news-button.gif (992 バイト) 69 「小倉寛太郎さんお別れの会」についてのご報告 (2002/10/22掲載  10/26「付記その2」を追加) 

 本「ニュース」欄No.65 でお知らせした小倉寛太郎さんとの「お別れの会」が、10月21日(月)夜、市ヶ谷のグランドヒル市ヶ谷でもよおされました。高校・大学での同級生、学生運動の仲間、日航労組のメンバー、「サバンナ会」の仲間、そして東アフリカ各国の大使、さらに、山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』の愛読者まで、数百人(正確にはわかりませんが、300〜400人くらいだったでしょうか)が会場にあふれました。小倉さんの生涯を貫いた確固たる姿勢、そして人を思いやる人となりのせいだと思います。
 会は学生運動の仲間で、元朝日新聞記者の中野純さんの司会で、呼びかけ人代表として、やはり学生運動仲間であり、日航労組の顧問弁護士でもあった前田知克さんの挨拶で始まりました。
 参加者が多いため、献花は、ご家族のほかは、各グループの代表だけがすることになり、その中には、車椅子の山崎豊子さん、ジャズミュージシャンの渡辺貞夫さん、タンザニア、ケニヤ、ウガンダ、エチオピアの大使などの方々も含まれていました。この会は、小倉さんの明るい性格に合うように、なるべく湿っぽくならず、明るく進めたい、という司会者の希望が述べられたのですが、追想スピーチはどれも心からのもので、絶句、中断する人も多く、なかでも小倉さんとの出会いこそ、一期一会そのものであり、感謝の言葉はいいつくせないという山崎さんの話は多くの人の胸を打ちました。山崎さんは、『沈まぬ太陽』の主人公、恩地元という名前は、大を感じ、ものごとの根に迫ろうとする小倉さんの生き方を意味していたのだ、と話されました。 
 
 この5月に肺がんとわかり、6月に入院、10月9日に亡くなられるという、早いガンの進行と逝去に、その経過を語られる夫人の和江さんの挨拶は、途切れがちでしたが、タンザニア大使をはじめ、多くの人のスピーチは、寛太郎さんの活動を支えきった夫人の力に言及しておりました。いい会でした。

 (付記)学生運動の仲間たちへのお知らせ。学生運動の仲間たちでは、すでに述べた、中野純、前田知克さんのほか、大野明男、古賀正則、高木教典、田崎透、田村勝夫(元東大職組書記、サイマル出版会会長)、俵孝太郎、西谷清、溝口 勲、藁谷久三さんらの顔があり、また、故牛丸幸也・青木敏子夫妻のお嬢さんも出席されていました。思想的にまったく違っていましたが、ずっと親しく付き合ってきた久本礼一さんもスピーチをしました。
 中締めの挨拶の後の、自由登壇になると、前田さんが指揮をとり、「青年よ、団結せよ」(友よ 肩に肩を組みて、砕け敵を……)などの斉唱も始まりました。
 なお、この席で、本来なら参加していただろう、津田孝志、滝田隆夫さんが今、健康を害し、療養中とのことを聞きましたので、お知らせしておきます。

(付記その2) 『赤旗』10月25日号に、21日の会での山崎豊子さんの「お別れの言葉」が全文、採録されていました。それを以下に転載します。なお、『週刊新潮』10月24日号の「墓碑銘」欄に、「『沈まぬ太陽』のモデル 小倉寛太郎氏の闘志」と題して、彼の死を報じていましたが、『週刊新潮』としては珍しく、左翼の人物に皮肉一つ言うのでもなく、まっとうに小倉さんを紹介していました。(10/26に追加)


 あなたは、私にとってまさに一期一会の人です。一九九一年、初めてケニアの空港で出会ったとき、常ならぬもの、異形のものを感じ、天の啓示、天命のように思いました。アフリカのみならず、小倉さんの任地であるパキスタン、イランへも行をともにしてくださり、自分のかつて歩まれた道、歩まれた心を語ってくださいました。寡黙なあなたは、多くを語られませんでしたが、ひとこと、ひとことから何十行もの文章が生まれました。それは過酷な生活と孤独にくじけず、信念を貫いた人たちだけがもつもので、慟哭(どうこく)しながら書いたところもありました。
 小倉さんにこうお尋ねしたことがありました。この不毛の地、この孤独な勤務で、なぜかくまで強じんな意思と信念を貫くことができたんですか。こうお聞きしますと、あなたはにこやかな笑いをうかべて私には仲間がいる、仲間がいたからです、と答えられました。あなたは仲間のために、いつも人のために生きる人でした。ですが、いま少しご自身と奥さま、お子さまのために生きていただきたかったと思います。
 さる五月にあなたは突然、お電話をくださいました。久しぶりに関西へいくことがあるからお目にかかりたい、と。私は実は病床にふせっていることを正直に申し上げました。あなたは、マルクスも貧苦と病苦には耐え難いといいました。おつらいでしょうが、小説を書くあのすさまじい闘志をもって、一日も早く回復して『沈まぬ太陽』完結の乾杯をケニアのサバンナであげようではありませんか。お互い行き違って、まだ『沈まぬ太陽』完結の乾杯をあげていませんよ、といわれました。いまになって思えばすでにそのとき、私は存じ上げませんでしたけれど、小倉さんは肺がんに冒されておられたとうけたまわり、小倉さんらしく、さりげなく私に別れを告げられたのではないでしょうか。そう思うと無念です。惜別の情やみがたしです。
 『沈まぬ太陽』の読者の方からは、いまもって恩地さんに会いたいという多くの声が寄せられています。これほど読者に愛された主人公は他にございません。きょうも地方からここに、小倉さんに会うためこられている読者の方が大勢いるとうけたまわりました。恩地元というのは、大地の恩を知り、物事の根源にたって考えるという意味を込めた名前です。あなたは本当に、その通りの人です。小倉さん、あなたは亡くなられても多くの人々の心の中に、『沈まぬ太陽』の恩地さんとして永く永く存在し続けられるでしょう。
 作家として、このような作品を生み出させていただいて、ありがとう!!
 本当にありがとうございました!!

            山崎 豊子

 なお、小倉寛太郎さん自身が、山崎豊子さんとの交流について書いた文があります。日本航空労働組合OB・ OG会が編集、発行した『私の沈まぬ太陽――日航労組OB・ OGたちの手記』(A4版142ページ)という本の中にある「私の『沈まぬ太陽』または『沈まぬ太陽』と私」という小倉さんの文です。この本については、〒140-0002 東京都品川区東品川2-4-11 JALビル 日航労組本社支部内 「日本航空労働組合OB・ OG会」 電話: 03-5460-3877 にお問い合わせください。まだ余部があれば、入手できるかもしれません。