チョムスキー・政治・メディア・テロ

多摩映画フォーラム講演
2002年11月30日
益岡 賢
講演に使ったメモを、当日の話を思い出しつつ、拡大文章化したものです。


映画、チョムスキー、政治・メディア・テロ

本日この会場で上映されているドキュメンタリー映画「マニュファクチャリング・コンセント」と「9・11」の主役であるチョムスキーの著作を2点ほど翻訳した関係で、お話をすることになりました、東京東チモール協会の益岡です。

「あるテーマを巡る一人の人物を扱った映画」について話をする場合、一応3つの可能性があります。 映画について話をする、チョムスキーという人物について話をする、そしてテーマについて話をする、という3つです。

主催者の方と相談し、ここでは、映画がチョムスキーを介して扱っている政治とメディア、そしてテロリズムというテーマについて、特に日本という場にひきつけて、少しお話しをすることとしたいと思います。

映画については話すよりもご覧になるほうがよいでしょうし、チョムスキーという人物については、もし何か聞いてみたいということがありましたら、のちほどご質問いただければと思います。


東チモールとメディア

というわけで、政治とメディアというテーマなのですが、チョムスキー自身もずいぶん関わってきて、また、私自身もそれなりに関わってきた、東チモールについて、ちょっとお話したいと思います。

マニュファクチャリング・コンセントをご覧になったかたは、映画のなかほどで随分と東チモールが扱われていたので、これからするお話について具体的なイメージを持ちやすいと思いますし、一方、このあとの9・11のみご覧になるかたには、そこでオムニバス的に出てくるチョムスキーの話に多少の具体的な彩りを添えることになるのではと期待しています。

簡単に、背景をお話することから始めましょう。

特に、1999年以来、ずいぶんメディアでも取り上げられたのでご存じのかたも多いと思いますが、東チモールは、オーストラリアの北、インドネシアの南東端に位置するチモール島の東半分で、長いことポルトガルの植民地でした。 1975年に、米英の支援のもと、インドネシアの独裁者スハルトが東チモールを侵略し、その後1999年まで、24年にわたり、インドネシアは不法占領を続けてきました。

1988年まで、インドネシアは、ほぼ完全に東チモールを封鎖し、外部の人々はほとんど東チモールには入れませんでした。 わずかに東チモールに入ることを許されたジャーナリストも、インドネシア軍当局の付き添いで、おきまりのコースを見せられるだけでした。

インドネシアによる不法占領が続いた24年のあいだに20万人が命を失っています。 特に、1970年代末までの状況は本当にひどく、飢餓が蔓延し、虐殺や病気なども含め、この数年に10万人以上が殺されるという状況でした。 1979年には、赤十字が東チモールで蔓延する飢餓について警告を出しています。

マニュファクチャリング・コンセントの中で殺されて横たわる子供たちとやせ衰えた子供が写されたと思いますが、これは1975年から1979年までにあいだに写された写真です。

この間、実は、1991年まで、日本でも米国でも、ヨーロッパでも、メディアは東チモールについてほとんど完全に沈黙していました。むろん、例外はあります。

たとえば、1978年7月18日、朝日新聞が東チモールに関する記事を書いています。 インドネシアの専制君主スハルトが、訪問したときのものです。 山口特派員という名前があります。

見出しは

    「見えない内戦の傷跡」、
    「大統領訪問を歓迎」、
    「豊富な商品、物価も平静」、

リードには

「激しい内戦の末にインドネシアに併合された東チモールを17日まで2日間、スハルト大統領の初訪問を機に、見た」
とあります。

注意しましょう。1978年といえば、飢餓や病気による死者が多数出て、また、インドネシア軍による虐殺が最高潮に達していた時期です。 独裁専制国家の大統領公式訪問に付き添った記者は、見せられたコースをただ見てそれをそのまま書いたのでしょう。

