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「花岡事件」が起きてから半世紀以上が経過し、地獄のようだった強制労働の日々を必死に乗り越え、日本の敗戦後に中国へ帰った人たちも、いちばん若い人で七〇歳半ばになっている。花岡鉱山にいた時に隊長の役目を押しつけられた耿諄さんはいま八六歳だ。昨年(二〇〇〇年)の五月に訪れた時に、「公正な裁判を闘い取るまでは死ぬことが出来ません」と、乗り物には乗らず、歩きながら運動をしていた。杖を頼りに、一歩一歩と足を運んでいる姿は痛々しいほどだった。
いまでも午後には、病院に行くという。花岡事件が起きた直後、首謀者の一人と見られ(実際には蜂起を計画した中心だったが)、秋田刑務所に収容されたときに、取り調べに来た憲兵に殴る蹴るの暴行を受けたときの傷が、今でも激しく痛むのだという。中国にいる生存者のほとんどが、重い軽いの違いはあるものの、花岡鉱山にいた時に受けた傷に悩まされている。それだけに、高齢化と一緒に重い生命を背負っているのだ。
だが、花岡事件の生存者と遺族で花岡受難者聯誼準備会(のちに準備を取る)を結成し、最初の「鹿島建設に対する公開書簡」を北京で発表したのが一九八九年一二月二二日。第二次公開書簡でもなんの返答がないため、鹿島を相手に損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こしたのが一九九五年六月二八日。日本で傷を受けた人が多く、いまでは若い人でも七〇歳半ばになっている中国人生存者に対して、なんと期日を多くかけていることか。「われわれが死ぬのを待っているのだろう」と生存者の一人は言っていた。そのようには考えたくないが、長びいている期日をみると、そう考えてもおかしくない方法をとってきた。
この裁判も延ばしに延ばした末に、一九九七年一二月一〇日、立証に入る前に審理を打ち切り、「提訴段階で二〇年以上を経過し、不法行為に対する賠償請求権は消滅した」と門前払いの形で退けた。この法廷にはわたしもいたが、請求棄却の主文が読み上げられた直後、守衛も驚いて立っていたほど怒号がひびき、裁判官たちがあわてたように姿を消していくのを見た。はじめて見る法廷風景に、わたしも驚いた。
この後、記者会見した耿諄さんは、「東京法院失公道、戦犯鹿島不容(東京地裁は正義を失い、戦犯鹿島の罪を認めなかった)」と書いた紙を掲げ、「陳述の機会さえ与えず、中国人を侮辱した。戦時犯罪に時効はないという世界の常識を無視し、日本の醜いイメージを世界に与えた」と判決を批判した。しかし、完全な被告の敗訴であった。最近は、朝鮮人強制連行などに企業の責任自体は認める判決も出ていたため、いくらか希望を抱いていただけに、奈落の底につき落とされた思いだった。
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原告側は二日後の一九九七年一二月一二日に東京高裁に控訴した。控訴審の東京高裁では、「花岡事件は戦争犯罪であり、時間の経過で左右されるべきではない」などと訴えた。だが、裁判は長びいた。裁判は一一人の原告による「代表訴訟」の形をとっていたが、すでに一審段階で一人が死亡、控訴審に入ってからでも二人が死亡していた。そのあとは、子どもたち肉親が引き継いでいるが、「被害者が生きているうちに、満足のできる成果を得たい」という要求からは、遠ざかっていくのだ。そうした中で、「二〇世紀に起きた問題を次の世紀の宿題にするな」という声は高まった。
このように控訴審が時間をくっている時に米国のカリフォルニア州では、一九九九年七月に、既に時効が成立している大戦中の強制労働について、「控訴の時効を二〇一〇年まで延長する」との新法が成立した。これによって半世紀以上前の強制労働の補償を求める訴訟が可能になったほか、ドイツ関係者だけではなく、捕虜になった元連合軍兵士や、韓国、中国、フィリピンの民間人による日本企業の提訴も続き、すでに三〇件以上になっている。日本企業の対応が大変になっていた。
東京高裁の新村正人裁判長は一九九九年九月一〇日に、「通常の事件とは違うと理解している。和解で解決を図るべきだ」と、和解勧告をしてきた。それから一年余の和解協議が続けられる中で、ナチス時代のユダヤ人強制労働に対して、ドイツ政府と被告企業は合同で約五三〇〇億円を拠出して犠牲者賠償基金を設立している。これが参考になったといわれるが、二〇〇〇年一一月二九日に東京高裁で和解が成立した。原告一一人だけではなく、花岡鉱山に鹿島が強制連行した九八六人の全員を一括解決したものだが、その「和解骨子」は次のようなものだった。
