ハイチ:米国協賛のクーデター?

ミシェル・チョスドヴスキー
原文は、Centre for Research on Globalization (CRG) at www.globalresearch.caより


2004年春、ハイチで、元独裁者パパ・ドックとベビー・ドック(デュバリエ親子)時代からのギャングたちが、選挙で選ばれたジャン・ベルトラン・アリスティド政権を転覆しようと武力展開をし、アリスティドが「誘拐」されたとか中央アフリカに逃れたといったニュースが流れています。日本のメディアでは、墜ちたアリスティドといったトーンの報道さえなされる一方、背景についてのきちんとした分析はほとんど見られません。

ハイチは、元フランス植民地でフランスに莫大な富をもたらした地域であり、約200年前に独立した世界初の黒人中心の共和国。最近では、佐藤文則『ハイチ 圧政を生き抜く人々』(岩波フォト・ドキュメンタリー 世界の戦場から)で簡潔に紹介されていますが、日本ではあまり取り上げられることのない国です。女性の平均寿命が52歳、男性は48歳、失業率は70%、人口の1%が富の50%を所有する一方、85%のハイチ人が、一日1米ドル以下で暮らしています。

国際法違反(元国連査察団長のブリクス氏もこれを明言しています:小泉首相の退陣を求めましょう)の不法侵略・占領を行う米軍の支援のためにイラクに憲法違反の自衛隊派遣を日本政府が行なった状況で、他にも書いておきたいこと等は色々あるのですが、ここでは、あまり背景まで掘り下げられることのないニュースからハイチの事態を読み取る一助として、前回ご紹介したハイチ背景:1986年〜1994年に続き、2004年のアリスティド追放に至ったクーデターの背景を紹介します。長く、また重なる部分も多いですし、この記事自体、切迫した状況で思いを込めて書かれたものらしく、少し冗長ですが、ご了承下さい。

ハイチの歴史年表については、ハイチ年表(力作です)を、ラテンアメリカに対する米国の介入について多少整理し分析したものとしては、ラテンアメリカにおける帝国の歴史をご覧下さい。

イラク派兵について、色々な情報(へのリンク)がwww.creative.co.jpにアップされます(見やすいので参考にしています)。また、3月20日ピースパレードが予定されています。日本国内では、反戦のビラを自衛隊宿舎に配った人たちが逮捕されるなど、憲法を無視して踏みにじって侵略戦争への荷担に自衛隊を派遣したことから当然予測されたような、市民的自由への弾圧が進行しています。この逮捕については、さすがの朝日新聞も社説で批判していますが・・・

殺人集団による武力クーデターを、民主的選挙で選ばれ、クーデターで追放された大統領が「ハイチを統治し続けるに適切であるかどうか」の問題であったかのようにすり替える政府・メディアの報道。宅配ピザやマンションのビラは野放しにしながら反戦ビラ配布を「家宅侵入」らしき名目で逮捕する事態の横行。靖国参拝を「公的」と認めた大阪地裁の判決について「もともと何で私が訴えられるか分からないんです。(公的な参拝か、私的な参拝かについては)答えないことにしている。どう判断されてもいい」と開き直る日本の首相。しかるべき法的・政治的・社会的最低限の基準を最初から無視した武力や暴力、強制を伴う行為を平然と進めながら、それを正当であるかのように言いくるめようとしたり、それに対する批判は無視してよいという風潮が世界的にまかり通っています。

新聞報道の批評的分析と行動については、「おかしな報道には抗議しよう日記」をよく参考にしています。

知ること。一つしかないこの世界の中で、一度しかない一人一人の人生に、一つ一つの存在に、何が起きているか知ること。そして、様々な負の出来事が、そのようでなければならなかったわけではないことに思いをめぐらせ、代替を考えていくこと。知ることそれだけでは十分ではありませんが、それでも、知ることは最初の一歩だと思います。そんなわけで、長くなりますが、ぜひお読み頂けると幸いです。

ホワイトハウスは、ハイチ大統領ジャン=ベルトラン・アリスティドが「ハイチを統治し続けるに適切であるかどうか」について疑問を呈してきた。アリスティドがドミニカ共和国へと出国した一日前にホワイトハウスが発表した公式声明は、次のように述べている。
「彼が民主的原則に則らなかったことで、深い分断と今日ハイチで起きている暴力的不安定状態が悪化した。・・・・・・アリスティドの行動は、彼がハイチを統治し続けるに適切であるかどうかに疑問を投げかけるものである。我々は、彼に、自分の立場を注意深く検討し、責任を受け入れ、ハイチの人々に最も良いように振舞うよう促した」。
そうだとすると、我々は、同じ基準をジョージ・W・ブッシュ大統領にも適用すべきではないのだろうか?アメリカ合州国の人々に嘘をつき、国際法を侵害して、捏造した口実に基づいて犯罪を犯したジョージ・W・ブッシュ大統領に対しても?


この記事は、2004年2月末、主流メディアの膨大な情報操作に対する対応として書かれた。完成したのは2月29日、ジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が亡命したその日である。


2004年2月29日アリスティド大統領を追放することとなった武装暴動は、注意深く準備された軍−諜報作戦の結果として作り出されたものだった。

反乱準軍組織部隊がドミニカ共和国国境を越えたのは、2月上旬のことだった。この部隊は、重武装し十分に訓練を受けた準軍組織部隊で、ハイチの前進と進歩のための前線(FRAPH)の元メンバーたちが参加してきた。FRAPHは「平服」の殺人部隊で、CIAが後押し、民主的に選ばれたアリスティド大統領政権を転覆した1991年の軍事クーデターの際、民間人の大量殺害と政治的暗殺とを行なっていた[1991年前後の経緯については、ハイチ背景:1984年〜1994年を参照]。

