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(第13章-5)
最後の「独裁」継承者はフィクサー児玉誉士夫の小姓上がり

 読売の現社長、ナベツネこと渡辺恒雄は、小林が読売の副社長に転じた時期には、まだ政治部次長だった。それ以後の渡辺の急速な昇格ぶりは、「社会部帝国」といわれて久しい読売の体質にも、根本的な変革をきたすものだった。

 務台が会長として存命中には、務台会長と小林社長の主導権争いが噂になったりした。渡辺は、二人の間を上手に泳いでいると伝えられた。だが、大筋としては、渡辺を引き上げたのは小林だといえるであろう。

 ところが驚いたことには、渡辺が社長になってから編纂した『読売新聞百二十年史』には、「小林社長時代」の章がないのだ。務台が社長から会長の時代を「大手町時代」とし、その中に、たった一頁だけ、「務台・小林体制」を記すという構成になっている。その一方で、自分の社長就任以来の経過には、「一千万部の巨歩」と題する第五章に一一八頁も割いている。そこには、「社論の確立」などという時代錯誤な、いきがりの文章が溢れかえっている。『読売新聞百二十年史』が発表された時期には、小林は二度の脳梗塞の発作を経ていた。渡辺が小林を窓際扱いにしているという噂は高かったが、この最新の社史を見れば、その冷淡さは明瞭である。まさに『新王朝史』の構成である。

 小林が日本テレビ社長を経て読売社長に返り咲いたのち、渡辺は、政治部長から論説委員長へと急上昇した。政治部が人事的に優遇され始め、紙面でも政治面が優先されるようになった。このような結果の表われの一つとして、大阪読売で編集局次長の地位にあった社会部出身の黒田清が、定年以前に退社した。黒田は、その後、『黒田ジャーナル』を砦として『窓友新聞』を発行し続け、公然と読売を批判している。現・渡辺王朝は、従来の「社会部帝国」の主導権を剥奪した上に成り立つ、恐怖の新独裁支配体制である。

 すでに紹介済みの元読売社会部記者、三田和夫の『正力松太郎の死後にくるもの』には、「小林副社長“モウベン”中」という項目があった。小林は、正力の存命中に読売で、渡辺ら「若手」を集めて「勉強会」を開いていたというのだ。現日本テレビ社長の氏家斉一郎も、この「勉強会」の定例メンバーだったが、当時は経済部次長だった。

 小林はいったい、どのような魂胆で、渡辺と氏家を「勉強会」に引き入れたのだろうか。

 当時の読売では、販売を中心とする業務部門に務台、編集部門に読売伝統の「社会部帝国」出身の原四郎という、強力な実力者による住み分けが定着していた。その上の社長が空位でワンマン社主、正力が超然と君臨していたのである。

 自治省事務次官として国会答弁に立ったこともある小林のことだから、読売の政治部記者とは当時から面識があったに違いない。小林が、読売の編集部では二流の地位にあった政治部や経済部の記者を味方に引き入れようとしたのは、自然の成り行きだったのかもしれない。だが、よりにもよって渡辺と氏家の二人を重用したというのは、考えられる限りでの最悪の選択であった。

 かれら二人の読売記者の名前が、初めて世間に取り沙汰されるようになったのは、悪名高いフィクサー児玉誉士夫との怪しげな関係によってであった。かれら二人と児玉は、さらに、これもやはり悪名高い元「青年将校」こと中曽根康弘と結びついていた。新聞記者、フィクサー、政治家のトライアングルである。この典型的な政界の黒幕マシーンは、かなり前から続いていたようである。

 具体的な暴露のきっかけとなったのは、うやむやのままに葬られた政界疑獄、九頭竜(くずりゅう)ダム事件である。この事件は、一九六五年からの国会審議に登場している。石川達三の『金環蝕』の題材ともなり、同名で映画化までされた一大スキャンダルである。多くの疑獄関係書に、詳しい経過が記されている。

 政界の表舞台では、“マッチ・ポンプ”の異名を取った衆議院議員の田中彰治が暗躍した。陰には、十五年の人生を賭けた被害者がいた。水底に没する鉱山の経営者、緒方克行は、補償問題の調整を依頼するたびに、政界の黒い霧に包まれる。一九七六年に出版された『権力の陰謀』(現代史出版会)は、その緒方の告発の記録である。

 この出版のタイミングが、また、偶然にしては絶妙すぎた。児玉誉士夫というキーパーソンが、メガトン級の政界疑獄、ロッキード事件の主役として世間の注目を浴びていた最中だったのである。しかも、「ロッキード旋風の中で、『権力と陰謀』という本が話題を呼んでいる」という囲み付きのリードで最初に書き立てたのが、競争相手の朝日が出版する『週刊朝日』(76・3・26)だったから、なおさらに世間は耳をそば立てた。

 緒方は、「政界の黒幕として名高い児玉誉士夫氏を訪ねた」。児玉の返事は、「何とか調停してみましょう。すでにこの問題に携わるメンバーも決めてあります。中曽根(康弘)さんを中心として、読売政治部の渡辺恒雄君、同じ経済部の氏家斉一郎君に働いてもらいます」というものであり、運動費は一千万円請求された。緒方は一週間かかって一千万円を調達し、児玉邸に届けるが、その時には、「二人の記者も呼ばれていた」。結局、この調停は成立せず、児玉、中曽根、渡辺、氏家の同席の場で、一千万円は返却された。