一、当事者双方は(鹿島が謝罪した)一九九〇(平成二)年の「共同発表」を再確認する
一、鹿島は慰霊の念の表明として中国紅十字会に五億円を信託する
一、中国紅十字会は信託金を「花岡平和友好基金」として管理し、日中友好の観点に立ち被害者に対する慰霊および追悼、被害者と遺族の自立、介護、子弟育英などの資金に充てる
一、被害者と遺族は信託金の支払いを求めることができる
一、和解は花岡事件についてすべての懸案の解決を図るものであり、被害者と遺族は一切の請求権を放棄することを含む
日本政府や企業は、現在約六〇件ほどが戦後補償訴訟で係争中であり、韓国人の場合は新日本製鉄、日本鋼管、不二越が和解に応じたが、慰霊金支払いなどで解決している。基金方式で、しかも中国との和解は今回がはじめてであり、ほかの裁判に対しても、一つの解決案を示したと評価されている。また、今回の和解で、「花岡という文字は、歴史的意義を持つことになった」と言う関係者もいる。だが、新しい道をつけた点は評価しながらも、置き去りにされたり、今後に残された問題も多い。
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和解が成立したあとで、中国人側代理人の弁護士は、「この和解は、鹿島に法的責任がないことまで認めたものではなく画期的」と評価した。だが、鹿島が発表したコメントでは、「(訴訟では)当社に法的責任がないことを前提に和解協議を続け、慰霊などの対象として花岡出張所で労働に従事した九八六人全員を含めることがふさわしいと主張した。受難者の慰霊、遺族自立、介護など具体的に実施できる仕組みも整う見込みがたち、和解条項に合意した。『花岡平和友好基金』の拠出は、補償や賠償などの性格を含むものではない」(『毎日新聞』一一月三〇日付)と発表している。双方は異なった意見を公表しているが、これは非常に大きな問題だ。ほとんどが高齢者となり、一日も早く解決しなければいけない立場にはあったが、だからといって基本を曖昧にしてもいいということにはならない。中国人側代理人の意見を聞きたい。
また、同じ日に鹿島が発表したコメントでは、「当時、中国人労働者の置かれた環境は大変に厳しく、当社としても最大限の配慮を尽くしたが、多くの方が病気で亡くなるなど不幸な出来事があり、深く心を痛めてきた」(『朝日新聞』一一月三〇日付)としている。いくらコメントといっても、あまりにも空々しくないか。花岡鉱山に強制連行された中国人から沢山の聞き書きをとり、それらをまとめて発表しているが、このようなコメントの話は誰からも聞いていない。また、和解になったのだから空々しいコメントを見逃してもいいということにはならない。こんど機会があったら、生存者たちにこのコメントを聞いて貰い、ぜひ意見を聞きたいと考えている。被害者の証言を心に刻み込んでいない鹿島に、怒り心頭に発する思いがする。
さらに、韓国人の場合が三件、中国人が今回の一件というように、わずかながら企業は和解に動き始めた。ところが日本政府は、「戦後補償は解決をしている」という姿勢をとり続けている。朝鮮・中国人強制連行は、政府と企業が計画したことが資料的にも明確である。ところが企業は、「日本政府の閣議決定による中国人労働者内地移政策に基づ」(鹿島のコメント)いて連れて来たと逃げているし、日本政府は強制連行の経緯と企業の監督責任の不十分さを認めようとしないまま和解したことも、難しい限界はあるだろうが、ひと言も触れずに終わったのは納得がいかない。仮に中国人側代理人が譲歩したとしても、今後に残るいちばん重要な部分に踏み込まなかったことになる。一二月一二日までに東京で開いた「女性国際戦犯法廷」でも、昭和天皇や日本政府の法的責任を認めて閉幕したというが、日本に対する風当たりがさらに強まる中で、このように曖昧なしめくくりでいいのか疑問視される。
今回の和解を高く評価しながらも、今後に残された問題を解決していく努力をすることで、戦後補償の流れを変えることになるのではないだろうか。
(作家)
アソシエ21 ニューズレター 2001年1月号 No.21
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/yd5/associe/newsletter/2001/no21.htm#SEC2