民族解放再建戦線(FLRN)を自称するこのグループを率いたのはギ・フィリップ[「私はピノチェトを尊敬している」「彼はチリをあるべき姿にした」と述べる人物で、ピノチェトの次に尊敬するのはロナルド・レーガン]であった。ギ・フィリップはハイチ軍の元メンバーで警察局長だった。1991年クーデターの際、フィリップはエクアドルで米軍特殊部隊の訓練を受けた。他に10人強のハイチ軍士官も、米軍特殊部隊の訓練を受けていた(Juan Gonzalez, New York Daily News, 24 Februrary 2004を参照)。

Guy Philippe in rebel headquarters ギ・フィリップのお仲間で、ゴナイーブスとカップ・ハイティエン攻撃を率いた二人の反乱部隊司令官は、「トト」とのあだ名を持つエマニュエル・コンスタンとジョデル・シャンブレーンで、この二人はともに元トントン・マクートであり、FRAPHの指導者だった。

1994年、エマニュエル・コンスタンはFRAPH暗殺部隊を率いてラボトー村を侵攻した。後に「ラボトー虐殺」と呼ばれる事件である。

悪名高い暗殺の最後の一つは、1994年4月、首都の北100マイルにある海辺のスラム、ラボトーで起きた。ラボトーは住民約6000人、ほとんどが漁師と塩集め人であるが、政治的反対者が隠れるためによく訪れる反対派の基盤でもあった。・・・・・・[1994年]4月18日、100人の兵士と30人程の準軍組織がラボトーに到着した。後に、調査者たちは、これを「ドレス・リハーサル」と呼んだ。彼らは住民を家から引きずりだし、アミオット・「キュベーン」・メタイエーの居場所を尋問した。メタイエーはアリスティド支持者としてよく知られ、身を隠していた。彼らは人々を殴打し、これにより妊婦が流産した。また、他の人々に野外の下水からむりやり水を飲ませた。兵士たちは、65歳の目の見えない老人を拷問し、この老人は血を吐いた。老人は、翌日死んだ。

4月22日の夜明け前、兵士達は戻ってきた。彼らは家々を掠奪し、路上で人を撃ち、海上に逃げた住民たちを船から撃った。その後、何日も、遺体が海辺に漂っていた。ついに遺体が発見されなかった者もいる。犠牲者は25人から30人とされている。さらなる攻撃を恐れて、何百人もが村から逃げ出した(St Petersburg Times, Florida, 1 September 2002)。

1991年から1994年の軍政下で、FRAPHは(非公式に)軍の管轄下にあり、ラウール・セドラ総司令官からの司令を受けていた。1996年の国連人権委員会報告によると、FRAPHはCIAに支援されていた。

軍事独裁政権下では、軍政により麻薬商売が保護されていた。その軍政は、CIAの支援を受けていた。FRAPH準軍組織の司令官を含む1991年クーデターの首謀者たちは、CIAに雇われていた(Parl DeRienzo, http://globalresearch.ca/articles/RIE042A.htmlを参照。また、Jim Lobe, IPS, 11 Oct 1996も参照)。「トト」ことエマニュエル・コンスタンは、これについて、1995年のCBS「60ミニッツ」の中で、CIAは彼に月約700ドルを払っていたこと、CIAに雇われているときに彼がFRAPHを創設したことを認めた(Miami Herald, 1 August 2001を参照)。コンスタンによると、FRAPHは、「米国防衛情報局(DIA)とCIAの奨励と財政支援のもとで」創設された。


民間人「反対派」

反アリスティドの、いわゆる「民主コンバージェンス」(DC)は、約200の政治組織からなる団体で、ポルトープランスの元市長エバンス・ポールが率いている。DCは、「184の市民社会組織団体」(G−184)とともに、いわゆるところの「市民社会組織と反対派政党の民主プラットフォーム」を結成した。

G−184を率いているのは、ハイチの両親のもとで米国で生まれた米国市民アンドレ(アンディ)アペドである(Haiti Progres, http://www.haiti-progres.com/eng11-12.html)。アンディ・アペドは、デュバリエ独裁時代に創設された、安価な労働力を用いた輸出組立ライン工場としてハイチ最大のものの一つであるアルファ・インダストリーズを所有している。彼の搾取工場では、繊維製品を生産するとともに、Sperry/Unisys、IBM、レミントン、ハネウェルなど多数の米国企業のために電気製品の組立を行なっている。アペドはハイチ最大の労働雇用者であり、4000人の労働者を働かせている。アンディ・アペドの工場で支払われる賃金は、ひどい場合には一日68セントである(Miami Times, 26 Feb 2004)。現在の最低賃金基準は、1日1ドル50セント程度である:

「キャシー・リー・グリフォードの搾取工場スキャンダルを最初に暴いた米国を拠点とする全国労働委員会は、数年前に、ハイチ自由貿易地域にあるアペドの工場は、しばしば最低賃金以下で、週78時間も強制的に働かせると報じた」(Daily News, New York, 24 Feb 2004)。

アペドは1991年の軍事クーデターを強力に支持した。民主コンバージェンスもG−184も、ギ・フィリップ率いるFLRN(元FRAPH殺人部隊が参加していることは前述)とつながっている。FLRNはまた、ハイチのビジネス界からも資金を受け取っていることが知られている。

つまり、非暴力を自称する反アリスティド市民組織とFLRN準軍組織のあいだに明確な境界はないのである。FLRNは、いわゆる「民主プラットフォーム」(DC)と協力している。


