『人権と教育』36号、150頁(2002年5月)

日本政府と加害企業の誠意は?

−−花岡事件の「和解」に疑問−−

呉  広 義


1.国際法規によれば、日本政府と企業は必ず責任を負うべきである
2.人道主義の原則に基づき、日本政府と企業は当然謝罪すべきである
3.時代の潮流に順応して、日本政府と企業は当然賠償すべきである


2000年11月29日、東京高等裁判所の意向により、鹿島建設と中国の元花岡労工 (訳注、労工=肉体労働に携わる者を言い、組織されたものではなく、多くの場合日本軍、 企業に強制的に使役させられた肉体労働者) 代表の間で和解協議が成立し、鹿島は5億(日本)円をもって「花岡平和友好基金」を設立、 中国労工被害者の慰霊と遺族の自立および子弟の教育資金とすることになった。 だが、この金額を中国の元花岡労工986人の被害者全員が受けた非人間的な処遇から見れば、 ドイツやヨーロッパ各国が労工に支払った賠償金額に比べてあまりにも少なすぎる。 とは言え、 結局今回の和解は日本の加害企業が労工を奴隷的に使役した罪業に責任を負うことの始まりであり、 加害者と被害者が和解する端緒でもある。 日本が侵略戦争の歴史認識問題から逃れようとすることへの 暗い影の始まりでもあることをも暗示している。 花岡の労工と鹿島の交渉は、日本の裁判所に起訴して、 十年の闘いの後にやっと一つの結果をえた。 これを聞いたとき、私たちには瞬時安らぎがよぎったが、 それは鹿島の「花岡事案和解に関するコメント」によって再び暗い雲に遮られてしまった。 その声明は3つのことを強調している。

 一、鹿島は、日本政府の閣議決定に基づいて、日本国内に労働者を移入することになったので、 花岡営業所は多くの中国人労働者を使用したが、 「戦時のことで条件は非常に悪かったので多くの病死者が発生するなど不幸な事件が発生した」。
 二、鹿島は、中国の労工が起訴した内容について、 「和解条項」の中で鹿島に法的責任がないことを特に強調している。
 三、「花岡平和友好基金」の設置については、補償や賠償の性質を含むものではない。

このコメントを見て、私たちは思わず、 鹿島が1990年7月5日の中国労工代表との間で発表した「共同発表」の中で表明した 「花岡事件」の責任を果たすことと「謝罪の意」を表すことは、 どうなったのか、と聞きたくなった。 道義的な謝罪の責任と経済的賠償責任を受け入れない和解に誠意があると言えるのか。

以下に、国際法規に即して、人道的原則と時代の潮流は、 鹿島と日本政府が強制連行して奴隷的に中国労工を使役したことについて 当然責任を負うべきであると判断する。

1.国際法規によれば、日本政府と企業は必ず責任を負うべきである

日本が、全面的な中国侵略と太平洋戦争を発動してから、 国内労働力の枯渇問題を解決するために、 4万余の中国の一般住民と戦争捕虜を強制的に連行して日本に護送し、 35社135事業所で建築、採炭、精錬、造船、運輸などの重労働に使役した。 鹿島組花岡出張所での中国労工の境遇は中国労工全体の悲惨な境遇の縮図である。

花岡出張所の労工宿舎は、アウシュヴィッツのそれと何ら変わることはない。 長い板のベッドが上下二段になっており、鳥籠が繋がったようになっている。 鹿島組花岡出張所に強制連行された中国の労工は毎日河川改修工事の労役に当たり、 作業時間は16時間にもなっていたのに、 食料はドングリの粉とリンゴの滓を交ぜてつくったパンで、 しかも量が決められていたから腹いっぱいになることはなかった。 冬になっても衣服は着たきりすずめの単衣一枚きり。足には素足にワラ草履だが、 一日中冷たい汚水に浸かっての作業である上に、 いつも監督の殴打に遭い、ある労工は監督に殴られて死んだ。 夜中は各人破れた毛布一枚きりなので、寒くてなかなか眠れない。 それでわずか半年ばかりの間に二百人あまりが死んだのである。

このような非人間的処遇にさいなまれたことにより、 中国労工は生きるための闘いを決意し、1945年6月30日、 7百余名が暴動を起こして付近の獅子が森に立てこもった。 しかし日本側は2万人の憲兵警察地元自警団など総出で鎮圧に当たり、全員が逮捕された。 多くの労工は逮捕されるまでに銃殺され、あとの者もみな捕まって連れ戻された。 酷暑の7月、労工たちは後ろ手に縛られたまま3日3晩共楽館の前の敷石の上に引き据えられ、 この広場で百余名が命を落した。 これが「花岡惨案」の経過である。 残った5百余人は再び花岡出張所に連れ戻され更に厳しい監視の下で酷使された。 敗戦後の9月15日に占領軍が秋田県に進駐して初めて解放されたのである。