けれども、それにしても、ちょっと調べればわかるような誤りがあります。 まず、「インドネシアに併合された」。まったく併合されていません。 国連は、何度も、インドネシアによる不法占領を非難し、東チモールの自決権を確認しています。 この記事が発表された、1978年も、そのあとも、です。

また、「激しい内戦の末に」とありますが、これもまったく事実に反しています。 1975年夏に短い内戦がありましたが、ほどなく終了しています。 その後は、インドネシア軍による侵略と激しい攻撃、虐殺、それに対する東チモールの抵抗があっただけです。

もっと奇妙な部分があります。これは、背景などまったく知らなくても常識でわかるところです。 それは、「激しい内戦の末に」と「インドネシアに併合された」の論理的関係です。 例えば、東京と大阪が中心になって、日本が東西で激しい内戦を繰り広げたとしましょう。 そして、<その末に>、日本がアメリカ合衆国に併合されたと言うならば、何か奇妙ではないでしょうか。 内戦とは別の何らかの理由がない限り、どんなに内戦が起こったって、ある主権国家あるいは主権国家になる意思を表明すべき権利を認められている地域が、勝手にどこかに併合されることはあり得ません。 背景を考慮して、この接続を分析すると、暗黙にある事実を示しています。 つまり、「内戦」に見せかけた東チモールの不安定化をインドネシアが行っていたという点です。 そして、それこそが、まさに起きていたことなのです。

これらは、東チモールの現地にいかなくても、きちんと調べれば、わかることです。

その後も、ずっと、日本のメディアや日本政府は、こうした事実に反する報道をしつづけてきました。 また、人権侵害の激しい国には援助を提供しないという原則に反し、日本のODA援助も続きました。

スハルト退陣時には、橋本龍太郎が「偉大な業績に感慨を覚える」と述べています。 スハルト大統領とは、何十万人とない人を殺し、拷問を加え、世界で最も豊富な資源を持つ豊かな国インドネシアを破産に追いやり、膨大な私財を蓄えた、32年間選挙もなにもなしに大統領の座に座り続けた人物です。

この十数年、私は東チモール問題に関わってきましたが、その中で、今ご紹介した例だけでなく、折に触れ、マニュファクチャリング・コンセントで扱われたテーマは、取り立てて遠くの出来事であるとは、残念ながら言えないと、感じてきました。


テロリズムと東チモール・メディア

東チモールと日本のメディアという流れから、最近世間を騒がせているテロリズムについて少し触れておきたいと思います。 これは、次の映画「9・11」のテーマでもあります。

テロリズムという言葉は、心情的・扇情的に使われ過ぎているきらいがありますから、ここでは、最初に、あまり問題もないだろう定義を採用してしまいます。 米軍の1984年の作戦マニュアルから取ったものです。 このマニュアルは、テロリズムを、「脅迫や強制、恐怖を植え付けることにより・・・政治的、宗教的あるいはイデオロギー的な性格の目的を達成するために、計算して暴力あるいは暴力による威嚇を用いること」と定義しています。

繰り返しましょう。

「脅迫や強制、恐怖を植え付けることにより・・・政治的、宗教的あるいはイデオ ロギー的な性格の目的を達成するために、計算して暴力あるいは暴力による威嚇を 用いること」
この定義にしたがえば、長い間、東チモールの人々はインドネシア軍のテロ行為にさらされてきたことになります。 実は、最近、インドネシアの人権団体が米国議会に出した手紙にも、インドネシアでテロを行ってきたのはインドネシア軍であるとはっきり書かれています。

一方、東チモール側の武装抵抗勢力ファリンティルのタウル・マタン・ルアク司令官は、テロリズムに対して、次のように言っています。 私の知人がインタビューしたものです。