米国民主主義基金(NED)の役割

ハイチでは、この「市民社会反対派」は米国民主主義基金(NED)から資金を得ている。NEDはCIAと手を携えて活動している[NEDはビルマ民主化支援などに関与しており「NGO」支援を行なっているため、「NGO」からも好イメージで語られることの多い組織で、自らもNGOと称しているが、資金源は基本的に米国政府。また、2003年末現在の理事にはNATOによるセルビア民間人爆撃を指揮したウェズリー・クラーク、トルコ軍によるクルド人虐殺を国連等の場で擁護し続けたリチャード・ホルブルック、レーガン政権時代の国防長官・カーター政権時代のCIA副長官フランク・カールッチ、CIA筋と関係がありラムズフェルドとも結びついている元ロッキード・マーチン社副社長ブルース・P・ジャクソンとともに「移行期の民主主義に関するプロジェクト」を創設したジュリー・フィンリーがいる他、過去にはCIA元長官ウィリアム・コルビーの妻が理事だった等、米国政府・CIAに近い位置づけの組織。ニカラグアで反サンディニスタに資金提供した他、ベネスエラの反チャベス・クーデター首謀者カルモナの後押しもしていた]。民主プラットフォームは、NEDの部門である国際共和インスティチュート(IRI)から支援をうけている。IRIの理事長はジョン・マッケーン上院議員である(Laura Flynn, Pierre Labossiere and Robert Roth, Hidden from the Headlines: The U.S. War Against Haiti, Haiti Action Committee (HAC) Haiti Progresを参照)。

G−184の指導者アンディ・アペドは、2月29日アリスティド大統領がドミニカ共和国に出国する前の数日間、コリン・パウエル国務長官と連絡を取っていた。エリート・ビジネス諸組織と宗教NGOとを束ねる彼の組織は、IRIから資金提供を受けていると同時に、かなりの資金をEUから受け取っている(http://haitisupport.gn.apc.org/184%20EC.htm)。

IRIを管轄下におくNEDは、CIAの一部門ではないものの、文民政党およびNGOの領域で、重要な諜報機能を果たしていることを思い起こしておくことは重要であろう。NEDが創設されたのは、1983年、CIAが政治家に賄賂を送ったり、偽の市民社会前線組織を創設したりということで非難されていたときだった。レーガン政権時代にNEDの創設を担当したアレン・ワインシュタインによると:「今日我々が行なっていることの多くは、25年前、CIAが秘密裡に行なっていたことである」(Washington Post, Sept 21, 1991)。

NEDは議会予算を4つの組織にチャネルする:IRI、国際問題全国民主インスティチュート(NDI)、国際私企業センター(CIPE)、国際労働連帯アメリカ・センター(ACILS)である。これらの組織は、「世界中で大志を抱く民主主義者に技術支援を提供するに特別適している」と言われている(IRI, http://www.iri.org/history.aspを参照)。

すなわち、CIAとNEDのあいだには、役割分担があるのである。CIAが武装準軍反乱部隊と殺人部隊に秘密支援を提供するのに対し、NEDと4つの構成組織は米国流「民主主義」を世界に広める見解を持つ「文民」政党やNGOに資金を提供する。

NEDは、いわば、CIAの「文民部門」を構成しているのである。CIA−NEDによる世界各地での介入は、一貫したパターンにより特徴付けられ、多くの国に適用されている。

NEDは、ベネスエラで「市民社会」に資金提供し、その「市民社会」はウーゴ・チャベス大統領に対するクーデター未遂を引き起こした。ベネスエラでNEDの資金を受け取っていたのは「民主協調」であり、ハイチでは「民主コンバージェンス」とG−184である。

同様に、旧ユーゴスラビアでも、CIAはコソボ解放軍(KLA)に(1995年以来)支援をチャネルした。KLAは、ユーゴ警察と軍に対するテロ攻撃に関与していた準軍組織である。その間、NEDはCIPEを通してセルビアとモンテネグロでDOS反対派を後押ししていた。より具体的には、NEDは、G−17に資金提供していた。G−17は、2000年の大統領選挙でDOS連合の「フリー・マーケット」改革を(IMFと連絡をとりながら)担当していた経済学者からなる反対派グループであり、この2000年の選挙でスロボダン・ミロシェビッチが失脚した。


IMFの苦い「経済処方」

経済・政治の不安定化プロセスにおいて、IMFと世銀がキー・プレイヤーだった。国際組織という名目で進められるIMFの改革は、米国の戦略的・外交的目的に有利となりがちである。

いわゆる「ワシントン合意」に基づくIMFの引き締めと構造調整政策は、破滅的なインパクトを通して、しばしば社会的・民族的紛争の誘因となる。IMFの改革は、しばしば選挙で選ばれた政府の没落を引き起こした。社会的・経済的崩壊の極端な場合には、IMFの苦い経済処方は国全体の不安定化を誘発する。ソマリアやルワンダ、ユーゴスラビアなどがその例である(Michel Chossudovsky, The Globalization of Poverty and the New World Order, Second Edition, 2003, http://globalresearch.ca/globaloutlook/GofP.html)。

IMFのプログラムは経済崩壊の一貫した道具となっている。IMFの改革は、大胆な引き締め政策により、政府関係機関の変更と縮小を引き起こす。そして、経済引き締め政策は、しばしば、CIAによる反乱準軍組織や反対派政党支援といった秘密活動を含む介入と政治的干渉と並行して進められる。

さらに、内戦や体制変更、「国家非常事態」の後、いわゆる「緊急復興」や「紛争後」改革といったものが、しばしばIMFの指導により導入される。

ハイチでは、IMFがスポンサーとなった「フリー・マーケット」改革が、デュバリエ時代に一貫して進められた。1990年にアリスティドが最初に大統領に選ばれてからも、何段階かでそれは適用された。

ジャン=ベルトラン・アリスティドが大統領に就任してから8カ月後に起きた1991年の軍事クーデターは、一部には、アリスティド政府による進歩的改革を逆行させ、デュバリエ時代の新自由主義政策を再強制することを理由としてなされたものである。

臨時軍政は、1992年6月に、元世銀官僚マーク・バジンを首相に任命した。実際のところ、彼の任命を求めたのは米国国務省であった。

バジンは、「ワシントン合意」のために働いてきた経歴を持つ。1983年、彼はデュバリエ政権の財務大臣に指名された。実は、彼を推薦したのはIMFであった:「終身大統領ジャン=クロード・デュバリエはIMFが推薦した元世銀官僚マーク・バジンを財務大臣に指名することに合意した」(Mining Annual Review, June 1983)。ワシントンの「お気に入り」と見られていたバジンは、後の1990年の大統領選挙でアリスティドの対抗馬として立候補した。

