読む・視る

アーサー・ビナードの本を読む



 

 

1)『ここが家だ/ベン・シャーンの第五福竜丸』(ベン・シャーン/アーサー・ビナード文)

 絵:ベン・シャーン、構成・文:アーサー・ビナード『ここが家だ/ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)を読んだ。この本を広島に出かける前に、スペイン語講座に通っているアジア図書館で見かけ、借りた。アメリカの画家のベン・シャーン(リトアニア出身のユダヤ人)が、ビキニの水爆実験で被爆した第五福竜丸と久保山愛吉さんの死を描き、核兵器の廃絶を訴えた絵本である。私はベン・シャーン展を名古屋と伊丹で2回見ているのと、広島の戦争社会学研究会での「核兵器と太平洋の被爆/被爆経験」でマーシャル諸島におけるアメリカの核実験、仏領ポリネシアでのフランスの核実験と反核・脱植民地運動について話を聞いていたので、とりわけ印象深い絵本だった。今年はビキニの水爆事件から60年になる。(2014・3/19)

2)『原爆詩集』(峠三吉/アーサー・ビナード解説)

 峠三吉著『原爆詩集』(岩波文庫)を読んだ。『原爆詩集』が岩波新書に入ったことは今月初めに広島で知った。何でまた「今頃」と思ったが、日本の「良識」とはその程度か。広島でパネリストとしての発言を聞いたアーサー・ビナードさんが文庫本の解説「日本語を被爆させた人」を書かれている。「日本語を被爆させた峠三吉」という視点で書かれた作品論は大変すばらしかった。このような視点から『原爆詩集』を読むことができるとは「目からうろこ」だった。また大江健三郎も解説「『原爆詩集』を読み返す」を書いているが、老境に達した大江さんの言葉が静かに響いていた。これまで『原爆詩集』を読んでいたが、こうしてあらためて読むと、峠三吉の言葉が「映像」として立ち上がることに感激したし、詩形式以外の散文にも心を打つものがあると気がついた。(「倉庫の記録」)この詩集のとりたてての箇所ではないかもしれないが、その言葉の展開に特別な響きを感じた。(「炎の季節」)「人くさくて 人の絶えた 何里四方かの 死寂(しじゃく)」最近アーサービナードさんは、絵本『ドームがたり/未来への記憶』(玉川大学出版会)を出された。読んでみようと思っている。

3)『ドームがたり 未来への記憶』

 アーサー・ビナード作、スズキコージ画『ドームがたり 未来への記憶』(玉川大学出版会)を読んだ。広島でこの本が出ていることを知ったが、買いそびれて、本屋から取り寄せた。アーサー・ビナードの本は以前にベンシャーン絵、アーサー・ビナード構成・文『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)を読んだことがあが、『ベンシャーンの第五福竜丸』はビキニの水爆実験による第五福竜丸の被爆を描いていた。『ドームがたり』は原爆ドームが語るという形で、ヒロシマ~フクシマへとドームの目で世界を見つめた本だった。アーサー・ビナードさんの本をさらに読んでみたくなった。

4)『空からきた魚』

 アーサー・ビナード著『空からきた魚』(集英社文庫)を読んだ。アーサー・ビナードの本に関心が向き、図書館で借りてきた本で、著者が来日して比較的早い時期に書かれた第一エッセイ集だ。英語、イタリア語、日本語、タミール語・・等(まだありそうだ)に堪能で、ことばの感受性が抜群なのが魅力だ。またデトロイト郊外(ミシガン州)での自然と触れあった少年時代の話には、「トムソーヤーの冒険」の現代版を思わせる。来日した日本でも3台の自転車を使い分けて、都内を散策するとのこと。そしてその文章の社会批評性も鋭い。どの文章もきらりと光ってすばらしい。ひとつ気に入った文章を上げてみる。著者が22歳になって、インドのマドラスでタミール語を先生に習う。先生は<忘れ済み>という話をされる。「忘れるということは、覚えることと同じように大切だ。同じぐらいの集中力がいる。思うに、きちんと忘れるため、きちん覚える。」(「忘れる先生」)アーサー・ビナードの本は図書館にたくさん入っているので、おいおい読んでいこと思っている。(文庫2008・2・20、単行本・草思社2003・7・31)

