ホームページ拝見しました。
深泥池について色々と活動なさっているようで色々と勉強になりました。 深泥池を守る会のホームページも見せていただきました。 ただ、一つ疑問に思うことがあります。 これは、自然保護を謳う団体の方々に対していつも思うことなんですが
自然を保護するってどういうことなのか? という事がわからないということです。
深泥池も天然記念物として指定されるまでは、 地域の方たちが色々な方法で深泥池を利用してきたはずです。 天然記念物に指定するという事は人間の手を簡単には入れられない すなわち、人間と自然を切り離してしまうことになりませんか?
自然というのは常に変化します。(すごくゆっくりだけれども) 池はだんだんと埋まり湿地になっていきます。 そうしたなかで、今後、深泥池をどのように保存していくのか 人間の手を加えて、昔の姿を保存していくのか それとも、自然の変化の速度にあわせて変化させるように保存していくのか
その辺りのところが自然保護活動をみる度にいつも疑問に思います。
自然(あまりこの言い方は好きではありませんが)というのは素晴らしいものです。 しかし、自然というものは人間と切り離してはいけないものではないでしょうか? 人間と自然が一体になった姿が必要な時代になってきたのでは無いでしょうか?
平成11年3月にできた深泥池保全活用委員会の報告書のなかで、 これからの深泥池の保全と活用のありかたが述べられています。 例えば、「市民参加の実践研究機関」というのが提案されています。
具体的には、 エコミュージアムなどと呼ばれるものを想定しているみたいです。
ぐっぴーさんへ。
ぐっぴーさんの疑問はまさに今私達がかんがえていかなければならない テーマだと思います。 これからいうことは、私個人的な意見であって、深泥池水生動物研究会や 深泥池を守る会の意見ではないことを言っておきます。
おっしゃるように、昔から地域の人たちは深泥池とは様々な形で 関わってきたと思います。しかし、近代的な考え方により、 深泥池のような「自然」は、万人が平等に利用できる「公共」 のものか、個人の所有する「私物」かの二つの所有形態しか 許されないようになりました。 深泥池の前近代の所有形態は、私自身は勉強してませんが、 ジュンサイは名物ですし、ヒシの実もおいしいですし、 ガン・カモ類はたくさん来ますし、魚類もカワバタモロコやシロヒレタビラを はじめ多数いたようですので、誰でも利用できるような 単純な公共の地ではなかったと思います (分ったらホームページに載せます)。 しかし、例えば、ため池を 「野池」と呼ぶことは、ため池をだれでも勝手に利用して良い と思いこんでいることをあらわしているという指摘もあります。 一方で、近代的な考え方は、深泥池を「学術的な価値観」 すなわち、氷期からの生き残りの生き物が多数いるだとか浮島が珍しい とかにより、天然記念物として、「誰も使えない池」に指定しました。 「誰もが利用できる」と「誰もが使えない」というのは、実は 表裏一体の考え方だと思います。つまり、国家などの近代的なシステムにより 地域社会が破壊されて共同体的な所有権が崩壊し、 「自然」は個人によって競って私物化そして消費され、 それがいきすぎて問題のある場合、だれも使えないものに指定します。
そこで、これからは、地域の人たちが、 その地域のため池を、地域の人たちの価値観によって 今後どうするのか、どのように関わっていくのかを 考えていかなければならないと思います。 「学術的な価値」を誇りに思うのか、 ジュンサイなどを積極的に利用するのか、観光設備を整えるのか、 さらに、それらのためにはどのような所有形態がよいのか、 それは地域の人々の考えることです。 実際、まだそれは、議論が始まったばかりだと思います。
私の勉強不足でうまく言えませんでした。 質問があればなんでも言って下さい。 以下のような文献を参照しました。
[1] 秋道智彌: なわばりの文化史−海・山・川の資源と民俗社会, 小学館, 1995.
[2] 嘉田由紀子: 所有論からみた環境保全−資源および発展途上国への現代的意味, 環境社会学研究, 第4号, 新曜社, 1998.
[4] 小野佐和子: こんな公園がほしい−住民がつくる公共空間, 築地書館, 1997.
[5] 杉山恵一(監修): みんなでつくるビオトープ入門, 合同出版, 1996.
[6] 菅 豊: 川・沼・池の民俗, 環境の民俗, 講座日本の民俗学, 4, pp. 96-110, 1996.
[6] フィーニィ, D. 他, 田村典江(訳): 「コモンズの悲劇」−その22年後, エコソフィア, 1, pp. 76-87,
1998.
では。