軍事政権は「合意政府」と言われるものを結成するため、1992年にバジンを招聘した。CIAが支援したFRAPH殺人部隊による政治的虐殺と超法規的殺害が激化したのは、バジンが首相であったまさにその時期であることは強調する必要がある。これにより4000人以上の一般市民が殺され、約30万人が国内難民となり、「さらに何千人もが国境を越えてドミニカ共和国に逃れ、6万人以上が公海に逃げ出した」(Statement of Dina Paul Parks, Executive Director, National Coalition for Haitian Rights, Committee on Senate Judiciary, US Senate, Washington DC, 1 October 2002)。その間、CIAは、アリスティドを「精神的に不安定」とする中傷キャンペーンを行なっていた(Boston Globe, 21 Sept 1994)。


1994年の米軍介入

軍事政権が3年間続いた後、米国は1994年に介入し、2万人の占領軍兵士と「平和維持軍」をハイチに送った。米軍の介入は民主主義を復活させるために行われたものではなかった。逆に、軍事政権とその相棒の新自由主義者たちに対する人々の反対運動を阻止するために行われた。

つまり、米軍の占領は、政治的継続性を確保するためになされたのである。

臨時軍政のメンバーは亡命したが、立憲政府の復帰の際にはIMFの指示に従うことが要件とされ、それにより新自由主義アジェンダに対する進歩的「代替」の可能性を封じ込めた。さらに、1999年まで米軍はハイチに留まった。ハイチ軍は解体され、米国国務省は傭兵企業ディンコープを雇ってハイチ国家警察(HNP)の構造改革における「技術支援」を提供させた。

「ディンコープはいつもペンタゴンやCIAの秘密作戦の安全弁として」機能してきた(Jeffrey St. Clair and Alexander Cockburn, Counterpunch February 27, 2002, http://www.corpwatch.org/issues/PID.jsp?articleid=1988を参照)。ハイチではディンコープの助言で、1991年クーデターに関与した元トントン・マクート[デュバリエ独裁政権下の弾圧部隊]とハイチ軍士官たちがハイチ国家警察に組み入れられた(See Ken Silverstein, Privatizing War, The Nation, July 28, 1997, http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/silver.htmを参照)。

1994年10月、アリスティドは亡命から帰還し、彼の任期である1996年まで大統領に復帰した。「フリー・マーケット」改革者たちが彼の閣僚に組み入れられた。緊急経済復興計画(EERP)と言われる計画のもとで、致命的なマクロ経済政策が導入された。EERPは「急速なマクロ経済安定化、公共行政の復活、最も緊急なニーズに対応することを目指したもの」だった(IMF Approves Three-Year ESAF Loan for Haiti, Washington, 1996, http://www.imf.org/external/np/sec/pr/1996/pr9653.htmを参照)。

立憲政権の復活は、ハイチに対する海外債権者とのあいだで、密室で協議された。アリスティドがハイチ大統領に復帰する前に、新政権は、債務遅延について海外債権者とのあいだで清算する義務を負わされた。国際債権者に対するハイチの債務支払いのために、世銀、汎米開発銀行(IDB)、IMFからの新たなローンが使われた。古い債務支払いに新たな借入金が使われ、対外債務のスパイラルとなった。

軍事政権時代と概ね対応して、国内総生産(GDP)は30%落ち込んだ(1992年〜1994年)。一人当たり年間収入が250ドルであるハイチは、西半球の最貧国であり、世界的にも最貧国の一つである(World Bank, Haiti: The Challenges of Poverty Reduction, Washington, August 1998, http://lnweb18.worldbank.org/External/...を参照)。

世銀は失業者を60%と推定している(2000年の米国議会報告は失業率を80%としている。US House of Representatives, Criminal Justice, Drug Policy and Human Resources Subcommittee, FDHC Transcripts, 12 April 2000を参照)。

3年間の軍事支配と経済停滞の後で、IMFの貸付合意のもとで構想された「経済緊急復興」など実現されなかった。実際には、まったく逆に、IMFが強制した「復興」プログラムのもとでの「安定化」は、既にほとんど存在しないまでになっていた社会セクタの計画に対するさらなる予算削減を求めたのである。公共サービス改革プログラムが発動され、公共サービス規模が削減され「余剰」公務員が解雇された。IMF−世銀のパッケージは公共サービスの麻痺に一部貢献し、それは次第に国家体制全体の崩壊へとつながった。保健・教育サービスが実質上不在の国で、IMFは、財政赤字の削減目標を達成するために、「余剰」教員と保健ワーカの集団解雇を求めたのである。

ワシントンの海外政策イニシアチブはIMFの致命的な経済処方の適用と歩調を合わせていた。ハイチは、文字通り、経済・社会的破滅へと押しやられたのである。


ハイチ農業の運命

ハイチの人々の75%以上が農業に従事しており、国内市場向けの食料作物と、輸出向けの多数の現金作物を作っている。既にデュバリエ時代に農業経済は下降していた。IMF−世銀による貿易改革により、現地市場のための食料を生産していた農業は、不安定化にさらされた。貿易障壁撤廃により、現地市場は、コメや砂糖、とうもろこしなどの米国の余剰作物のダンピングに対して開かれ、小農業経済全体の破壊へとつながった。一面に稲田が広がるハイチの穀倉地帯だったゴナイーブスは破産に突き落とされた。

「1990年代末に、ハイチのコメ生産は半減し、米国からの輸入米がハイチでのコメ販売の半分以上を占めることとなった。現地の農民は破滅的状況におかれ、コメの値段は劇的に上昇した」(Rob Lyon, Haiti-There is no solution under Capitalism! Socialist Appeal, 24 Feb. 2004, http://cleveland.indymedia.org/news/2004/02/9095.phpを参照)。

