「科学・社会・人間」2001年1号(75号)より抜粋

二十世紀最後の戦争『セルビア大空襲』

空爆直後のユーゴを往く

藤田祐幸         
「科学・社会・人間」事務局
横浜市港北区日吉4-1-1
慶応大学日吉物理教室

○添付図:劣化ウラン弾使用地点記載ユーゴスラビア・コソボ自治州周辺地図
○添付図:旧ユーゴスラビア周辺地図

 1999年3月24日、米国を主体とするNATO軍は、コソボ地区のアルバニア系住民がセルビア人(ユーゴ政府)による人道的被害を受けているとして、猛烈な空爆に踏み切った。空爆は84日間続き、出撃した空軍機は997機、出撃回数は延べ3万5219回に及んだ。この攻撃に参加した米軍兵士は3万6300人、米軍の戦費は60億ドル(約720億円)であったとされている。空爆によるユーゴスラビア側の死者は5000人程度であるとNATO側は推測しており、ユーゴ側は民間人の死者だけで2000人に達すると主張している。
 戦争の世紀と呼ばれる二十世紀の最後の戦争だった。しかしこれは戦争と呼ぶには余りにも一方的であった。NATO軍の圧倒的軍事力の前にセルビア側はただひたすら耐えるのみであった。ヨーロッパではこれをなぜか『バルカン戦争』と呼ぶ。しかし私は、あえて『セルビア大空襲』と呼ぶことにしている。
 米軍はこの軍事介入に際し、約3万1000発の劣化ウラン弾を使用したことを明らかにしている。これまで米軍はイラク戦争(湾岸戦争)で大量の劣化ウラン弾を使用したことが問題となっており、ボスニア・ヘルツェゴビナでも1万8000発を使用したことが明らかとなっている。私は、テレビ局(TBS)の取材に同行し、現地で劣化ウランの調査を行うため、空爆停止から約70日後の8月21日に成田を出発した。

(中略)

 ・・・(コソボ)州都プリシュチナ市内の市庁舎や政府機関の建物は執拗な爆撃により徹底的に破壊されていた。私たちは劣化ウラン弾の痕跡を破壊された戦車に求め、郊外の農村のいくつかを訪ねた。・・・
 我々の劣化ウラン弾の調査は、破壊されたセルビア軍の戦車を発見しても、地雷の危険があるため、はかどらなかった。わずか数メートルの草むらを進むことが出来ず、戦車の調査をみすみす見送ることもあった。それでも六台のユーゴ軍の破壊された戦車を見つけ、その周辺と内部の放射線調査を行った。しかし、どこでも放射線の異常は検出されなかった。限られた状況の中での調査には限界があった。進駐していたNATO軍(KFOR)にも情報はなかった。遠くに響く地雷の爆破音を耳にしながら、私たちは26日に再びベオグラードに向かった。長期滞在は危険であった。
 多量の劣化ウラン弾が打ち込まれたことは確かなことで、たまたま遭遇した戦車でその痕跡を発見できなかっただけであり、恐らく的を外れた大量の劣化ウラン弾はそのままあの豊かな柔らかい大地深く突き刺さっているのだろう。そうであれば、これから時間と共に水と反応しじわじわと環境に滲み出してくることになる。この地中深く突き刺さった弾丸を捜し出して撤去することは不可能であるように思われる。今はなによりも地雷の除去が優先される。

ビンチェ原子力研究所
 空爆はコソボ州だけではなくユーゴ全域に及び、特に首都のベオグラードは激しい空爆の標的となった。
 私たちはここでも劣化ウラン弾の情報を求め続け、ついにユーゴの首都のベオグラード郊外にあるビンチェ(Vince)の原子力研究所にそれがあることを聞き込み取材に向かった。
 出発前にこの研究所が空爆の標的になっていることを聞いていた。もし破壊されれば大量の放射能が環境に放出される恐れがあった。しかし、幸いなことに研究所は無傷だった。私たちはそこで、ユーゴ軍が州境付近で回収した二発の劣化ウラン弾を見ることができた。軍が調査のために研究所に持ち込んだものだという。直径3センチ、長さ10センチ、重さ300グラムほどの弾頭である。

(写真1。右が劣化ウラン弾頭。左のケースをはめて中央の形で使用する)。

 放射線探知器は1メートルほどの距離から激しく警報音をたてはじめ、近づけると7マイクロ・シーベルト程度にまで上がった。この周辺の正常値(80ナノ・シーベルト)に比べて百倍ほど高い。
 我々はガンマ線を測定しただけだが、研究所の職員はベータ線検知器を持ち出して測定してみせた。数値はよく分からなかったが、大変高い値を示していると言う。
 一発の劣化ウラン弾の重量がおよそ300グラムであったことから、3万1000発のウラン弾のウラン重量はおよそ9.3トンに相当することになる。


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