5)『日本語ぽこりぽこり』

 図書館から借りたアーサー・ビナードのエッセー集の2冊目『日本語ぽこりぽこり』(小学館、2005・3・20)を読んだ。アーサー・ビナードが日本語での詩作、翻訳等について折りに触れ書き綴ったエッセーである。タイトルの「ぽこりぽこり」とは何かと思いながら読んだ。スペイン語の「ポコ・ア・ポコ」(少しづつ)かな?と。ちがった。夏目漱石の「古井戸」の句が「ぽこりぽこり」か「ぼこりぼこり」かという語感をめぐる話だった。(「夜行バスに浮かぶ」)日本語と英語を往還した豊かな言葉の世界に魅了された。たとえば英語から日本語への翻訳に関する誤訳の話(「翻訳の味」)とか「東京新聞」の匿名批評への批判から小熊秀雄の文章に及ぶ話には、小熊秀雄を読んでみたいと思った。(「ぐるりとまわして魚の目」)巻末のマーク・トウェーンをめぐる紀行文「おまけのミシシッピ」は読み応えがあった。「トムソーヤーの冒険」を取り出して、読み直してみようと思った。(講談社エッセイ賞)

6)『日々の非常口』

 アーサー・ビナードのエッセー集『日々の非常口』(朝日新聞社、2006・8・30)を読んだ。朝日新聞に連載されたもので、2ページの見開きで、読みやすく、かつ著者の描いているイメージがぱっと入ってきて、とてもいい。どの文章も新鮮な感銘を受けたが、いくつか上げておく。「聖書という出版物は、むかしから誤植の宝庫だ。(略)けれど、英語のミスがみな直ったとしても、元のギリシア語のテキストは、意味不明な点と写し間違いだらけだ。」(「ミスプリの命」)へぇーそうなん!「日本語をありがたく思うことはたびたびだ。詩を書いていて、苦もなく主語を省略したり、目的語もカットできたり、ナレーターとして、自然にフェードアウトすることもできる。英語だったらそうはいかない。」(「捨てる神、拾う神」)「日本語の『残雪』はドンピシャリ。その端正な二字に無駄がない。響きも引き締まっていて、かといってきれいすぎず、濁音のラフなざらつきも残る。そこに僕は悲壮感さえ感じる。」(「残雪に思う」)また栗原貞子の詩「生ましめんかな」の英訳の話は興味深かった。(「産婆になりましょう」)とにかくこんなおもしろい本が図書館にあるのだから、続けて読もうと思った。

7)『亜米利加ニモ負ケズ』

 アーサー・ビナードのエッセイ集「亜米利加ニモ負ケズ」(日本経済新聞社、2011・1・25)を読んだ。日本経済新聞等に掲載されものだ。アーサー・ビナードさんの守備範囲が、詩作・エッセー・翻訳・絵本制作以外に謡曲、落語等に及ぶことがこの本で分かり、驚かされた。またそのユーモアもとてもすばらしくて感心した。スペインの闘牛場近くのレストランの「本日のスペシャル」の「睾丸」の話にはそのオチに笑ってしまった。(「ガイドブックにのらない話」)「日々、ぼくはなにやら書いている。日本語の詩だったりエッセイだったり、絵本の物語だったり、また英語の詩かエッセイか、あるいは日本語の詩の英訳、英語の詩の和訳、童話や昔話の英訳や和訳も。(略)執筆を通して、自分の観察と思考を掘り下げるわけだが、ぼくにとってもうひとつの意味があり、書くことが生活の根幹を探る作業でもある。いやその根幹を育てる作業といってもいいか。」(「あとがき」)その思考の幅の広さ、思考の多様さ、その深さに出会うことが本を読む楽しさになった感じがする。もういくつかのエッセイを読んでみるつもりである。

8)『アーサーの言の葉食堂』

 アーサー・ビナードのエッセイ集『アーサーの言の葉食堂』(株式会社アルク)を読んだ。ビナードさんの最も新しいエッセイだ。このエッセー集の一番最後の文章に東京から広島に移住されたことが出ている。『言の葉食堂』は、「マガジンアルク」の連載の「日々のとなり」が本になったもので、「アルク」は英語教育関係の出版社のようだ。ビナードさんが、日本の英語表示または日本語の英語への翻訳等、さまざまな言葉に関わる話を看板・ポスター等の写真を介してまとめたもので、非常に楽しい本だった。(私は英語の勘があまりよくないので、その面白みが充分分かった訳ではないが、語学感覚のいい人が読むともっとおもしろいと思う。)「あとがき」で洗濯用合成洗剤(シャンプー・リンス、台所もふくめ)を使わないことを書かれているが、私のそのあたりの生活がいいかげんなので、考えてみようと思った。またそのことと「言葉」との関係を次のようにとらえられているのには、「なるほどな」と思った。「言葉を使うときも、その言葉の向こうにある実態を意識しないと。/使われたあと、言葉がどこへ流れ、生活の中でどう拡散して、あるいはどう濃縮されていき、どんな問題を引き起こしているのか、無視してはならないと思う。食物連鎖とよくにた仕組みが、ぼくらの言論の世界にもひそんでいて、『汚染語』の垂れ流しを放置していると、いずれみんな自分たちに返ってくる。」「この『言の葉食堂』は、そもそも生活の細部へのこだわりから生まれた一冊だ。」(「あとがき」)