数年のうちに、カリブ海の貧しい小国であるハイチが、日本、メキシコ、カナダに次ぐ、米国からの第四のコメ輸入国となったのである。


IMF改革の第二波

2000年11月23日、大統領選が予定されていた。クリントン政権は、2000年にハイチに対して開発援助を停止していた。選挙のわずか2週間前、任期を終えつつある政権は、IMFとのあいだに趣旨確認書を署名した。完全なタイミングであった。IMFとの合意により、次期政権は、そもそもの初めからネオリベラル政策からの脱却可能性を封じ込まれたことになる。

財務大臣は12月14日、議会に修正予算案を提出した。立法府がこれを承認することが、ドナーの援助の条件であった。アリスティドは最低賃金の引き上げ、学校の建設と識字プログラムを約束していたが、新政府の手は最初から縛られていた。国家予算に関する主立った決定全てと、公共部門の管理、公共都市、私営化、貿易と金融政策は既に決められていた。それらは、2000年11月6日にIMFとのあいだで交わされた合意の一部であった。

2003年、IMFは「燃料の柔軟な価格体系」なるものをむりやり適用した。これはすぐさまインフレ・スパイラルを引き起こした。通貨は引き下げられ、2003年の1月から2月に、石油価格は130%上昇した。これは、IMFの経済改革実施に合意したアリスティドに対する人々の不満を増すこととなった。

燃料価格の高騰は、2002年から2003年、消費者物価の40%上昇を引き起こした(Haiti?Letter of Intent, Memorandum of Economic and Financial Policies, and Technical Memorandum of Understanding, Port-au-Prince, Haiti June 10, 2003, http://www.imf.org/external/np/loi/2003/hti/01/index.htmを参照)。IMFは、さらに、生活コストの急増にもかかわらず、「インフレ傾向を統制」する手段として、賃金の凍結を要求した。実際、IMFは公共部門の給与(教師や保健ワーカの給与も含む)を引き下げるよう圧力をかけた。IMFはさらに、法で決められた1時間25セントの最低賃金を撤廃するよう求めた。IMFによれば、「労働市場の柔軟さ」、すなわち法廷最低賃金以下の賃金支払いは、海外投資家を惹き付けるのに役立つという。1994年の一日あたり最低賃金は3ドルであったが、2004年には1ドル50から75セント(グールド−ドル換算レートによる)に減少した。

まるで倒錯した論理により、1980年代以来のIMF−世銀政策の一部であるハイチの底知れぬ低賃金は、生活水準改善の手段であると見なされた。すなわち、(まったく規制のない労働市場における)組立工場の搾取的条件と農業プランテーションにおける強制労働の条件を、IMFは、それが「海外投資を惹き付ける」のだから、経済繁栄達成のためのキーであると考えているのである。

ハイチは急増する対外債務という拘束衣を着せられた状態であった。IMF−世銀スポンサーの引き締め政策が、1万人あたりたった1.2人の医者しかおらず、大多数が識字能力を有していないこの国に適用されたのは、苦々しいアイロニーである。デュバリエ時代に実質上存在していなかった政府の社会サービスは、崩壊した。

IMFによる処方の結果、購買力はさらに崩壊し、中レベルの所得層にも影響を与えた。一方で利率は急上昇した。ハイチの北部と東部では、燃料価格の急上昇のために、運輸および水や電気を含む公共サービスが実質上麻痺状態に陥った。

人道的破局が迫る中、IMFを先鋒とした経済の崩壊は、アリスティドを「経済管理ミス」と非難した民主プラットフォームの人気を高める役割を果たした。言うまでもないことだが、アンディ・アペド---実際に搾取工場を所有している---を含む民主プラットフォームの指導者たちこそが、低賃金経済の主唱者である。


コソボ・モデルの適用

2003年2月、ワシントンは、ジェームズ・フォーリーをハイチ大使に任命した。フォーリーは、コソボ戦争下でクリントン政権の国務省報道官であり、以前はブリュッセルのNATO本部に勤務していた。フォーリーは、CIAが後援する作戦に先だってポルトープランスに送られた。彼は、2003年9月、国連欧州事務所の副使節長というジュネーブの栄えある外交地位から、ポルトープランスに移った。

1999年、フォーリー大使がコソボ解放軍(KLA)支援に関与していたことは注目に値する。

KLAがドラッグ・マネーから資金を得、CIAに支援されていたことについては多くの報告がある(Michel Chossudovsky, Kosovo Freedom Fighters Financed by Organized Crime, Covert Action Quarterly, 1999, http://www.heise.de/tp/english/inhalt/co/2743/1.html)。

KLAは、1999年にNATOが介入する前後に、政治的暗殺や民間人の殺害を行なっていた。NATOが侵略しコソボを占領した後、KLAは国連承認のもとでコソボ防衛軍(KPF)となった。民間人の殺害を防止するために武装解除するかわりに、組織犯罪とバルカン地域の麻薬貿易に手を染めたKLAというテロ組織に合法的な政治的地位が与えられたのである。

コソボ戦争の際、現駐ハイチ米国大使ジェームズ・フォーリーは国務省ブリーフィングを担当し、ブリュッセルにいるNATOの相棒ジェーミー・シーアと緊密な関係を維持していた。1999年3月24日NATO率いる戦争が開始されるたった2カ月前、ジェームズ・フォーリーはKLAを立派な政治組織に「転身」させることを提唱している。

我々は、KLAが政治志向の組織に転身しているので、彼ら[KLA」とのあいだに良好な関係を育みたい。・・・・・・我々が望むようなかたちの政治的アクターにきちんとなるならば、我々は多くのアドバイスと援助を与えることができると信じている・・・・・・我々が支援でき、そして彼らが転身の試みにおいて我々の支援を受けたいならば、それについて反論できるような要素は何もないと思う(New York Times, 2 February 1999に引用)。

