抗争にあてる時間やエネルギーを持っているとは思えない。しかし彼らは道を隔てて泥のうちに住んでいる「古い(OLD)」難民については良く言わない。「あの人達は」、と彼らは言う。「新参者についてはまったく気に留めていない。私たちと接触も無いし、自分達だけでやっている」
カリムはそうした「古い」難民の一人である。彼はキャンプへ荷車で運んできた玉ねぎをキロあたり5ルピーで売っている。彼自身はカブールからやってきた。今ではパキスタンに住んで8ヶ月になるが、費用がどれほどであろうと戻りたいとは思っていない。村での彼の家の家賃は300ルピーで、いい日には60ルピーを稼ぐことができる。十分ではない、と彼は不平を漏らすが、持ち帰る稼ぎはそれほど悪くない。



●パキスタンのダブルスタンダード
最初見た時にはなぜアフガン人達がジャロザイに足止めされ、新しいShamshatooキャンプ場に送られないのか理解できなかった。Shamshatooキャンプ場はUNHCRによって1999年から運営されているのだ。このShamshatooは今では6万人の人々が収容されており、ほんの数キロ離れた丘の上にある。そこには沢山のテントや泥の家があり、比較的適切な衛生施設と水をくみ上げるポンプ、学校、職業訓練用の工場、といったものがある。ユスフ・ハサンが説明するところではパキスタン政府は1月に国連のジャロザイにおける難民数の確認を中止させて、Shamshatooへこれ以上難民を移送することを拒否した。かれはカイバル峠を越えてアフガン本国に強制送還された人々がいることも強調した。
地方当局の行動の背後にある抑止政策に気づくにはさほどの想像力は必要ない。パキスタンは既に200万を越えるアフガン人のホスト国となってきたし、そうしたアフガン人の中には難民として数十年もパキスタンに住んでいる人々もいる。国連によれば2000年9月から彼らアフガン難民の数は17万追加された。最も大きな影響を受けたのは、今や難民の85%が住む北西部辺境州(NWFP)であり、バルチスタン地方がこれに続く。これらの地方でも干ばつの大きな被害を受けており、新しい大規模な難民の流入をやりくりする手立てがますます不足していることに疑いの余地は無い。地方政府は自分達が見捨てられたと感じており、また州内での民族的な緊張や否定的な政治状況がもたらされることを恐れている。パキスタンの軍政当局、ムシャラフ将軍が最近アナン国連事務総長にこれ以上難民をアフガンへ本国送還しないことを保証したにもかかわらず、地方州政府は強硬な立場を取っている。カイバル峠を横切る国境は2000年9月から「原則的に」難民に対しては閉鎖され、パキスタン政府職員はアフガニスタンにおいて問題は「かの地では」解決したはずだ、と主張する。パキスタン政府職員曰く、そこにはイスラマバードに承認・支援された政府−タリバンと平和が存在する。この観点からは人々が経済的な理由以外に逃げ出す理由は無い。

パキスタン政府が傲慢にも見落としていることは彼らのアフガン政策におけるダブルスタンダードである。アフガン全土の支配をめぐる内戦のなかで、タリバンはパキスタンの政治的・軍事的支援を頼りにしている。パキスタン軍と軍の専門家がデュランドラインの向こう側に加わっていることは公然の秘密である(訳注:デュランドライン=パキスタン・アフガン国境線)。タリバンが自分達の民衆を保護する能力が無ければ、アフガン北東部から戦闘によって故郷を追われたこうした人々の状況を改善しようとする何らの意図も持っていないことは暗黙のうちに無視されている。ジャロザイは一つの兆候である。それは事件の原因であり、しかしアフガニスタンについての虚偽であり、パキスタン政府はここジャロザイの状況について責任を共有している。


●アフガン国内での飢餓の脅威
いったいどのくらいの人々が現在アフガン国内で避難しているのか誰にも分からない。国連は国際赤十字と同様に難民と国内避難民を区別するが、その数をおよそ70万人と推定している。そのうちの多くは避難したり亡命することが最初のことではない。
国連のアフガン人道援助調整計画の報道官、ステファニ・バンカーは北部同盟支配下のアフガン北西部の端では昔から住んでいた故郷を追われた人々が10万人いる。これとは別に北西部タリバン支配下の地域、特にマザリシャリフ付近に17万人がいる。今や数ヶ月もの間、1万4千人がPyandzh川の島に包囲されている。彼らはタジキスタンとアフガンの間の無人島に閉じ込められており、武装した北部連合の兵士が彼ら難民の中に混在していて、タリバンが島に向けて発砲を繰り返しているため、国連が救援することは非常に困難である。北西部ヘラート周辺のキャンプ地にはもう11万の人々が生活しており、バーミアンを中心にした中央高地のハザラジャット地方では10万を超える人々がいる。南部では6万以上の難民と家を失った人々が現在保護されている。

。こうした数字は昨年の調査に基づいており、常に更新されている、とステファニ・バンカーは言う。おそらく北部や北東部の僻地の村々で数万の人々が困窮しているのだが、彼らを特定できる人はいない。なぜならそうした地方は全体として積雪が数メートルもあって実質的に立ち入ることができないからだ。
問題となっているのは難民の数の側面だけではない。事は複雑である。一つには人々が故郷を離れることを促す要因、複数の相互に補強し合う要因があり、他方には難民、家を失った人々が地理的に広範に散らばっているということがある。一箇所に14家族が生活するところもあれば、数キロ離れたところに1400人が助けを必要としている、ということもある。こうした事態は物流上の大きな問題を引き起こす。この国では道路は最初から整備されてこなかったうえ、二十年にわたる内戦の後で今やとんでもない状態になっているのだ。援助物資の空中投下が最後の手段だ、とバンカーは言った。彼女は状況が7月から悪化すること、特に食糧供給の面で悪化することを恐れている。今や全ては5月の収穫がどうなるかにかかってくるだろう、とアメリカ人の援助団体職員は語る。昨年はアフガニスタンで必要とされる小麦粉、全4百万トンのうち、230万トンが不足した。倉庫は空っぽになり、複数の援助団体の意見がこの国が深刻な飢饉に直面する、という点で一致した。

それにもかかわらず、国際社会に援助を求めるアピールはこれまでほとんど反応らしいものを引き出してこなかった。3月のアフガンの仏像破壊に対する世界中の憤りと途方も無く対照的に、1年に及ぶ難民の事件にはさしたる注意も払われていない。国連への2億1800万ドルの予算のうち、得られたのはこれまでのところ1億ドルのみである。他の地域でも援助が必要とされているということと、ドナー国は全般的にこうしたピールに対して敏感になりつつあるということを別にしても、タリバンの強硬姿勢、相争う党派が和平にいたる能力が無いこと、国連安保理の課した制裁、こうしたこと全てが難民にとって致命的になりかねないおおきな要因となってきた。


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