日本が署名した戦争国際法規には次ぎの二つがある。 (1)1907年、ハーグ第4条約およびその付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」。 この条約は1899年のハーグ第2条約および付属書の延長であり、 日本はこの2つの条約に署名、批准している。
(2)1929年「戦地軍隊における傷者及び病者の状態改善に関するジュネーヴ条約」 に日本は署名したが、批准はしていない。 だが、日本政府は戦争中にこの条約を遵守することを承諾したのである。

この2つの戦争国際法規は戦時交戦国が一般住民と戦争捕虜に対する基本原則を確定している。 「一層完備シタル戦争法規ニ関スル法典ノ制定セラルルニ至ル迄ハ、締約国ハ、 其ノ採用シタル条規ニ含マレザル場合ニ於テモ、人民及交戦者ガ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習、 人道ノ法則及公共ノ良心ノ要求ヨリ生ズル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ 立ツコトヲ確認スルコトヲ以テ適当ト認ム」(1907年ハーグ第4条約前文) (訳注、濁点を補った。以下同じ)、 「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、コレヲ尊重スベシ」 (ハーグ第4条約第46条)、 つまり、締結国は交戦時に必ず戦争国際法規と人道主義の原則を遵守し、 一般住民と戦争捕虜の人権を尊重すべきことを要求しているのである。

中国の被害者が当時の日本政府、中国侵略の日本軍による種々の暴行について起訴したのは、 日本軍の暴行がすべてこの2つの戦争国際法規に著しく違反しているからである。 1907年ハーグ第4条約第3条に 「違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。 交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付キ責任ヲ負フ」とある。 したがって日本政府は当然責任を負い賠償すべきである。 1907年のハーグ第4条約には時効性がない。 戦時の日本政府と現日本政府は同じ流れを継承しているのであるから 当然責任を逃れることはできないことになる。

戦時中日本の35企業は4万人もの中国労工と捕虜を酷使し、大量に不当な富を搾取した。 これらの企業は今でも関係企業に受け継がれているのであるから、 当然未払いの労工たちの賃金を支払い、不当に得た富を差し出すべきである。 中国労工と捕虜を奴隷のように使役した野蛮な行為は、 日本政府が画策し組織して実施したことであり、日本政府は当然責任を負うべきである。 1929年の「戦争捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約」の第28条には、 「拘留国は個人的な仕事に捕虜を使う場合も衣服や食料などを支給し、 適切な配慮をし、待遇と賃金の支給すべてに責任を負う」となっている。 日本政府は当然日本企業が使役した戦争捕虜に対してその補償の責任を負わねばならない。

中国人被害者の対日賠償訴訟には、日本政府は1972年の日中国交正常化の時、 中国政府が国家の戦争賠償を放棄したことを根拠に、これを拒絶しようとしている。 しかし中国政府が放棄したのは国家の戦争賠償であって、 決して被害者の賠償請求権まで放棄した訳ではない。 1995年6月28日、中国外交部の報道官は、 花岡労工の生存者が東京地方裁判所に鹿島を起訴したことに対して 「強制連行して中国労工を使役した、このような歴史が残した問題について、 私たちは日本側に責任ある態度でまじめに応対し、妥当な処理を行い、 相応な賠償を行うことをも含めて要求する」と述べた。 1992年9月22日、中国外交部の報道官は東京地方裁判所の731部隊など 中国被害者の対日賠償要求却下の判決について、 「中国は日本の関係方面、 とくに日本政府が侵略戦争によってもたらされた事態の結果を正確に認識し、 中国人民の心身の健康と切実な利益の問題について真面目な責任ある態度で望み、 関係方面を促して中国人民が提出した要求に厳粛に対応するように」と指摘している。

2.人道主義の原則に基づき、日本政府と企業は当然謝罪すべきである

当時日本に強制連行された中国労工はすでに70〜80歳になっているが、 彼らは依然として苦しい生活をしている。 その一方で、加害側の日本政府と企業は、ずっと正式な謝罪をしていない。 労工たちの胸の内の苦しみや屈辱はいまだに晴らすことができず、 精神的に受けた暴行の苦しみは消えていない。 またそのほかにも、当時非人間的で残酷な待遇に苦痛を味わったが故に、 つねに病魔が纏わり付き、肉体的にも精神的にも痛手から立ち直れないでいる。 彼らには、加害者の謝罪と賠償があってはじめて、傷ついた心身も慰められ、 残り少ない余生にも安らぎが訪れることになろう。