NATO侵略後、「KLAと民主同盟運動(LBD)からなる自称コソボ統治府が設置された。LBDはリュゴバの民主リーグ(LDK)に反対する5党派の連合である。KLAは、首相の他、財務省、公序省、防衛省を統制下においた」(Michel Chossudovsky, NATO's War of Aggression against Yugoslavia, 1999, http://www.globalresearch.ca/articles/CHO309C.html)。

フォーリーが発表した米国国務省の立場は、KLAは「軍としての継続は許容されないが、「異なる状況」のもとで自治を求めるために前進する機会は持つ」とされた。すなわち、NATO保護下での実質上の「麻薬−民主主義」の発足である(同上)。

麻薬貿易に関して言えば、コソボとアルバニアは、ハイチと似た位置づけにある:「黄金の三日月地帯」からイランとトルコを通って西欧へと麻薬を運搬する「ハブ」なのである。CIA、ドイツ連邦情報局(BND)とNATOに支持されたKLAは、麻薬取引に関与しているアルバニア・マフィアと犯罪シンジケートにつながっている(Michel Chossudovsky, Kosovo Freedom Fighters Financed by Organized Crime, Covert Action Quarterly, 1999, http://www.heise.de/tp/english/inhalt/co/2743/1.html)。

1999年に現駐ハイチ米国大使ジェームズ・フォーリーが処方したこのモデルが、ハイチのモデルとなるのだろうか?

CIAと国務省にとって、KLAとハシム・タチがコソボで果たした位置づけを、ハイチではFLRNとギ・フィリップが果たしていることになる。

すなわち、ワシントンの計画は「体制変更」である:ラバラ政権を転覆し、民主プラットフォームとFLRNが統合する従順な米国の傀儡政権を据え付けることである(FLRNの指導者たちは元FRAPHやトントン・マクートのテロリストたちだった)。FLRNは、民主コンバージェンス及びアンディ・アペド率いるG−184とともに「民族団結政府」に統合されることが計画されている。具体的には、ギ・フィリップ率いるFLRNが、1995年に解散されたハイチ軍を再建することが予定されている。

したがって、様々な反対派グループと、CIAが支援する反乱軍とのあいだで、権力分担をどう調整するかが問題とされているのである。反乱軍は、コロンビアからハイチを経てフロリダに至るコカイン輸送に関係している。この貿易を保護することは、米国の利益に奉仕する新たな「麻薬−政府」にふさわしい。

2000年にコソボでKLAに対して行われたように、国際的監視のもとでの反乱軍の武装解除ショーが演出されるかも知れない。それから、米国の指導のもとで、この「元テロリスト」たちは文民警察やハイチ軍再建に組み入れられることができるようになる。

このシナリオは、デュバリエ独裁時代のテロ組織が復活することを示している。レバラ支持者に対する民間人殺害と政治的暗殺は、既に始まっている。

もし仮にワシントンが本当に人道的配慮により動いているとするならば、どうしてFRAPH殺人部隊を支持し資金を与えているのだろうか?その目的が民間人虐殺を阻止することにないのは明らかである。これまでのCIA主導の作戦(グアテマラインドネシアエルサルバドルなど)をモデルとして、FLRN殺人部隊が解き放たれ、アリスティド支持者を政治的暗殺の標的としている。


麻薬運輸貿易

IMF改革の猛攻で実質経済が破綻した一方、麻薬運搬貿易は反映を続けている。米国麻薬取締局(DEA)によると、ハイチは「カリブ地域全体の一大麻薬運搬国」であり、「コロンビアから米国へのコカインの大規模な運搬を仲介している」(US House of Representatives, Criminal Justice, Drug Policy and Human Resources Subcommittee, FDHC Transcripts, 12 April 2000を参照)。

現在、米国に入ってくる全コカインの14%はハイチ経由であると推定されている。組織犯罪と、巨額の汚れた資金をロンダリングする米国の金融機関にとって、何十億ドルもの収入となるものである。世界の麻薬貿易は、5000億ドル規模であると推定される。

輸送貿易の多くは直接マイアミに行く。マイアミはまた、汚れた金を不動産やそれに関連する活動といったまっとうな投資に向ける拠点でもある。

証拠によれば、デュバリエ時代と1991年から1994年の軍事独裁政権時代に、CIAはこの貿易を保護していたことが確認されている。1987年、ジョン・ケリー上院議員を委員長とする上院外交問題委員会の麻薬・テロリズム及び国際作戦小委員会は、武装ゲリラへの資金提供のためにドラッグ・マネーをロンダリンスすることを含むCIAと麻薬貿易の関係に焦点をあてた詳細な調査を行なった。1989年に公表された「ケリー報告」は、ニカラグアのコントラへの資金提供を中心的に扱っていたが、ハイチについても一節をもうけている:

ケリーはハイチの軍事支配者たちによる麻薬取引の詳細な情報を検討し、それにより、1988年マイアミでジャン・ポール中佐が起訴された。この起訴はハイチ軍にとって大きな失態であった。とりわけ、ポールがきっぱりと米国に自分の身柄を引き渡すことを拒否したためである。1989年11月、伝統的なハイチの友好を示す贈り物---一杯のカボチャ・スープ---を飲んだ後、遺体で発見された・・・・・・

ケリー上院議員は、また、1988年に、内務大臣ウィリアムス・レガラと彼のDEA連絡担当官とが、コカイン輸送を保護し管轄していたとの証言を聞いた。この証言は、また、ハイチ軍司令官アンリ・ナムフィ将軍が、1980年代中盤に、上陸権のお返しに賄賂を受け取っていたと告発していた。

1989年、今ひとつの軍事クーデターでプロスペ・アブリル将軍が権力の座についた・・・・・・ジョン・ケリー上院議員の小委員会で証言したある承認によると、アブリルは、コカイン貿易においてハイチが中継地点の役割を果たすにあたっての立役者である」(Paul DeRienzo, Haiti’s Nightmare: The Cocaine Coup & The CIA Connection, Spring 1994, http://globalresearch.ca/articles/RIE402A.html)。