われわれは闘いのなかでテロリズムという手段は執らない。 テロリズムがしばしば国際社会の大きな注目を集めることは知っている。 多くの人がわれわれに、飛行機などの交通手段に対する攻撃が有効であることを勧める。 しかしそれは犯罪であり、非人間的な行為である。 テロをするものは、自分が誰を殺すことになるのかさえわかっていないのだ。 われわれはスハルトに対して闘いを続けている。 だがそのために、そのほかの不特定多数の人間を殺すことはできない。
実際、1999年、インドネシア軍と民兵による脅迫と無差別殺害が続く中、ファリンティルは、国連の合意に従って、武装闘争を控えていました。 これらについては、きちんと調べれば簡単に検証できることでした。

ところが、1999年7月30日に、朝日新聞のジャカルタ特派員翁長忠男という 人は、こんな記事を書いています。

「フレテリン、山岳部でテロ」
「独立派の武装組織「東ティモール独立革命戦線」は山岳部を拠点に、国軍兵士の 誘拐や国軍施設へのテロを繰り返してきた」
フレテリン、すなわち東ティモール独立革命戦線という政党と、東チモール民族解放軍ファリンティルとの区別もついていないという大きな誤りは別として(それにしても、これも少し調べればわかるはずですが)、ここでは「テロ」という言葉がまったく心情的に使われているようです。 先ほども言いましたが、インドネシアの人権団体は、テロの定義をふまえながら、インドネシアではインドネシア軍こそがテロリストであると明言しているわけです。

そして、現在の「対テロ戦争」といった言葉遣い。残念ながら、私たちのまわりのメディアは、マニュファクチャリング・コンセントが描き出した世界の典型的な例であるとさえ言えそうです。


ちょっと恥ずかしいけれど、チョムスキーの言葉でまとめましょう

さて、最近、チョムスキー・ファンの人が結構いるようで、「チョムスキーがこういった」とか、そうしたことを聞いたりしますが、僕自身は、あんまりそういうのは得意ではありません。 でも、このままだと、チョムスキーに関する映画にかこつけて、自分の話したいことだけ話したということになってしまいますから、いくつか、チョムスキーの言葉をひきながら、お話を終えたいと思います。

次に上映される予定の映画、「9・11」の宣伝で使われているチョムスキーの言葉に、こんなのがあります。

「誰だってテロをやめさせたいと思っている。簡単なことです。参加するのをやめればいい。」
実は、この言葉、このまま見ると、「我々に対するテロを止めさせるためには、弾圧とか悪いことを止めればよい」という風にも読めます。 でも、実際に、たとえば米軍マニュアルの「テロ」定義に従えば、世界中のテロの大部分は、「我々」がやっているわけです。 たとえば、東チモールでテロを行っていたのは、インドネシア軍とその手先の民兵でした。 ですから、この言葉は、単純に、「我々」がテロを止めれば、世界中から大部分のテロはなくなる、ともとれます。 実際に、映画を見てみて下さい。

ただ、いま少しだけ例を挙げた東チモールを巡る日本のメディア報道に示されているように、何が「テロ」か、だれが「テロ」に参加しているか、大体が「テロリズム」という言葉が情念的に使われているため、訳の分からない状態になっているのが、困りものです。

そんなわけで、もう一つ、チョムスキーの言葉を上げておきましょう。

「社会的・政治的問題を分析しようとするときに必要なのは、開かれた心で事実をみつめ、仮説を検討し、そして結論に達するまで議論を深めていく意志なのだ。」

1980年代にいわゆる「青春時代」を過ごした僕のような人間にとっては、このストレートさは、恥ずかしいくらいですが、こんな態度や意志が、結局今は必要だし格好いいのかもしれません。 「対テロ戦争」とか「悪の枢軸」とか「真心を込めて(靖国を)参拝した」とかいった言葉の意味するところが、こうした手続きで、少しははっきりすると思います。

簡単ですが、これでお話を終わります。 ドキュメンタリー映画なので、特に扱われるトピックにかかわることを日本と引きつけてお話しました。 何だか優等生的になってしまって申し訳ないです。 映画、楽しんで下さい。

最初に言いましたが、チョムスキー自身についてを含め、物足りないところがありましたら、質問して下さい。

どうもありがとうございました。


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  益岡賢 2002年12月5日
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