9)『出世ミミズ』

 アーサー・ビナードのエッセイ集『出世ミミズ』(集英社文庫、2006・2・25)を読んだ。図書館で借りてきたアーサー・ビナードのエッセイの最後で、文庫本オリジナル版である。『出世ミミズ』という意表をつかれるタイトルだが、そのタイトルと同じ一文はデトロイト郊外で父と過ごした少年時代の魚釣りの思い出の話だ。この本はビナードさんの来日初期のもので、『空からきた魚』『日本語ぽこりぽこり』とともに非常によいと思った。この本に私が付箋を入れた箇所を上げると、それは「<からゆき>のサキさんと<JAPANゆき>のぼく」で、ビナードさんが日本へ行くことを決めた契機が映画「サンダカン八番娼館・望郷」(熊井啓)だったことが触れられていて、とても魅力的な文章だった。他に「禁断の果実」はリンゴでなかったという話、「戦争とWARの違い」も印象的だった。これでビナードさんのエッセイ集はほぼ読んだので、次に彼の詩集・絵本類を読んでみようと思っている。

10/11)『釣り上げては』『左右の安全』

 図書館で借りてきたアーサー・ビナードの詩集『釣り上げては』(思潮社)『左右の安全』(集英社)を読んだ。それぞれ第一詩集、第二詩集の順だ。『釣り上げては』の表題の詩は、故郷ミシガン州で少年時代にお父さんと過ごした魚釣りの思い出を詠んだもので、ビナードさんが少年時代の自然との触れあいを描いた詩はとてもすてきだ。『左右の安全』の表題の詩は、股間の一物を左右のどちらに置くかを色々と思い巡らす話で、それが左利きか右利きかとの話になり、あわや事故かという結末となる。それが「左右の安全」。レナードさんの独特の思考、ユーモアに笑ってしまう。どちらの詩集も自由に言葉が飛翔し、魅力的だった。『左右の安全』の図版はベン・シャーン、『釣り上げては』の表紙の図版は亡きお父さんの旧友によるもので、心のこもった詩集だ。後日に再度詠むために各詩集に付箋を入れた所を記録しておく。(表題の詩以外) 

『釣り上げては』・・「自己ベスト」「ターミナル」「長男のものさし」「タックル」「リンゴ園の宇宙人」「父と現場」
『左右の安全』・・「手紙」「草」「グレードーム」「意味」「これからというとき」「ハーンの日なたに」「野沢菜の勝利」「夢落ち」「在留資格」「靴と家族と」「抗体検査」「向き」「揺れ」「ここも海底」「看板」「英語で『バケツを蹴る』とかいうが」
(こうして見ると『左右の安全』が多いが、詩集としては『釣り上げては』が気に入った。)


12)『焼かれた魚』(小熊秀雄、アーサー・ビナード英訳)

 小熊秀雄の童話『焼かれた魚』を読んだ。読んだ版は、新田基子(絵)の『焼かれた魚』(創風社、1997年1月刊)と市川曜子(絵)、アーサー・ビナード(英訳)、木島始(解説)の『焼かれた魚』(透土社、1993年11月刊)で地元の図書館にはなく、大阪府立図書館から取り寄せた。小熊秀雄は戦前に若くして亡くなったプロレタリア詩人で、『焼けた魚』について知ったのはアーサー・ビナードのエッセイからだった。「焼かれた魚」は海に帰りたくて、ねこ・ねずみ・犬・からす・ありに頼んで海まで運んでもらう。その代償にみずからの肉を与える。魚の目から描かれた世界は「からだのいたみ」を感じさせるものだった。この「からだのいたみ」は「民衆のいたい」だと思った。地元の図書館に『小熊秀雄詩集』があったので、2冊借りてきたので読むつもりだ。

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