ケリーの特使だったジャック・ブルムは、麻薬取引とコントラ戦争に関する諜報の上院特別委員会における1996年の発言で、米国政府関係者の関与を次のように指摘している:

・・・・・・ハイチでは・・・・・・ハイチ軍における我々の情報「源」が、ドラッグ・カルテルに便宜を提供した。軍の腐敗した指導陣に圧力をかけるかわりに、我々はこの指導者たちを守った。彼らと米国にいる犯罪者の友人たちがマイアミやフィラデルフィア、ニューヨークでコカインを広めているとき、我々は鼻をつまんで目を背けていたのである(http://www.totse.com/en/politics/central_intelligence_agency/ciacont2.html)。

ハイチはコカイン貿易のハブとして、1980年以来急成長した。現在の危機は、麻薬貿易におけるハイチの役割と関係している。米国政府は、コロンビアからハイチ経由でフロリダに到達する麻薬輸送ルートを保護するために従順なハイチ政府を欲しているのである。

麻薬ダラーの流入---これはハイチの外貨獲得の主要手段であり続けている---は、ハイチの急増する対外債務返済にあてられており、したがって、海外債権者の利益にも奉仕している。

この点で、IMFが強制した為替市場自由化は(麻薬取引に対する当局の形式的な献身にもかかわらず)、麻薬ダラーを国内の銀行システムにロンダリングするために好都合の手段なのである。麻薬ダラーと海外在住のハイチ人がまともに「送金」した金の流入は、商業銀行に預け入れられ、現地通貨に替えられる。外貨領外収入は、財務局に入り、それが債務支払いに用いられる。

しかしながら、この利潤の高い密輸における外貨換金利益の総額のうち、ハイチ自身は、きわめて小さな割合しか受け取っていない。コカイン運輸貿易からもたらされる収入の大部分は、卸し・小売りの麻薬取引における犯罪仲介者や、麻薬取引を保護する諜報組織、そして犯罪活動の利益をロンダリングする金融・銀行組織が手にする。

麻薬ダラーは様々な海上銀行ヘブンで口座にチャネルされる(これらのヘブンは西洋の大銀行や金融機関がコントロールしている)。また、ヘッジファンドやストックマーケットなどの様々な金融に流れ込む。ウォールストリートや欧州の大銀行や株ブローカー企業は、麻薬取引による何十億ドルもをロンダリングしている。

さらに、連邦準備制度が供給する、麻薬取引目的の米国ドル紙幣数十億ドルもの印刷を含むドル表示マネーの拡大は、連邦準備やニューヨーク連邦準備銀行などの配下の私営銀行への利益となる(Jeffrey Steinberg, Dope, Inc. Is $600 Billion and Growing, Executive Intelligence Review, 14 Dec 2001, http://www.larouchepub.com/other/2001/2848dope_money.htmlを参照)。

したがって、背後で米国外交政策の立案に関与しているウォールストリートの金融エスタブリッシュメントは既得権益からハイチの麻薬運輸貿易を維持し、ポルトープランスに「麻薬民主主義」を据え付けて実質的に輸送ルートを保護させると都合がよいのである。

ユーロが国際通貨として現れて以来、麻薬貿易のかなりのシェアは米ドルではなくユーロでなされていることも思い起こしておこう。

ラテンアメリカのコカイン貿易は---ハイチを仲介したものも含め---ほとんどが米ドルでなされている。ドル表示の麻薬トランザクションが減少すると、それは中東や中央アジア、南欧の麻薬ルートに関わる世界通貨としての米ドルの覇権にも影響する。


メディア操作

クーデター前の数週間、メディアは、アリスティド派の「武装ギャング」や「やくざ者」に注意を払い、FLRN反乱軍の役割がわかるような情報を提供しなかった。

さらに、公式声明にも国連決議にも、FLRNの性格については一言も語られず、沈黙が支配した。これは驚くべきことではない。米国の国連大使(国連安保理の米国議席に座る人物)はジョン・ネグロポンテである。彼は、1980年代、駐ホンジュラス米国大使時代に、CIAの支援を受けたホンジュラスの殺人部隊設置で重要な役割を果たした人物である(San Francisco Examiner, 20 Oct 2001 http://www.flora.org/mai/forum/31397)。

FLRN反乱軍は驚くほど良好な装備を有し、よく訓練された部隊である。ハイチの人々は、FLRNが誰なのか知っている。デュバリエ時代のトントン・マクートと元FRAPHの暗殺者たちである。

西洋のメディアはこの問題に口をつぐみ、暴力をめぐってアリスティド大統領を非難している。「解放軍」が殺人部隊だということを認めた場合でも、それが意味することとこの殺人部隊がCIAとDIAにより作り出されたことについては検討しない。

ニューヨーク・タイムズ紙は、「非暴力」の文民反対派が実際には「何千人もを殺したと批判を受けている」殺人部隊と協力していることを認めたが、それは「偶然」とされている。歴史的背景はまったく書かれていない。この殺人部隊の指導者たちは誰か?我々が耳にするのは、この指導者たちが、「政治的反対派」に属する「非暴力」の素敵な人々と「同盟」関係を結んだというだけである。そして、この同盟は、ひとえに、選挙で選ばれた大統領を取り除き、「民主主義を回復する」という、すばらしくまた有意義な大義のためであるとされる。

ハイチ危機が内戦に傾いている中、蜘蛛の巣のように込み入った同盟---その一部は偶然の所産である---が姿を現した。その同盟は非暴力を旨とする政治的反対派の目的を、武装反乱集団と結びつけた。この反乱集団には、何千人もを殺したと批判を受けている死の部隊の元指導者や、クーデターを企てたと批判されている元警察署長、以前はアリスティドに同盟していたが彼に反旗を翻した残忍なギャングもい含まれている。こうした様々な背景を考えると、アリスティド氏に反対して手を組んでいる者たちが団結しているとは言い難い。むろん、反対同盟の誰もが、アリスティドが政権から取り除かれることを熱望しているのだが(New York Times, 26 Feb 2004)。

