2003年3月10日付け《中国新聞網》では、 「花岡暴動の指導者・耿諄を含む河南省の花岡被害者及び遺族20余名が、 花岡「和解」で拠出された拠出金からそれぞれ25万円(1.6万元) の賠償金を鄭州で受け取ることになった」と報じた。 《平頂山晩報》も同様の記事を載せた。
これは、人間性を失い中華民族の尊厳をも顧みず、 ありもしない話をでっち挙げてことの是非を混交し、 人々を惑わす報道をもって私に和解の受け入れを強要する行為であり、 これに対して私、耿諄は厳正な態度で抗議の意思を表明する。
私はこの声明で、屈辱的な和解に明確な反対を表明し、 依然として恥知らずな鹿島の救済金受け取りを拒否する(但し、私本人に限る)。 ただし、花岡の被害者には、各々自分の権利があり、受け取るか否かは本人の自由である。如何なる者もこれに干渉する権利はない。
私は「花岡訴訟」の原告団長であるが、「和解」の正文に署名をしていないのだから、 私に対して和解は無効である。
「花岡事件」の過程を述べて、それを証明したい。
耿諄と苦難を共にした王敏らは、1989年12月、 鹿島に公開書簡(別紙1)を送って三項目の要求を行った。 (1)真摯な謝罪、(2)日本と中国の二箇所に死亡した人々を悼む記念館を建設、(3)986人の被害者あるいは遺族に一人500万円の賠償金を支払い 受難の傷を癒すこと。
これを受けて、翌90年7月5日、双方は東京の鹿島本社で話しあった。 鹿島の代表者・村上光春副社長(当時)は、私たちの要求の第一項目に対して、 その場で謝罪を表明した。 第二、第三の項目については、双方が代表を派遣して早期に解決を計ることを決定した。 同時に「共同発表」(別紙2)を出したものの、鹿島はしばらくしてこの約束を反古にし、 協議は中断したまま4年が経過した。
そこで、協議には希望をもてないと判断し、 耿諄ら11人が原告となって986人の利益を代表し、 日本各界の支援を得て新美隆を代表とする16人の弁護団に委託し、 95年に東京地方裁判所に鹿島を提訴した。 裁判所はこの案件を受理し、2年半の間に7回開廷されたが、 証拠も取り上げず短時間の審理ですぐ休廷に入り、結局原告敗訴を宣告した。 原告団は、公正な判決を受けられないことに怒りをもって弁護団と相談し、 東京高等裁判所に控訴した。 高等裁判所はこの案件を受理し、 90年の「共同発表」を基礎にして法廷外調停を行うとの提案を99年に行った。
そこでは、「共同発表」を基礎として鹿島が改めて謝罪し、 5億円の賠償金を出して中国紅十字会がその管理を引き受けて運営する(各自に配分) という和解条項が報告された。 原告団はこれを受け入れ、特に異議は申し立てなかった。 原告団は、弁護団に対する信頼から全く内容に疑いを持たず、 和解文書の厳密な確認も求めなかった。 会議の雰囲気は和やかで、 田中宏・一橋大学教授(当時)が和解成功の祝辞を書いてはどうかと提案したので、 私は求めに応じて揮毫した(四行詩 別紙3)。 北京からは「中国紅十字会」の幹部である張虎(「聯絡部双辺合作処副処長」) も参加していた。
「和解」に列挙されている各条項は、 みな被害者に足かせをはめることばかり規定している。 それは、90年の謝罪さえもご破算にするもので、記念館の建設に及んでは、 一字も触れてはいない。 僅かに5億円は出すものの、 賠償でも補償の性質を含むものでもないと注釈してくれている(別紙 4、5)。
血の通った中国人で、この仕打ちに対して、 この上ない恥辱と悔恨を感じない者がいるだろうか?
私は、和解に断固反対し、金の受け取りを拒否することを誓う。
このような「和解」は、私には無効である。
在日の華僑が祖国を熱愛し「花岡事件」へ大きな支持をくださったことに、 花岡被害者及び遺族は心から感謝している。
耿 諄
2003年3月13日
別紙:1 1989年鹿島への 公開書簡
2 1990年7月5日、共同発表
3 四行詩
4 和解条項
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鹿島のコメント