だが、中国の被害者が日本の裁判所に提訴した8回の訴訟は、 日本政府と企業の拒否にあって、裁判所は公平な裁判ができず、 あるものは、理由もなく却下され、あるものは引き伸ばされている。 これはすでに高齢で余命僅かな原告たちにとって極めて非人道的であり、 彼らの多くは公道を取りもどす日までもう待ち切れないのである。 1995年に鹿島を提訴した11名のうち既に現在(2000年末) 3人もが死亡してしまった。

日本政府と鹿島が、中国の被害者の立場にたち、その苦しみと肉親の悲哀を知ったなら、 きっと自分の罪悪の重大性が分かるはずである。 当時、中国侵略軍として労工狩り(うさぎ狩り作戦)に参加した59師団中隊長の小島隆男は、 実にこのように立場を変えてはじめて自分の罪業を認識し、 中国労工と共に鹿島に謝罪と賠償を要求したのである。 小島隆男は、「うさぎ狩り」の情景を回想して、「私は当時機関銃隊の中隊長であった。 村をみれば掃射し、村人を村の中央に追い込んだ。 労工を集めるには大量の兵力を使い、幅16キロメートル、長さ32キロメートル、 東京から神奈川に至るほどの包囲網を作り、 この範囲内に上空から飛行機が地上部隊と呼応して指揮し、 もし中で動く中国人を見つければ捕まえて憲兵隊に渡し、 丈夫そうな者を日本へ送った」と述べている。 彼は労工を捕まえただけではなく150余人を指揮して山東省全域で悪業を働き、 部落を襲撃し、略奪、放火、殺戮を働いた。 新兵教育のために中国農民を木に縛り付けて、刺殺訓練をさせた。 彼は、当時はなんの罪悪感もなかったのだが、 戦後「花岡事件」の慰霊祭の時心に衝撃を受けた。

「毎年6月30日、事件の発生した日を記念して慰霊祭が実施され、 中国から元労工と遺族の2〜3人を招いて、 秋田県花岡と東京の築地本願寺で慰霊祭が行われた。 私もこの行事に参加して中国から来られた人々に会った。 その日、或る遺族は慰霊碑に刻まれた肉親の名前を指でなぞりながら昏倒した。 日本の担当者は、中国の労工に重労働させたにもかかわらず腹一杯食事を与えず、 勝手に足蹴にし打ちのめし、病気になっても薬一つ与えず放置した。 労工たちは、冬の寒さにも衣服がなくてセメント袋でからだを包み、 震えながらなお労働させられた。 彼らはこのようにして故郷の肉親に思いを馳せながら異郷の地で死んでいったのだ。 この生存者は指で死んだ元同僚の名前を追った。 父親を殺害された女性は法事のはじめから終りまで泣いていた。 あれから50余年が経過したのに遺族の悲哀は何も軽減されてはいない。 これらの捕らえられて強制労働に従事させられた中国人は何も悪いことをしたわけではない。 畑で忙しく働いているとき捕まえられて日本に送られ、 飢餓と寒さに苦しみながら恨みを抱いたまま死んだのだ。 ただひたすらに故郷への帰国を念じながら。」

小島隆男はこれらの中国人を思い、 彼らが死んでも安らかに目を閉じることも出来ないであろうと心を痛める遺族の悲しみを思い、 できるだけ傷害を受けた中国の労工や遺族たちに会うことで、彼らの悲哀を理解し、 殺害された中国人の心の痛みや恨みを深く感じ取ることができたのである。

4万人もの中国の労工たちの中には、 花岡と同じような悲惨な境遇に苦しんだ者が大勢いたに違いない。 韓さんという労工は結婚して7日目に日本軍に捕らえられて行方不明となった。 妻はその後再婚した。 やっと帰国した彼は以来妻を娶ることもなく、 一人生活苦と精神的な苦しみに悩まされて孤独の日を送っている。

河北省の献県に住む張桂英さんは、 55年前日本軍に捕まって行方が分らなかった父親が日本の三菱で労工をさせられ、 非人間的な待遇に反抗したことから日本の警察に殺害されたことを 1998年はじめて日本の進歩的な人からの知らせで知った。 父親がいなくなって一家は働き手を失い、後に祖父、祖母ともに悲憤と貧困の中に死亡した。 母親も病死して残された幼子2人は仕方なく乞食をして生きてきた。