実際には、反乱軍の攻撃や、殺人部隊の指導者ギ・フィリップとハイチ最大の搾取工場の所有者でG−184の指導者たるアンディ・アペドの「同盟」関係に、行きがかり上のものや「偶然」の要因など何もない。

武装反乱は、軍−諜報が注意深く計画した作戦である。ドミニカ軍は、北東部のハイチ−ドミニカ国境のドミニカ領土内でゲリラ訓練キャンプを発見している(El ejercito dominicano informo a Aristide sobre los entrenamientos rebeldes en la frontera, El Caribe, 27 Feb 2004, http://www.elcaribe.com.do/articulo_multimedios.asp...

武装反乱軍も文民「非暴力」の相棒も、大統領失脚の陰謀に関与していた。G−184の指導者アンドレ・アペドはアリスティド追放前の数週間、コリン・パウエルと接触していたし、ギ・フィリップと「トト」・エマニュエル・コンスタンはCIAと関係している。また、反乱軍司令官ギ・フィリップとRARFの政治指導者ウィンター・エチエンヌが米国政府関係者と連絡を取っているという示唆もある(BBC, 27 Feb 2004, http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3496690.stmを参照)。

米国は繰り返し、合憲政府を支持すると発言しているが、その一方で、ブッシュ政権は、アリスティドをより従順な人物にすげ替えることを計画の一部としてきた。

2004年2月20日、米国大使ジェームズ・フォーリーは、米国南方軍のマイアミ基地から4人の軍事エキスパートを招聘した。職務は公式には「大使館とその職員への脅威を評価する」ものだった(Seattle Times, 20 Feb 2004)。米軍特殊部隊は既にハイチにいた。ワシントンは3隻の艦を「予防措置としてハイチへ向けて待機状態」とした。サイパン号は垂直発進ハリアー戦闘機と攻撃ヘリを備えており、他の2隻はオークヒル号とトレントン号だった。ワシントンによれば、2200人ほどの海兵隊がただちに派遣可能であった。

けれども、アリスティド大統領が国外に脱出したため、ワシントンはその手先の準軍組織を武装解除する意図を失った。この準軍組織は「移行」の際に役割を果たして貰うことになるのである。ブッシュ政権は、アリスティドの国外脱出後に起きるラバラとアリスティドの支持者たちに対する殺戮と政治的暗殺を阻止するためには何もしないであろう。

西洋メディアはハイチ危機の歴史的背景を分析してこなかった。CIAの役割も言及されなかった。「国際社会」と称するところのものは、統治と民主主義に献身すると口では言いながら、米国が協賛する準軍組織による民間人殺害から目を背けてきた。1990年代にFRAPH殺人部隊の司令官だった「反乱部隊の指導者たち」は、今や米国のメディアで、正当な反対派スポークスマンであるかのように取り扱われている。その一方で、アリスティドは「経済的・社会的状況の悪化」に責任があるので、大統領としての正当性を疑問視されている。

経済的・社会的状況の悪化は、ほとんどが1980年代以来IMFが強制してきた破滅的な経済改革によるものであると言える。1994年の立憲政府の復帰は、IMFの致命的な経済処方箋を受け入れるという条件で実現されたものであり、そのために、有意義な民主主義があらかじめ封じられていた。アンドレ・プルバルとジャン=ベルトラン・アリスティド政府の政府高官たちは、たしかにIMFの指令に共謀した。それにもかかわらず、アリスティドは米国政府の「ブラックリスト」に載せられ、悪魔化されていたのである。


カリブ海地域の軍事化

ワシントンはハイチを再び全面的な植民地にしようとしていた。民主主義の見せかけを全て備えたかたちで。そのために、ポルトープランスに傀儡政権を据え付け、ハイチに米軍を常駐させることを目指した。

米国政府は、最終的には、カリブ海地域の軍事化を目指している。

イスパニョラ島(ハイチ/ドミニカ共和国)はカリブ海地域へのゲートウェイとして、北西にキューバ、南にベネスエラを望んでいる。米軍基地の設置によるこの島の軍事化は、キューバとベネスエラに政治的圧力をかけるだけでなく、コロンビア、ペルー、ボリビアの麻薬生産地からハイチを通して麻薬を運ぶ何十億ドルもの貿易を保護するために有用である。

カリブ海地域の軍事化は、「プラン・コロンビア」そしてその後名前を変えて「アンデアン・イニシアチブ」となった南米アンデス地域のワシントンによる軍事化と似通っている。後者は石油・ガス田及びそのパイプラインと輸送路の軍事化の基盤となっていると同時に、麻薬貿易を保護してもいるのである。


著作権:MICHEL CHOSSUDOVSKY 2004。Centre for Research on Globalization (CRG) at www.globalresearch.caが元記事であることを明記するとの条件で、再掲を認めている。


ところで、CNNは3月5日、「米中央軍のアビゼイド司令官は、イラクへの主権移譲の期日が近づくにつれ、同国内での暴力はさらに深刻化する恐れがあるとして、警戒を呼びかけている」と報道しました。あんたらがイラクで最大の暴力を振るっている張本人じゃん。米兵の死亡者が・・・・・・とか自衛隊員が死んだらといった話がやかましく報道されていますが、米軍は、今回の不法侵略と占領で、1万人もの人々を殺しています。「復興支援に行くんですよ」とのたまう政治家たちや、「給水などの支援活動にあたる」との枕詞を忘れないメディア、陰に陽に自衛隊派遣はイラクの「支援」であると強調する人々が、イラク人犠牲者のことをほとんど一顧だにしていないことは、注目に値します。
2004年3月7日

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