From: "辺野古命を守る会" <henoko@f5.dion.ne.jp>
To: <"Undisclosed-Recipient:;;"@mx-list.jca.ne.jp>
Date: Wed, 20 Oct 2004 12:00:02 +0900

Subject: [keystone 9695] 阻止行動183日日誌。砂川の土地闘争。
X-BeenThere: keystone@list.jca.apc.org


10月18日(月)
・台風23号が近づいているため阻止行動は行なわれていません。

台風23号の接近で辺野古もすごく荒れています。海は波の高さが5〜6mにも達し
ます。漁港が波によって飲み込まれていくようです。
風が強いため座り込みテントは解体し、命を守る会事務所前での座り込みとなりまし
た。防衛施設局にによる調査もなかったため座り込みはにぎやかです。
午前から来訪者が多く、民主商工会の方々や日本山妙法寺の方々、沖縄の大学生も数
人来ていました。
妙法寺の人達は「平和行脚」のために沖縄を歩いていてそのあいまに座り込みに立ち
寄ってくれました。妙法寺の人達の中のNさんはこの8年間、毎日キャンプシュワブ
の前で基地の撤去と基地建設反対を訴えて座り続けてきました。
座り込みに座り、妙法寺の方から「砂川闘争」についての話がありました。

・(砂川闘争の説明。他のページから抜粋)
[米軍占領期から続いた旧日本軍基地の米軍継続使用は講和条約の発効以後に住民に
よる反対闘争を巻き起こした。
 その契機となったのは、無期限継続使用を断念させるに至った1952-53年の内灘闘
争であるが、その後、反対闘争は53年浅間山基地化反対闘争、55年妙義山接収計画反
対闘争(いづれも計画断念)へと続いた。
 その中でも激烈を極めたのが、1955年から1957年にわたって繰り広げられた「砂川
闘争」である。
事の起こりは、米軍が1954(昭和29)年に立川飛行場の拡張を要請し鳩山内閣が了承し
測量を開始したことにある。
 当時の東京都北多摩郡砂川町(後に立川市と合併)議会が反対決議を行い、測量反対
闘争が開始された。1956年10月には警官隊と住民との全面対決により1000名を越す負
傷者を出し、砂川の地は住民の血で染まった。世論も砂川住民を支持したため、中央
政府は測量を中断。
 57年7月に測量を再開した直後、基地に侵入したとして7名を刑事特別法違反で起訴
した。
 東京地裁は米軍駐留を違憲とし7名に無罪判決を下したが、検察側が跳躍上告を行
い最高裁判所は憲法判断を回避し原判決を破棄差戻しとし、63年には被告全員に有罪
判決を下した。
 しかし、結局は米軍は基地拡張を断念し、その後基地自体も返還。]

妙法寺の人達はその当時、砂川に参加して太鼓をたたいていたそうです。
「鉄カブトをかぶった機動隊の中に響く太鼓の音。坊主頭が突き進む。機動隊のケン
ボウで頭を割られ、額に血がにじんでもても進んだ。辺野古の現在のように多くの
人々が集い闘った。その不屈の抵抗は勝利へと繋がり基地建設を阻みました。」と妙
法寺の方。
「砂川の歴史の記録」の一文にこんなことが書かれていました。
「8月24日には、五日市街道で測量隊の車と阻止のピケットが激しく揉みあい、警
視庁予備隊(現・機動隊)が出動。二名が検束され、十数名の負傷者を出した。初め
ての衝突である。
その日、妙義山で基地反対闘争をしていた日本山妙法寺の僧侶が藤井日達上人を先頭
に支援に駆けつけ、以来、僧侶たちの団扇太鼓が拡張予定地内に鳴り響くようになっ
た。」

砂川の話しを聞き、砂川闘争のことを調べていると、とても印象に残る言葉が出てき
ました。
[8月中を予定していた予備測量を行うことができなかった調達局は、9月13日か
ら10月30日に測量を行うと通達。
13日の早朝からはじまった警官隊との攻防は数十人の負傷者と検束者三名を出しな
がら、夕方5時過ぎまで一進一退を繰り返した。この日、五日市街道は反対同盟と警
官隊の双方合わせて五千人の人並みで埋まった。
翌14日、この日の警官隊は全員鉄カブトで武装し、人員も1800人と大幅に増員
してなだれ込んできた。あらかじめ五日市街道の東西両側を遮断して、支援の労組員
の道をふさぎ、反対同盟のリーダーを集中的に逮捕するという作戦をとった。この結
果、測量隊は午前中のうちに予定の予備測量を完了した。
この二日間の衝突は、砂川住民に深刻なダメージを与えた。約30人の逮捕者を出し
たうえに予備測量が強行され、基地拡張予定地の区域が具体的に決定したのだ。これ
によって土地収用法が適用可能になり、手続きが完了すれば土地は取り上げられる事
になる。
闘争からの離脱者が続出した。条件派と呼ばれる住民の動きも活発になり、町議会も
分裂した。砂川闘争の初めての危機であった。
だが、この混乱は反対同盟の結束をより強固なものにした。行動隊長・青木市五郎氏
は、強行測量直後に声を張り上げて言った。
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」と。
 ――この言葉が、砂川闘争の合言葉になった。]

・「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
この言葉は辺野古でも同時に生きているものです。祐治さん(命を守る会代表)は
「貧乏人には貧乏人なりの闘い方がある。」と私達に語りました。
この二つの言葉はこの闘いを象徴するような言葉と感じます。

座り込みは午後になり、「環境アセスメント学会」の方々が来訪され座り込みに参加
していきました。マキシさんやアシトミさんが説明をし、現在の調査がいかに環境ア
セスメントを無視した違法な調査であるかを訴えていました。
どうか、この思い繋がってほしいと思います。