北京の楊玉林さんは56年前に日本軍に捕らえられ強制連行された父親が、 日本の鉱山に送られたが今でも父親の消息を探している。

何万という中国人とその家族は今に至るも、 強制連行のために肉親を失った悲しみの苦痛から解き放たれていないのである。

被害者および被害者遺族の悲惨な境遇を思ってはじめて、 日本政府と企業が今に至るまで罪を覆い隠し、責任から逃れようとし、 謝罪を拒否することが如何に非人道的な行為であるかを知ることになる。 一部の元労工は、すでに日本の裁判所の公正性に信頼を喪失し、 アメリカの裁判所に彼らを使役した日本企業を提訴しようとしているが、 これはやむを得ない措置である。 彼らの目的は生きている間に公道を取り戻し、 雪辱を晴らそうとの強い意志のあらわれなのだから。

3.時代の潮流に順応して、日本政府と企業は当然賠償すべきである

日本の加害企業が中国労工を強制連行した責任を日本政府に押し付け、 日本政府は中国労工被害者の賠償要求に対して、 「戦争被害者個人が加害国に賠償を求める権利はない」、 「各国の戦争被害者が賠償要求を提出する時期は 既に日本民法の規定する20年の訴追期限を越えている」などの理由をもって拒絶した。 だが、時代の潮流は日本政府と企業がこのように責任逃れを押し通すことは出来なくなった。

ドイツ政府は戦争被害者の賠償問題に対して、一貫して責任ある態度をとっており、 日本政府とは明らかな対照をなしている。 戦後西ドイツの初代首相アデナウアーは、 「ナチスはドイツ人民の名で滔天の罪業を犯したのだから、 私たちは道徳的物質的にこれを償う義務がある」と述べた。 1953年に西ドイツは「連邦賠償法」を制定して、 ドイツの侵略によって傷害を受けたあらゆる人々に対して賠償を行うことを決定し、 1993年末までに、ドイツ政府が戦争被害者に支払った賠償額は、 1222億6千万マルク(訳注、約10兆円)に達している。 ドイツは1999年から中東ヨーロッパの1万8千名の まだ賠償を受け取っていない被害者に2億マルクを支払うことにした。 戦時中に各国の捕虜や一般人を使役したことのある、 ドイツのIG、フォルクス・ワーゲン、ベンツなどの会社は 1951年から被害者に対して賠償を行なった。 1998年フォルクス・ワーゲンは2千万マルクをもって戦争被害者賠償専門基金を設立した。 1999年には、ドイツ政府と自動車、鉄鋼、 金融などの大企業が連合して「記憶、責任、未来」という賠償基金を設立し、 最終的には各国の被害をうけた労工への賠償額は100億ドルに達する計画である。

国際的な関係組織は労工被害者の賠償問題について絶えず日本政府に圧力を加えている。

1999年3月11日、ILO条約勧告適用専門家委員会は 「1998年年度報告」の中で戦時日本企業が強制的に労工を使役した問題について 「本委員会は極めて悲惨な条件の下で、日本の民間企業のための大規模な労働者徴用は、 強制労働条約違反であったと考える。 被害者が現在裁判所に係属しているにもかかわらず 被害者の個人賠償のためには何ら措置が講じられていない。 日本政府が自らの責任を受け入れ、 被害者の期待に見合った措置を講じられるであろうことを確信する」と勧告を行なった。

アメリカのカリフォルニア州議会は、日本政府、 企業と裁判所が労工被害者に対して謝罪と賠償を 拒絶する傲慢な態度をとっていることに対して制裁措置をとった。

1999年8月、アメリカのカリフォルニア州議会は、 日本政府が戦争期間中の戦争犯罪に「はっきりした」正式書面をもって謝罪すること、 中国侵略期間中の罪責を負い、 南京大虐殺の30万被害者に賠償金を支払うことを促すという議案を通過させた。

これは、アメリカ議会で初めて立法の形式をもって、 日本政府に公けに侵略の罪責を認めさせ、 同時に被害者の賠償を求める行為を承認するように要求したもので、 このことに対して日本の新聞は 「再び、日本の戦争責任を追求する起爆剤になる」と称したものである。 2000年の初めアメリカのカリフォルニア州議会は 再びハイドン議員のSB1245号法案を通過させ、有効期限は2010年末とした。 この法案によれば、戦争中に強制連行されて使役に従事した労工被害者およびその遺族が カリフォルニアの高等裁判所に起訴することが出来、 関係する法人と継承人の賠償要求が可能となる。 いままでに、アメリカ、韓国、オーストラリア、オランダ、 中国などの元労工と戦争捕虜がアメリカの法廷で日本企業を起訴したのは50余件にのぼった。 これは日本政府、企業、日本の裁判所に対する大きな衝撃となっている。

