WTO  
歴史的な南北の激突―カンクンWTO閣僚会議報告(その1)―
2003年9月


 去る9月10〜14日の5日間、メキシコのリゾート地カンクンで開催された世界貿易機関(WTO)の第5回閣僚会議(加盟国148カ国)は、南北間の激突で幕開けたが、ついに最終日の14日午後交渉が決裂し、流会となった。会議場内では、マスコミは、交渉決裂のきっかけをつくったアフリカの代表の姿を求めてインタビューに走り回り、一方では、数百人のNGOが「我々は勝った」と踊り狂っていた。私もその踊りの輪の中にいた。
 これは強大な先進国政府と多国籍企業に対する、途上国政府とグローバルな市民社会、とくに農民の勝利であった。

1.「催涙弾なきシアトルの再現」

 これは1999年11月、米国のシアトルで、米・EUの対立と、7万人の抗議デモと催涙弾が飛び交う中で流会となった第3回閣僚会議の再現であった。ただし、シアトルとの違いは、カンクンでは、かってないほどの途上国と先進国間の激突があったことと、シアトルでは労組、青年、市民であった抗議デモの主体がカンクンでは農民になったこと、そして催涙弾に見舞われなかったことなどであった。
 カリブ海に面したマヤ人の土地カンクンは、今日では、アメリカのホテル資本によるアメリカ人むけの巨大なリゾート地になっている。物価は、ニューヨークより高く、すべてが安っぽく、こけ脅かしな風景があった。ここで、美しいのはカリブの青い海だけだが、その沖にはメキシコ海軍の軍艦2隻が停泊しており、岩場には機関銃を持った兵士が配備されたいた。 
 カンクンはその特異な地形から、会議場を含むホテル・ゾーンとメキシコ人が住んでいるダウンタウンは離れている。そこで、メキシコ政府は、ダウンタウンからホテルゾーンを3メートルのフェンスで隔離した。その結果、ホテルゾーンを宿にした私たち会議登録のNGOは、ダウンタウンのイベントに参加するには、タクシーに往復4千円も払って、しかも空港廻りで、行かねばならなかった。またホテルで働くメキシコ人従業員たちは、住居であるダウンタウンからの通勤に、通常より時間をかけ、バスを何度も乗り換えねばならなかった。
 ダウンタウンにあるサッカー競技場には、9月6日から、全世界から2万人もの農民がテントを張ってキャンプした。その中には、150人の韓国からの農民、フランスをはじめとするヨーロッパの農民たち、アメリカの家族経営の農民たちがいた。しかし、ラテンアメリカ諸国の農民たちの多くは、国境でメキシコの国境で入国を拒否された。
 日本の公民館に当たる広い「文化の家」が、スタディアムの脇にあり、そこが、オルターナティブ・ピープルズ・フォーラムの会場となった。農民運動や労組、NGOは、9月6日から4日まで、WTOをめぐるさまざまなテーマでシンポジウムやワークショップを開催した。
 そして、WTO閣僚会議の初日に当たる9月10日には、会議場を取り巻くフェンスに向けて2万人がデモをした。デモを主催したのは、「ビア・カンペシーノ(農民の道)」と呼ばれる反WTOの国際農民運動であった。デモの先頭には韓国の農民が立ち、その後、チアパスなどメキシコ全土から集まった農民が続いた。
  デモが目的地のフェンスに到達すると、先頭の韓国グループがフェンスを壊しはじめた。この時、農民のデモの中にいたイ・ギョウヘ韓国農業経営者中央連合会前会長(52歳)が、抗議の自殺をした。
 また、このデモには、黒尽くめの服装をした若者の集団がいた。彼らは、メキシコ自由大学の学生が主体で、「アナーキスト」と呼ばれるグループであった。ビア・カンペシーナの許可を得て、スタディアムのキャンプ場にテントを張り、またデモにも参加した。
 アナーキスト青年たちはフェンスを破壊した。しかしシアトルとは違い、店のショーウインドウを壊すような暴力行為はなかったし、また、メキシコ警察もデモ隊に対して催涙弾はおろか、一切手を出さなかった。さらにメキシコ政府とWTO当局は、会議場内でのイ・ギョンヘさんの葬儀を行うことを認め、彼の死に対する追悼声明を出した。