 調停が成立しなかった背景には、中曽根の親分だった河野一郎の急死という事情もからんでいたのではないかと推測されている。さきの『週刊朝日』では、つぎのように追い討ちを掛けていた。

「調停が成功しなかったからと、預かった一千万円をそっくり返すあたりは、なかなかのものだが、児玉が急に手を引いた裏に、何か、“取り引き”めいたものがなかったかどうか」

 九頭竜ダム事件は、当時のメディア報道をにぎわした。かなりドギツイ、中心的な政治疑獄事件であった。問題のダム工事の「不正入札」には、時の首相池田勇人の政治資金調達がからんでいた。政界紙『マスコミ』には、「中部電力の九頭竜ダムの建設業者指名をめぐって建設業者が池田内閣に巨額の政治献金を行った」という趣旨の暴露記事が発表されていた。

 これほどの事件への怪しげな関係を暴露されながら、なぜ渡辺と氏家は、読売にとどまることができたのだろうか。この状態は、実は、かなりの異常現象なのである。

 新聞記者が、この種の、取材とは直接の範囲をはみ出た関係を結ぶことを、新聞業界では、「社外活動」と呼んでいる。暴露された場合には、社の名誉にかかわる不都合なことなのである。読売の場合でも、すでに紹介した元読売社会部の敏腕記者、三田和夫と、同じく遠藤美佐雄が、取材の延長線上で犯した「社外活動」の責任を取って退社している。ことの経過はそれぞれ、三田和夫著『最後の事件記者』(実業之日本社)、遠藤美佐雄著『大人になれない事件記者』(森脇文庫)のなかで克明に告白されている。

 渡辺と氏家が行なった「社外活動」は、その二人の先輩記者の例に比べれば、はるかに重く、犯罪的といえる性質のものだった。ところがこのとき、渡辺は、いささかの反省の弁をも述べようともせず、逆に、居直ったのである。

『現代』(80・9)誌上では、つぎのように記していた。

「時が時だけに、彼は苦しい立場に置かれた。『渡辺が辞表を出した』という噂も社内外に広がった。彼は、毎日、デスクに座って政治部中をにらみつけていたという。“われ健在なり”と誇示するためだろうか」

 いわゆる「ケツまくり」である。ドスを地面に突き立てて、もろ肌脱ぎ、「さあ、殺すなら殺せ!」という感じである。「まるでヤクザ」どころか、ヤクザが顔負けするほどのパフォーマンスぶりではないだろうか。この時期の状況については、各誌に種々な風評が載っている。同じ読売でも、伝統を誇る社会部帝国の記者たちは、二人の社外活動と居直りに対しての厳しい批判を隠さなかったようである。その時の積もる恨みが、渡辺が主流に踊り出てからの、報復人事となって表われたという説もあるほどだ。

 渡辺には、しかし、「ケツまくり」の効果について、確かな計算があったのではないだろうか。読売自体にも一蓮託生の疑いがある。渡辺の口から、地獄への道連れとばかりに、暴露されては困る事情が沢山あったに違いないのだ。

 渡辺自身は、さまざまな場で、事実関係についての弁明を試みている。たとえば自社発行の『週刊読売』(76・4・3)では「“魔女狩り”的報道に答える」と題して、自筆の弁明をしている。「その後著名になった会社調停工作事件のような話は聞いたことがない」とか、「調停工作スタッフ」とされたことを「我々にとって許せぬ侮辱だから、同書の出版社に抗議中だ」などと、しきりに息巻いている。しかし、実際には口先だけで、裁判に訴えてもいないし、その後に「同書」を引用した数多い雑誌、単行本に対しても沈黙を守ったままなのである。

 渡辺の事実関係についての弁明は、語るに落ちるの典型である。この「“魔女狩り”的報道に答える」という自筆の文章そのもののなかでも、「児玉は、一般的会食などの際、突然見知らぬ人を連れてくることが、一、二度あった」とし、『権力の陰謀』の著者を「突然短時間、紹介されたのではないかと思う」としている。著者の緒方克行と、児玉邸で会った事実は認めざるをえないのである。その上での逃げ口上でしかないのだ。ところが、その直後に、つぎのような文章が続くのである。

「私は、電発も通産省も知らぬので、経済部の氏家記者に調査を頼んだが、中曽根代議士を本件で補佐したこともない。氏家記者の話では、この“被害者”の言い分はかなり誇張されており、ニュース価値もないし、政治家や新聞記者などが介入すべきものではなく、民事訴訟で損害賠償を要求すべき筋のものだ、とのことだった。児玉にも、その旨告げて、以来何らの協力もしなかった」

 この経過について渡辺は、同時期に発行された『週刊新潮』(76・4・1)で、「その間、金銭の授受があったことも知らなかった。ボクも児玉に利用されたんだ」という弁解を組み立てている。怪しげな弁解だが、それならそれで少なくとも、「利用され」てしまったことの結果責任は負わなければならないだろう。

 渡辺は、しかも、この事件の発覚以前に、自社発行の『週刊読売』(74・8・3/24)誌上で、二度にわたる「ゲスト/児玉誉士夫」との「水爆インタビュー」に、「きき手/渡辺恒雄」として登場している。最近流行のヤクザがデカイ面で大手メディアに登場する「ハレンチ報道」の走りであるが、渡辺は解説部長の肩書きで、「決して表に出たことのなかった」“黒幕”の引き出し成功を、署名のリード記事にしている。相手の正体を知らずに「利用された」などと弁解できる立場ではない。


(13-6)「公開質問状」に答えない読売広報部の大手メディア体質 へ続く

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2003.11