中国労工の対日賠償を発展させるのは、 日本政府と加害企業が本当に心から謝罪する誠意があり、 共同で責任をもって賠償問題を解決する意志があって初めて被害者からも許され、 日中両国人民の和解が実現することになるのである。
                               (山邉悠喜子 訳)

(呉広義氏、中国社会科学院世界経済政治研究所研究員、 本文は日本ででている『中文導報』2000・12・16に報道されたものである)


[編集部後注]

本誌では、その34号(2001・5)に、 「侵略と中国人強制連行−−実態と補償問題」を田中宏氏に執筆していただいた。 東京高裁での花岡事件の「和解」は、日本の新聞・テレビが「画期的解決」と大きく報じた。 しかし中国の論調は全く異なるものが大勢を占めている。 そのことは日本国内ではほとんど報じられることがない。 ここに中国人研究者の代表的見解として呉広義氏の日本企業・ 政府の戦争責任にたいする姿勢への批判を紹介したい。 花岡事件については、本文中で詳しく述べられているとおりであるが、 敗戦後の横浜戦犯法廷では鹿島組花岡出張所長らに有罪判決が下されているのである。 1989年末には被害者・遺族が鹿島建設に対して、 謝罪、記念館建設、賠償の3項目要求を含む公開書簡を送った。 翌年耿諄代表らが来日し鹿島建設と交渉して、 「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、 閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、 鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、 当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。」とし、 公開書簡に盛られた問題を話し合いによって早期解決をめざすという「共同発表」を行っている。 しかし、その後の鹿島の対応は誠意を欠き解決が徒に引き延ばされたため、 被害者・遺族の11名は1995年東京地裁に提訴したが、 1997年除斥期間の経過(時効)を理由に棄却された。 東京高裁では和解が成立したが、和解条項の第1項で双方が「共同発表」を再確認したものの、 その但し書きにおいて鹿島は法的責任の否認を主張し、 原告側はこれを「了解」するという曖昧な形にされた。 また記念館建設は無視され、賠償金は1桁少ない「救済金」にすり換えられ、 「共同発表」から大幅に後退したものになってしまった。 さらに和解直後に鹿島が発表した「公式コメント」によって、 「和解」の本質がますます明らかになったことは、本文に見られるごとくである。

2001年の6月26日、 かって強制連行の中継収容所として悪名高かった石家荘集中営(石門労工訓練所) の所在地である石家荘で「花岡暴動56周年記念集会」が開催された。 主催者の当初予定した参加者は50人であったが、実際には150人となり、 学者、研究者、元労工、その遺族と多彩な幅広い参加があり、 中国人のこの問題に対する関心の深さを知らされると同時に、 花岡暴動は既に半世紀以上前のことではあるが、 河北・河南一円に広がる日本の強制連行に対する影響が未だに消失していない 現実を浮き彫りにしたとの現地報告がある。 今回の「和解」が国策企業としての鹿島の犯罪事実にたいする認識を追求することなく、 原告たちの主旨を裏切って成立したことに強い抗議と怒りを表明し、 結束して初志貫徹を目指して新たに連誼会も結成された。 なお同会では、「体験者が高齢化して、失われていく現状から、 われわれは貴重な歴史の証人を失うことがあってはならない。 とくに若い世代が歴史に無知であってはならない」と強制連行のさらなる実態を明らかにするために、 生存者や遺族からの証言を集めることを全国に呼びかけている。

「和解」が成立して以来、大方の日本人は一件落着、今これを語り考える人はあまりいない。 「和解」をめぐっての日中両国での評価の隔たりはあまりにも大きい。 「花岡事件」は戦争中に日本が行なった強制連行と虐待の典型であり、 この裁判は原告たちの尊厳を回復する道程であるとともに、 日本が戦争責任を果たす起点となすことが私たち日本人の願いでもあったはずである。 しかしながら「和解」の結果が被害者と遺族に「再度の侵略」とまで憤激を呼び、 広汎な反対運動をひきおこしている。日本人として「花岡和解」を再考するために考え、 呉広義論文を、西村史朗氏を介して掲載した次第である。


『人権と教育』編集部のご厚意で転載させて頂きましたことを感謝します。


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